2015年3月17日火曜日

戦国時代の影と闇(はじめに)

戦国時代とは、応仁の乱から徳川幕府の樹立で、争乱が一応沈静化するまでの期間を捉えてそう呼ばれています。
 基本的には話し合いで問題を解決をしようとはしますが、武力での解決も合法化させていた時代が戦国時代です。殺傷は日常的で、生きることは戦いでした。弱い者は生きていけません。
 現代と比べると野蛮で、危険な事も日常的に溢れていました。やはり、今の方が何においても優れており、平和で安全です。私は懐古主義でもなく、戦国時代好きでもありません。社会の歴史の発展を見る機会になればと、ちょっとコラムを考えてみました。過去を知り、今の社会の意味を実感する事にもつながればと思います。

(1)病気に苦しむ人々
(2)喧嘩から殺し合いになる事も日常的
(3)人質が串刺しになる時代
(4)海岸に生きたまま捨てられる赤ん坊
(5)海賊・盗賊に追いかけられる人々
(6)個人は組織に所属しなければ生きられない時代
(7)度々ある大火
(8)無政府状態となる争乱地域



2015年3月16日月曜日

キリシタンと摂津池田家(はじめに)

ポルトガル船が日本へ辿り着き、鉄砲の伝来となったとされる年が1543年。続いてキリスト教が日本へ上陸したとされる年が1549年。これらの経緯は学校でも教わり、日本人の多くが知るところです。しかし、その細かな地域との関わりまでは、知らない人が多いと思います。
 キリスト教伝道師は、地方での布教よりも、日本の首都での布教と地位の向上を企図し、京都とその周辺、堺などに拠点を設け、積極的に活動します。その為、年々京都とその周辺で信徒も増えていきます。その活動について、宣教師により克明に記録され、その中には池田氏についても記述が見られます。
 池田のヒト・モノ・コトとキリスト教について、以下の項目毎にご紹介してみたいと思います。

(1)摂津国余野殿の妻マリヤとその娘(高山)ジュスタ
(2)北摂地域とキリシタン
(3)荒木村重とキリスト教
(4)池田の都市とキリスト教



2015年3月15日日曜日

池田教正が関係していた可能性のある永禄10年2月の池田家内訌(はじめに)

池田丹後守教正は、「正」を持つその諱(いみな)、活動地域からして、摂津池田家出身の武将であろうとする説が有力なのですが、今のところ史料上の決め手が無く、結論が出ないまま、半ば放置状態です。
 私も個人的には、それらの説を概ね受け入れてはいますが、断定できる史料を見つけるに至っていません。1528年(大永8・享禄元)から1579年(天正7)までについて、私がこれまで見てきた中で池田教正に関する素材を集め、一旦整理をし、研究発展の今後に期待しつつ、多くのご意見を受けたいと思います。

(1)永禄10年2月の池田家内訌を見る
(2)三好義継・松永久秀の重臣だった池田教正
(3)キリシタンとしての池田教正
(4)茶の湯の記録に登場する池田教正
(5)荒木村重と池田教正
(6)河内国若江三人衆と池田教正



2015年3月14日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(備考:『荒尾市荒木家文書』天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状)

この史料については、写真があるので、許可や環境が整えば公開したいとも思っている。しかし、今のところ、文字のみをご覧頂く事にする。
 史料について、発表時の会報『村重』創刊号でも、若干の考証がされている。加えて、個人的にも専門家に聞いてみたが、「正文ではない」旨の回答だった。
 史料についての筆者の考えは論文にして述べた。もう少し補足するとすれば、この文書を受け継いだ人々の誰かが、重要な文書であるために、できるだけ復元しておこうと、朱印部分などを加えたりしたが故に、全体的な価値や判断を狂わせるような自体にせしめたのではないかと考えたりもした。

痕跡も無いものを作る事は困難だと思われる。何らかの端緒があって、また、そのものがあって、現存のカタチになっている事は間違いないと思う。それに、この一点だけが伝わっているのでは無く、村重に関する史料が数点(会報に掲載されているのは4点)、荒木家に伝わっているのである。

くどいようだが、筆者はこの史料の価値は、全く無いとは言えないと考えている。

以下、天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状の翻刻。

今度其の元忠節の事に依り、摂津国江(与?)河内之中相添え、都合四拾万石宛行われ候条、以後忠勤抽んずべく候也。

天正三年二月 (信長印)
    荒木摂津守殿








2015年3月13日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)

天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろうと思われる。
 天正3年2月当時、信長が「摂津・河内」という重要地域の一職知行を村重に約した意図は、それによる京都(政権)の安定と大坂本願寺への布石として期待しためと思われる。織田政権の基礎作りにおいて、土着性を持つ村重に対し、摂津国に加えて河内(半)国をも任せたのは、特別な理由があった。
 それは信長が、複雑な政治情勢を考慮して、元々基盤のない畿内で分国を持つ事に慎重だったのではないかともされており、摂津国大坂に本拠を置く本願寺宗と敵対するについては、早急に在地勢力を取り込んで体制作りを行う必要があったためと考えられる。
 しかしながら、荒尾市荒木家文書の内容の問題としては、天正3年11月頃から村重は「摂津守」を公(おおやけ)に名乗るが、それ以前に信長が、公文書に摂津守を明記するかどうかという点がある。
 ただ、これまでに述べたように、織田政権の領国統治概念と当時の状況から考えると、有望で実質的な一職者である村重に対する、正式な(若しくは、新たな加増分の支配者として)一職知行契約の提示と考えるならば、時期的にも矛盾は無いように思われる。実際にこういった形の一職提示は、浦上宗景・三村元親 *21・播磨国守護系赤松氏などへの対応で多く見られる。
 先にも述べたように、天正3年11月には確実に、村重は自ら摂津守を公に名乗っているが、それは信長からの条件を満たした事で承認され、公的に摂津守を叙任した背景があったからなのかもしれない。
 何れにしても村重のその行動を支えたのは、地域内の一職契約と守護的裏付けがあったためと考えられる *22。また、然るべき時期に契約が提示された事は、村重の織田政権に対する、将来への基礎的な信頼関係構築ともなり得たであろう。

