2016年2月28日日曜日

落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加して

摂津池田城跡に関する埋蔵文化財の破壊を、あるべきものをあるべくように向けるか。それについての思索の参考に、落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加してきました。

日時:平成28年(2016)2月28日13:30から16:00
会場:大東市民会館キラリエホール
主催:大東商工会議所 商業部会
共催:大東市・NPO法人摂河泉地域文化研究所・大東のざき観光ステーション
後援:大東市商業連合会

この催しは、大東商工会議所商業部会が飯盛城を国史跡指定推進事業を推進しており、それについて、大東市市制施行60周年プレイベントとして、飯盛城国史跡指定推進プロジェクトの位置付けて行われました。

催しの冒頭に、商工会議所の商工部会長の挨拶があり、この一連の取り組みの意図の説明があり、それによると、大東市は近年、人口の減少が見られ、それに伴う商工業の衰微もおきている為、この取り組みで、いわゆる活性化たる賑わいの核にしていきたい趣旨もあるとの事でした。もちろん、市政としての内憂外患の打破にも期待しているようです。
 細かく書くと、色々あるのですが、大東市を上げての取り組みでもあり、市長自らもそれに理解を傾けて取り組んでいるようでした。いずれにしても、地域を上げての取り組みにしていこうとの熱意は感じられました。

個人的には、大和川開削後の歴史上で非常に重要な位置付けでもあった、平野屋会所跡の保存活動に失敗し、文化不毛地帯だと思っていた大東市でしたが、市長の交代で流れが大きく変わったと感じるきっかけにもなりました。


大東市で開催の落語と城トークの会場の様子

河内飯盛城は、現在、国の史跡登録に向けて、積極的に活動しています。ここ数年で答えは出ると思いますし、多分、指定は受けることになると思います。飯盛城は随分前から、それに価する遺跡だとの評価はされており、また、このところの国の省庁移転の取り組みで、文化庁が京都へ移る可能性が高まっている事もあって、周辺環境の色々な高まりもそれには好都合となるでしょうね。

会場は満員で、定員600名を上回っていたと思います。平均年齢が高かったのが気になったところですが、文化財への理解を広げるイベントになった事は確かだと思います。
 中でも、飯盛城についての「城トーク」コーナーがあり、週風亭昇太さんのコメントがすばらしく、会場の空気を一変させたと感じました。城好きで知られた昇太さんの、ある日の出来事を上げられてのお話です。

落語会の前に地元の城を見たくて、早めに現地に入られてタクシーに乗って、そこへ向かおうとした時のやり取りで、

昇太:
「◯◯まで行ってください。ちょっとお城跡を見たいんです。」
運転手:
「あそこに行っても何も無いよ。」
昇太:
「ちょっと、行ってみたいんです。」(...そりゃあ、何も残っていないかもしれないけど、何もないという今も見たいし、普通の人には気づかれない痕跡を見たいんだけどな...。)
運転手:
「ほんとに何もないよ。本当にこの街には何もなくて、だから人も居なくなって寂れる一方なんだよ。」
昇太:
「ん〜、難しい問題ですよね。私ちょっと城が好きなので、すいませんけど、兎に角行ってください。」

みたいな事があったようなんです。しかし、これについて、昇太さんが考える、文化財や遺跡に対する想いをコメントされ、それについて、私も感動しました。

昇太:
「そのタクシーの運転手さんは、家族とか、自分の子供にもこの街には何もない。だから何もできない。っていってるのかもしれません。でも、大人が子供にそういう事を言い続けるから、その子供もそう思ってしまって、地域を知るきかっけとか、それにつながる希望とかもいっしょに無くしてしまうんです。
 だから、大人がそんな事を子供にいってはいけないんです。知らないのなら、何も言わない方がマシだと思います。そんな事よりも、自分が少しでもそういうことを知って、ここには何があった、昔、こんな偉い人がいて、みんなを助けたんだよっていう、そういう言い伝えとか、地域の事(歴史)を中心に親子がつながる方が、よっぽど日常が楽しいと思うんです。」

といった、趣旨のことを発言され、私は本当に感動しました。その通りです。
 残念ながら、昇太さんが体験されたような事が、どちらかといえば普通です。私も常にそれを体験していて、悲しいくらいに普通です。食って、寝て、遊ぶだけの都市、現代生活になりつつあるのは非常に残念です。

このコメントが会場におられる人々に響いたのか、大きく頷く方も居て、その後のコメントも心の耳でコメントを聞いている方が増えたような感じにもなったように思います。会場の雰囲気は一変したように見えました。

細かなところは色々あったのですが、全体の結果としては、企画意図は遂げられていたのではないかと思います。これを機に、文化財への理解が進めばいいなと、心から願っています。



2016年2月27日土曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)

江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、流路が変わり、現在のような風景になったのですが、今もそれ以前の川と池の境目が残っています。結構な段差があるところもあって、それらの痕跡をその当時の地図と見比べると面白いです。

先に紹介した、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図を元に、池・川の痕跡を写真でご紹介します。地図の中に、a〜eまでの地点を入れてあり、それに相対して以下に写真を示します。

大和川付け替え前の川の流路

 a地点(古箕輪八幡神社付近):
東大阪市古箕輪にある古箕輪八幡神社は少し高くなっていて、このあたりから北に落ち込んでいます。北への見通しが利くため、戦前は陸軍の用地だったようで、今もそれを記す石標が残っています。
 江戸時代から戦後、昭和30年くらいまで、このあたりに舟が着き、港のようになっていました。また、この近くにある藤五郎橋あたりは、水位を調整するパナマ運河のような閘門がありました。

東大阪市古箕輪の古箕輪八幡神社の段差

b地点(加納2丁目付近):
東大阪市加納2丁目の旧集落の鎮守宇波(うわ)神社西側の段差です。ここは現在、戸建住宅の建築中で、次第に見えなく、気づきにくくなるでしょう。左側は、宇波神社の地車保管庫です。
 このあたりが段丘の最北端にあたり、水深もあった事から船着場だったようです。宇波神社は、写真の段差よりも更に上で、この段丘の一番高い所にあります。万が一の水害の被害を受け無いよう、村の人々の想いが伝わります。

 
戸建住宅のための擁壁は1メートル以上ある


c地点(今米1丁目付近):
今米1丁目付近の旧吉田川の川筋跡です。今はもう川はありませんが、大きな川だったようです。このあたりも結構な段差が残っています。 すぐ南には川中村が隣接していて、ここは、大和川付け替えに尽力した中甚兵衛公のご子孫(甚兵衛公兄の系統)が今もお住いです。中甚兵衛公には、大正3年に従五位が贈られています。江戸時代で言えば、ちょっとした大名が受ける位階です。中世でも通用する、高い位です。

今米1丁目付近の入り組んだ段差

d地点(水走2丁目付近) :
東大阪市水走2丁目付近は旧集落で、大津神社があります。この神社は式内社で、平安時代にまとめられた神社の叢書に出てくる、古い神社です。
 神社には、大津神社由緒として「当社は延喜式神名帳に載せられている古社にして、御祭神は大歳神(おおちしのかみ)の御子大土神(おおすなのかみ:土之御祖神:すなのみおやのかみ)で、字宮森に鎮座するとあります。創建の年月は詳らかではないが、伝説によれば、天児屋根命(枚岡神社の御祭神)の乳母津速比賣(つはやひめ)ともいわれています。
 社名よりして古代当地は、湖沼時代に沿岸地域での港津として重要な交通上の拠点として発展してきた地と推察されます。平安時代から室町時代の中世にかけての集落が営まれた水走遺跡と合わせ、土豪水走氏が河内の一つの拠点として拓き発展してきたものと考えられる。」と石碑に刻まれ、紹介文があります。
 古水走村は、吉田川の東岸に位置し、すぐ南には奈良街道が通っていますので、交通の要衝でもあったでしょう。


東大阪市水走にある大津神社

e地点(吉田本町付近) :
東大阪市吉田本町付近は、今も地形が少し高くなっていて、その半島のようになった地形の上を古い道が通っています。d地点の大津神社から200メートル程南にある吉田本町郵便局のすぐ西側は、写真のような断崖です。2メートルくらいはあろうかと思います。湖だった頃、水深は結構深かったのだろうと思います。

東大阪吉田本町郵便局の西側あたり

f地点(稲葉1丁目付近):
玉串川が北上して分岐すると、東に注げば吉田川になります。玉串川は西側に注いで行きますが、その川筋跡が残っています。稲葉1丁目付近の段差がそれで、写真のように、結構高さがあります。写真の右手前にある道を行くとすぐに、稲葉神社があり、樹木の右手には近畿自動車教習所があるところの段差です。