拙いながらも筆者が述べたように、文書自体の真偽は別としても、荒尾市荒木家文書については、それを発行するに至る、当時の政治環境が整っていように思えるのである。学界での研究論文の一部ではあるが、それらに照らしても、同文書(史料)は、公的な文書として成立する背景が全く有り得ないとは言い切れず、その可能性について筆者は、再び多角的な検証を行っても良いのではないかと考えるのである。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(20)八木哲浩編『荒木村重史料』伊丹資料叢書四(66頁)。
(21)「織田信長が八月五日付けで三村元親へ宛てた音信」『黄微古簡集』岡山県地方史研究連絡協議会。
(22)前掲註(6)、「三 一職支配=一円知行の本質」(補論)。







2015年3月12日木曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:二 村重の河内国との関係)

摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16も多々あった。
 永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
 その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
 こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
 信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
 河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
 それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
 その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
 一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19
 このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。


【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。







2015年3月11日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:一 摂津国統一過程と周辺環境)

荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。
 天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
 そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
 同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
 そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
 このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15
 織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。







2015年3月10日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:二 柴田勝家の場合)

織田信長は将軍義昭の追放を決して以降、独自に「天下」を掌握しようとした頃から、一職支配・守護補任をし始める。長岡(細川)藤孝に山城国桂川西岸地域の一職を与え、塙(原田)直政に山城・大和国の守護を与えている。直政の両国守護は、当時でも前代未聞としている。
天正3年9月、信長は重臣の柴田勝家を越前国に封じた。その際、信長により「越前国掟条々」との朱印状を与え、織田政権下の一職支配において、統一権力としての支配原則とそれを委ねられた武将の関係を規定している。
 その中では、大綱をいくつかに分けて記されているが、特に第六条に「大国を預置」とし、それに対し「越前国之儀、多分柴田令覚悟候」とある事に脇田氏は注目している。これは、信長にとって越前国を柴田に預けたのであり、いつでも返却の義務を負うとの意味であるとしている。また、信長はかかる家臣への支配を、より強力にするために「目付」を置いている。
 しかし、一方で信長は、そういった任免権を完全に掌握しつつ、地域采配での一定の裁量権を柴田に与えている。これにより柴田は検地を行った上で、実際に知行の宛行いを執行する事も、一職支配には含まれていたと分析されている *14
 このように、一職支配下の地域においても信長が掌握しており、信長は上級土地所有権を確保しながら、政策の徹底管理をし、更に、人間関係をも規定して、管理不行き届きによる離脱や変転を未然に防ぐ策を講じていた。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(14)前掲註(5)、「二 統一権力と一職支配」(第三章 第一節)。







2015年3月9日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:一 守護と一職支配の関係)

織田政権における一職支配がどのように成立したのか、脇田氏の分析 *13を見ておきたい。
 織田信長が尾張国の支配者となったのは、永禄2年(1559)春、同族で同苗の信賢を降した時であった。これを以て信長は直ちに上洛し、将軍義輝に参勤して御礼を述べている。
 これは、信長が実力で一国の支配者となった事に対し、その権力の裏付けのために将軍の承認を求めたのであった。永禄11年秋、信長の上洛直前までの名乗りは、一国支配権としての尾張守護権継承であって、尾張国の正統な支配者としての地位を示すものであった。地域支配権としての一職は、守護ないし、守護に准ずるものと捉えられている事が明白であると分析されている。
 それから後、信長が京都において独自に政権を築く中でも、それと同様の概念が存続していたと考えられる。『信長公記』に「惣別、荒木ハ雖一僕之身に候、一年公方様御敵之砌、忠節申候に付て、摂津国一職に被仰付」とあり、荒木村重が「摂津守」を名乗り、摂津国を支配した事は明らかであるから、一職支配と守護の関係は密接であった。織田政権の一円知行は一職支配として記載され、それが守護権の継承である事も明らかである、と述べられている。
 また、実質的に村重が摂津国内を切り従える過程で、在地における複雑な土地所有、権利関係、領主・農民の階級関係は、領主からすれば安定的とは言えず、村重としては、より上級の強力な権力の保証が必須であり、織田政権による一職を必要としたとも考えられている。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(13)前掲註(6)、「一 一職支配と守護権」(第三章 第一節)。







2015年3月8日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:三 家数改め)

織田信長は、指出・検地と共に領国内で家数改めを行った。この家数改めは、直接百姓を人身的に把握しようと試みたものとされている *12。夫役(役務)徴発は、家数改めを基礎に行われた。
 家数改めは、支配領域拡大と共に順次実施され、近江国では永禄11年頃から数年かけて、河内国では天正4年頃に高屋城を中心とした南部方面で、また越前国等でも行われていたらしい。
 このような織田政権の領内の人身把握によって、様々な夫役が課せられた。出陣時の陣夫(兵としても)・建設用務や日常用務、竹・藁・縄などの供出があった。
 信長は、この家数改めについて一定基準を作りつつ領内の把握を行い、必要な要素を速やかに徴集した。また、地域を一職支配している柴田勝家などの武将もそれと同様に管理していた。



【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(12)前掲註(6)、「四 夫役徴収の実態」(第五章 第二節)。