近畿自動車教習所の南側境界のあたり


g地点(吉田1丁目の花園商店街付近):
東大阪市吉田1丁目の花園商店街の中を府道15号線が通っていますが、商店街なので、車の通行は難しい雰囲気なのですが、通れなくは無いです。しかし、商店街が賑わっていた頃は、朝晩以外は買い物客が行き交っていたでしょうし、日中は無理だったでしょうね。そういう所に府道が設定されているのは、昔からの大動脈だったからです。
 そんな道の脇が断崖です。ここも2メートルくらいはあります。玉串川から吉田川になる分岐点のあたりです。川に沿って道があり、駅ができたので、その道が商店街になったようです。
 このあたりの実際は、なだらかに高低差がついているのですが、写真の場所は生活の都合上、削ってしまって垂直な角が出ています。幸か不幸か、そのために、高さが見た目にも分かり易くなっていますね。


東大阪市の花園商店街に沿った断崖



他にも色々あるのですが、今回はこのくらいにしておきます。また追い追い、増やしていきたいと思いますので、どうぞご期待ください。
 当たり前のいつもの景色も、その理由を知れば、とても興味深く、見え方も全く変わります。今回ご紹介した池・川跡は、先人が豊かな地域づくりの為に開いた痕跡でもあり、確実に今に繋がっている事なのです。

日常の何気ない凸凹ですが、面白いでしょ?

【関連記事】
東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる

2016年2月13日土曜日

池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その3:個人的な感想)

池田勝正という人物を調べてみて、「歴史」というものについて考える時、私は、決して社会の中の一分野であるべきでないと思うようになりました。
 先人の社会は不完全な部分があるように見えますが、そこには原則や真理、また、その営みの連続が現在にも繋がっているのですから、同じ失敗をする事の無いように、私たちの有効的な智恵として、歴史を捉えるべきだと感じます。

一般的には、歴史の全てを知る必要はありません。しかし、代表的な事は知っておいた方が良いと思います。また、大き過ぎるものよりも身近で手軽なものになるべく接するのが良いと思います。
 地域の文化財は、国宝や重要文化財(確かにすばらしい)よりも庶民的で、地域性があったり、創意工夫があるものも多いのです。そして、地域の文化財も国宝や重要文化財と同じように、何百年もの歴史を持ちながら、しかもお金をかけずに、すぐ近くで触れられます。

人間は生まれてから、現時点に至るまで、色々な経験を得ます。悪い事も良い事も、色々と経験し、事の善悪を判断するようになり、その中から、自分のあるべき方向を見い出します。同じ失敗をせぬよう、これまでの自分の経験を生かして、行動します。これは、その人の時間の重なりであり、歴史であるといえます。

さて、みなさん。もし、同じ失敗ばかりする人が居た時、その人を見てどう思うでしょうか?過ぎてから気付き、事前に問題をよく考えずに行動してばかりで、より良い結果が生まれるでしょうか?これまでの経験や人との繋がりの中でよく考え、一番良い方法を選ぶのが最善の筈ですよね。

日本の国や地域の社会とて、個人のこういった行動と同じです。

今は国家制度としての教育(学校)があり、自由に学べる社会ではありますが、結局、それがために分野化され、細分化された「歴史」というものが、社会の役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています。
 私は、いわゆる「歴史」というものをそのように見たり、感じたりしています。地域(国にも)には、地域の歴史があり、それが地域の性格を形成しています。また、色々な状況(環境)に影響を受けて、絶妙な均衡を保ちながらカタチ作られています。
 
地域とその歴史を知る事は、よりよい未来の選択のため。また、その個性を知る事は、よりよい発展のため。それらを知るためには、科学に裏付けられた公平な歴史を残して(記録や調査)おかなければなりません。
 そういう環境を経ることで、その向こうに、心のよりどころとすべき、優しく豊かな社会が見えるのだと思います。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その2:歴史研究が進む中で期待される地域史)

最近、中世時代の研究が進んで様々な分野の解明成果が発表されています。中世は社会が乱れ、移動も少なからずあり、また、戦乱で史料が亡くなっており、まとまった史料がありません。それ故に断片的で散在する史料の検証は進みませんでした。
 このために勝者側の比較的まとまった史料だけが研究対象となってしまい、実際にその権力を支えた地域の人々の実態は埋もれていました。
 しかし、その両方を比較検討する事で、その当時の実像が明らかになりつつあります。これは科学的歴史を継承する観点では、大変なレベルアップです。これまではやや推定を含む感情的・創作的な傾向が強かったため、誤解も多くありました。
 そういった研究が進むにつれて、地域史は大変重要度を増し、注目される環境にあります。地域史は、その地域にとってもより良い発展のための基礎データともなり、また、旧社会制度の解明にも役立ち、より広域の様々な分野に対する研究にも役立っています。それは、日本国内だけではなく、世界規模に及ぶ事もしばしばです。一地域の歴史ではあるのですが、それは「世界共通概念」が凝縮された歴史でもあるのです。

そんな中にあって、地域の歴史はやはり、地域の人々にしか見えて来ない性質がある事を知らなければなりません。その地域に住まなければ、やはりその地域の事はわかりません。逆にいえば、大きな世界の答えが、小さな地域の出来事と相対していることも多くあるのです。地域史は大きな可能性を秘めていると感じています。
 しかしながら、現代は移り変わりが、急すぎる程急です。山も川も丘も、あっという間に変形し、消滅します。こういう現代だからこそ、なお、地域史の発展の基礎は、その地域の人々の目と志しが重要となっているのです。なにしろ、地域の核となるべき人(住民)も、移動が当たり前の時代ですから。

かく言う、この私もそうなのですから。地域史という分野は、風前の灯なのかもしれません。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その1:池田勝正の真実を知るための在野研究)

(1)池田勝正の真実を知を知るための在野研究
池田筑後守勝正の実像を知るには摂津国人である池田家そのものの歴史をひもとく事が必要です。研究者などによる学問の発展により、その当時の記録には摂津池田家の記述が頻出している事がわかってきました。しかし、摂津池田家についてのまとまった研究というのは、なぜか現在も皆無です。
 人物・特産・出来事・交通など様々な分野でも少なく無い資源を持つ池田ですが、その中興的な基盤を作った摂津池田家の研究が殆ど無いというのは、非常に残念な事です。
 
そんな理由から、実質的な最後の当主である池田勝正について調べ始めました。しかし、勝正について、現在伝わっているものは、事実無根のものが多く、勝正没後に作られた、ある意図を帯びた作為的なものばかりです。それらは、自家の正統性を主張するために生み出された創作です。

歴史というものは、勝者の歴史とも言われる事がありますが、現代科学の発展した今を生きる私たちは、「事実はどうであったのか」を検証し、これまでの伝承を補正・整理しながら未来へつなげる事もしておくべきだと考えます。この後も持続的にこの試みが成されれば、きっと大きな成果が上がる事でしょう。

この私の試みは、小さなものですが、未来への役に立つなら、それが目的の到達点であり、大変嬉しく思います。私が先人の研究から得たように、私も何らかの継承ができればと願っています。


池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (はじめに)

池田市は常々、「歴史のまち・文化のまち」と自分自身を形容する事が多いのですが、私個人はそれに対して少々懐疑的です。
※最近は、その環境を鑑みて、ついにそれを標榜しなくなりつつもあります。

昭和の末期、図書館で見る資料を見れば、その頃の池田市教育委員会は、大変意欲的に文化財の保存と活用に向き合っていました。それが今はどうか。何が違い、そうさせているのか。
 詳しくは、池田市埋蔵文化財発掘調査概報を図書館などで、ご覧いただけたらと思います。書いてある事と実際がどうなっているのかが判ります。

さて、今の池田市のルーツともなった中心部地域については、全国的にも注目される要素が沢山あります。その地域については、しっかりとした考えと計画をもって進めてもらいたいものです。

今は代替わりの時期です。また、時代そのものも変わりつつある、その真っ只中です。これまでとは違う日本になっていきますが、過去を知る必要が無いとは思えません。また、過去がどうであったか、その先に生きる科学的事実を市民(子孫)に伝えなくていいとも思いません。
 個人的に思うことですが、こういう地域の歴史に熱心に取り組む自治体というのは、現代生活にも、非常に活力があるように思います。その逆の地域は、色々な問題解決も膠着状態で、勢いが無く、寂れているところが多いように感じています。

どんどん街並みは変わり、技術も変わり、嗜好も変わります。いつまで経っても昭和のままのルールと手法。これで、変化のスピードに適うはず無いのです。

私は思います。「食って、寝て、遊ぶ」だけの文化って、先進国として自慢できますか?それはすばらしい事ですか?
※現実生活を否定している事ではないので、それはおわかりいただけると思います。

私が2005年頃に書いた、池田勝正を研究して学んだ文化財について、感じたことを以下にご紹介し、そういう世界(感じ方や考え方)も知っていただけたらと思います。

(1)池田勝正の真実を知るための在野研究
(2)歴史研究が進む中で期待される地域史
(3)個人的な感想



2016年2月11日木曜日

1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。

これまでにご紹介した「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)」にも自分が書いた事なのですが、将軍義昭政権の初期の段階で、織田信長は経済政策に失敗しています。
 日本の歴史としては、織田信長の執った政策は、日本の政治史発展に大きな貢献をした事は明かですが、しかし、当時を生きる人にとっては、大波乱の時代でもあった訳です。

写真1:池田市細川地域から出土した古銭
詳しくは、上記のページをご覧いただければと思いますが、言いたい事の核として部分的に取り上げると、「それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した。」と記述しているところがあります。
 池田家の内訌は、この翌年の6月ですから、加担する政権の経済的な失敗が見えてくる時期でもあったと思います。もちろん、池田家内訌の理由がこの一つの要素だけでは無く、他にも色々あるのですが、経済的な要因は、今も昔も変わらず、判断するための大きな要素になります。

こう言う背景要素もあって、先鋭的で、性急な判断に迫られるような事が起きた場合、議論は紛糾し、刃傷沙汰に至りやすくなるものと思われます。そういった中で、1570年(元亀元)6月の池田家内訌に至ったのでは無いかと、ふと、思いつきました。

写真2:出土した古銭の代表例
この、気づきというか、ヒントはまた広い視点持をちつつ、深く掘り下げてみたいと思います。

【写真1】昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に出土した古銭で、写真のような状態で発見された。古銭は、年号による種類では48種類、書体による選別では93種類で、分類不能なものは555枚。総合計18,317枚。発見された古銭の年代の開きは約800年。
※出典はグラフいけだNo.18 (1972年2月) より。
【写真2】開元通宝は、西暦621年に初鋳された唐銭で、この発見の中では最も古い。永楽通宝は、西暦1411年に鋳造され始めた明銭で、室町時代の日明貿易によって大量に入り始め、江戸時代初頭まで流通した。織田信長はこの永楽通宝を旗印にもしている。
※出典は同上。



2016年2月3日水曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(はじめに)

中世の摂津国大坂周辺は、江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、現在のような流路になるまでは少し風景は違っていました。当然、その付け替え以前は、交通を始め、様々な要素が、その後とは違います。摂津池田衆の家運が最盛期だった室町時代末期頃も、その事を踏まえて見ていく必要があります。
 この大和川付け替えについては、大東市立民俗資料館で判りやすく学ぶことができます。また、淀川の治水の歴史については、枚方市にある淀川資料館で詳しく見ることができます。現在の災害の無い、豊かな生活を送ることができるのは、壮絶とも言える先人の努力のおかげである事がよくわかります。
 淀川資料館では、近現代に功労のあった、外国人技師のエッセル、デ・レイケ、沖野忠雄技師、大橋房太郎大阪府議の志には、本当に感動します。特に大橋府議は、献身的な努力を生涯に渡り続けられ、水害で苦しむ人々を減らすべく、尽力されました。何しろ、私の生まれ育った「放出(はなてん)」出身の偉人です。出身が庄屋の身分であったにも関わらず、亡くなる時には借家住まいとなって、私財も全て注ぎ込んで、大阪府民のために働かれた方です。葬儀は府葬で、その見送りには多くの人が感謝を捧げたとの事です。
 感情移入してしまいました。淀川資料館も機会があれは、是非、見学してみて下さい。淀川は身近なのに、知らない事ばかりでした。学校で教える事も無いと思いますので、是非お子さんを連れて、見学をされて、淀川縁でお弁当でも食べて、のんびり楽しんでみてはいかがでしょうか。
 
以下の図は、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図です。


大和川付け替え前の川の流路

 
さて、以下に散文的に昔の大坂周辺の川や池についてのコラムを増やしていきたいと思います。どうぞお楽しみに。

東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡
戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
・大東市に残る昔の川の跡



2016年1月25日月曜日

ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事

去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。

◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏)
◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏)

飯盛山山頂から南西方面を望む
今回は私にとって特に中西氏のお話しに興味を持ちました。中西氏は、プレゼンテーションソフトのパワーポイントを使って、ビジュアル的に説明され、一般市民向けに理解しやすいように工夫されていました。
 内容は、飯盛城を中心として、それに関する近隣の城などの比較を含めて、特徴を説明し、その存在意義を説明されていました。また、レジュメには、三好長慶の永禄4年頃の支配領域図と共に、その域内にある城と、その外周にある重要な城が載せられていて、その図を元に城の説明が進んでいきました。

個人的には、こういった城の配置や大きさについて、それぞれ単体で存立しているものでは無く、連携機能を元に考えられたものだろうと感じています。また、誰(地域)と敵対するかによって、組み合わせが変わっていくものとも思います。
野崎観音寺(城跡)から北西を望む
いわゆる、本支城関係がこれにあたり、敵の居る方向によって城の配置と、本城を置く場所も変わり、それに相対して支城の連携も変わると思います。

例えば、永禄4年頃には、南河内の畠山氏勢力が、三好長慶に敵対していましたので、それに向かうための人員配置と城の置き方となります。加えて、畠山氏に連動勢力が、紀伊・大和・近江国などにあり、その後背勢力にも対応するために飯盛城・信貴山城(高安城・二上山城・立野城含む)・多聞城・鹿背山城が拠点となり、その周囲の支城と連携した地域防衛(攻撃も)体制を構築するといった感じではないかと感じています。
 他方、拠点には重要(政権中枢)人物が入っていますので、それぞれが連絡・連携できる状態で、相互補完もできるようになっていたのだろうと思います。「面」で防御するイメージというと判りやすいでしょうか。
北条集落から飯盛城跡を望む
飛行機の無い時代の戦争は、「後詰め」が非常に大きな役割を果たします。これは、「将棋」のやり方をイメージをすると判りやすいと思いますが、駒1つだけを意識しても、攻めも守りもできません。駒同士が、如何に連携しているかが駒を動かす理由になります。何重にも関連した手を打てば、相手は崩しようがありません。

私は城の配置や機能(役割分担)も、基本的にはそのように考えられていると思います。ですので、連絡を取り合うための施設が必ず城内や隣接して存在しと考えています。例えば、狼煙や鉦、鏡の光を使う、旗などを使った方法で周辺の城と連絡を取るような施設があったと思います。ですので、そういった城から視界が利く方向は、連絡を取る必要があった城と、敵を見張る事ができる方角(仮想敵の方向へ開けている)だったと思います。

それから街道は、敵の流れを止めつつ、物や人の移動など、自軍に都合良く使うために工夫をしておかないといけません。そういった事も考慮された本支城の構築だったろうし、軍勢が集まる拠点としても、本城というのは、重要であったのではないでしょうか。
個人的に考える本支城の関係と広域地域ネットワーク
戦国時代も後期になると、人の数、物資の量も飛躍的に多くなりますし、それに加えて迅速に移動させる必要が出てきます。

ですので、私の考える城の配置は、政権中枢の人物が、地域支配を行う本城を持ち、地域支配のためのグループ化が行われた人物がそれぞれの支城を持つ。そしてそれらのグループ同士が、互いに連携して、広域のネットワークを持ちながら、より広い面の軍事支援補完を行うというカタチになっていると思います。
 ですので、人の立場と役割が、そのまま城の機能と大きさになっていくのだろうと考えています。まあ、ある意味、それが自然な成り行きだとも思います。重要なところに重要人物が居て、その城も大きいというのは...。

この頃の城については、そのように考えたりしているのですが、シンポジウムの質問の時間には、それについて訊いてみなかったのですが、またいつか、専門家でもある中西氏などに訊いてみようと思います。



2016年1月24日日曜日

池田四人衆の事について(はじめに)

摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較にならない程の差になったと考えられます。

池田四人衆とは、守護職家でいえば、守護代のような、近世大名の組織体制でいうところの家老のような、当主と同等の権力を持つ執政機構といえるのだろうと思います。
 四人衆は、勝正が当主の時代から見ると先々代の信正の代に創設されたと考えられます。これは信正が、管領である細川晴元の重臣で、その側に仕えるために京都の屋敷に居住していた事から、本拠である池田城に当主の分身を置くために考え出された体制のようです。
 四人衆はその名の通り4名で構成され、個人的には、その内の2名は京都で当主の補佐を行い、一方の2名は池田に居て、本拠地の管理を行ったものと考えています。

その後、池田家が大きな勢力に成長して行く過程で、離合集散を引き起こしながら、管領機構である四人衆自体が当主と対立する程の「権力体」になってしまいます。皮肉な事に、池田家を成長させた官僚機構が、滅亡の原因となってしまったとも言えます。

以下、池田四人衆について書いた項目をまとめてみました。また、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。論文的に、体系的な書き方もできていけたらと考えています。