2015年3月3日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:二 信長の社会的地位)

永禄11年秋の入洛後、信長は、幕府・朝廷からの役職・官位授与を固辞し続けていたが、元亀4年(天正元)に将軍義昭が京都を落ちた後、その方針を変える事となった。
 信長は、義昭の子息義尋(よしひろ)を庇護・推戴しつつ、天正2年3月18日に参議・従三位となり、以後、年毎に昇進する。翌年11月、権大納言・右大将に任官し、この時点で自ら開幕可能な地位(元亀4年7月時点の義昭は、権大納言・征夷大将軍・従三位。)に就いた。これにより、室町幕府から自立する土台ができ、公にもその事を喧伝する事となった *3
 因みに、信長はこの年7月、官位昇進の勅諚を一旦辞退したが、一方で勅許を願い出、主立った家臣へ惟任・惟住・原田等九州の名族の称を各々に与えている *4。もしかすると村重の「摂津守」の正式な名乗りも、これに関係したものかもしれない。
 また、同年に信長は、家督を嫡男信忠に譲ってもおり、この年は織田政権にとっての画期であった。そして同6年正月、信長は正二位に昇った。
 この信長の、将軍義昭追放後からの積極的な任官は、京都という全国市場の中枢支配において、有利な現実があったためと考えられている。また、次第に信長は、武家としての強力な政権を築いたが、その決定的な力を持ちつつも公家や寺社の否認に使わず、保護を行った。このために用いるべく術(方法)として、任官も大きく役立ったらしい。



【註】
(3)藤田達生「室町幕府体制との決別」『本能寺の変の群像(中世と近世の相克)』雄山閣出版(第一章 4)。
(4)前掲註(1)、「一 薩摩下向の目的」(第一部 第三章)。







2015年3月2日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:一 基本政策)

最近の研究では「天下布武」の印を使用するようになったのは永禄10年とされ、織田信長はその頃から、領国の外側にも意識の概念を形成するようになったようである。
 その2年前、京都では13代室町将軍義輝が、三好義継等によって殺害される政変が起きていた。そして間もなく、互いに足利の後継たる正統を掲げて、義栄と義昭が家督を争った。
 中でも義昭は、義輝の実弟でありながらも思うように事が運ばなかったが、その実現が危ぶまれたところで信長と出合い、一気に入洛を果した。そしてまた信長も義昭との出合いの中で、自らの構想に現実性を帯び、直ちに実行した。
 更に、この信長の行動を支えたもう一つの要素として、織田家の朝廷との関係もあげられている。この二大要素が、信長への強力な求心力となり、天下布武印の使用も含めて「侍」結集の論理となったようである。
 信長は、永禄11年秋の入洛について、朝廷から奉書を受けた事も理由に含めており、元々複数の大義を一体化させていた。彼は上洛途上、近江国内に入ると、それまでの名乗りである「尾張守」という地域覇者から「弾正忠」という、朝廷をより意識した位階に変えている。これは社会的身分を下げてまでも自らの想いを実行 *1しているのである。
 また、将軍義昭政権を樹立直後、直ちに禁中修理と将軍の新第を築造する工事に取りかかった。これについて信長は、21カ国の諸大名・諸将に宛てて触れ状を発給し、従わなければ公武の命に背くものとして討伐する意を示した。
 橋本氏によるとこれは、永禄12年1月14日に、信長から将軍義昭へ提出された「室町幕府殿中掟」とその追加条項とも連動しており、諸大名には将軍義昭へ臣従させながらも、その将軍義昭には朝廷への忠勤を疎かにさせないよう特に規定する事で、諸大名の将軍への一極的従属性に制限をも設けるという、信長権力の位置と威勢を示したものであるとしている *2
 後に天下統一について信長は、手法の違い等から将軍義昭と対立したが、結局は打ち勝って、朝廷との関係を更に深めて行く事となった。やがて、自らの天下の構想について信長は、厳格に規定して制度をも作り上げていった。


【註】
(1)橋本政宣「二 織豊政権と朝廷」『近世公家社会の研究』吉川弘文館(終章)。
(2)前掲註(1)、「一 信長の禁中修理と二つの文書」(第二部 第一章)。






2015年3月1日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(序文)

個人的に本会会員のM.A.氏と親しく、色々と意見交換する中で、会報『村重』創刊号の「熊本県荒尾市の荒木氏系図」の話題となり、お手持ち分から該当項を送って頂いた。
 その中の史料で、織田信長が天正3年11月付けで、摂津・河内国内に都合40万石を荒木村重へ宛て行うとした朱印状(以下、荒尾市荒木家文書と表記)に興味を持った。但し、同じくM.A.氏提供の同文書の写真を見ると、月付けは11月では無く、2月である事が判明した。
 そしてまたこの伝承文書については、同文中で見解が示されており、「これは朱印が薄くはっきりしなかった。もうひとつは宛行状の文面にある「四十万石」が、当時のものとしては問題がありそうだということであった。これはそうであろうと思われる。つまり、この頃は近世のように検地による正確な測量が行われていないので、小規模な丈量はしても、大規模な領知を石高によってあらわすことはしなかったと考えられる。」とある。
 しかしながら、「このような問題はあるが、荒木氏に関する文書が同家に伝わった事については、何らかの大きな意味があるはずである。」と完全に否定できない背景や、何らかの可能性があるとの考えも添えられている。

信長文書としての真偽の吟味は別として、筆者もまた、この荒尾市荒木家文書について、内容の成立環境が整っていた可能性があり、人間的信用や当時の社会的契約としても、妥当な事実が存在した痕跡ではないかと考えてみた。
 また、今回はこれまでのように個人研究の中から探求する方法に加え、既に専門家の詳細な研究が存在する事から、それらを組み合わせて紹介する事で、限られた字数によって大きなテーマを考察するには効果的であると考えた。以下、脇田修氏や橋本政信氏の論文を中心に取り上げながら、その根拠を述べてみたい。








2015年2月28日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(はじめに)

当時、私が会員であった荒木村重研究会会報に載せるべく、荒木村重が摂津国及び河内北半国も領有(40万石)した事について「荒尾市荒木家に伝わる信長朱印状の一考察」と題して書いた原稿です。結局この原稿はボツになりましたので、多くの皆様の批評を受けたく思い、ネット上に公開する事に致しました。平成22年(2010)秋頃に発行された10号会報用になる筈だった原稿です。また、その後に調べのついた事柄なども若干補足して公開した行く思います。
※今は村重研究会に所属していません。

以下の項目で論を展開しています。

序文
◎第一章 天正三年頃までの織田信長の政治
 一 基本政策
 二 信長の社会的地位
 三 経済政策
 四 軍事政策
◎第二章 検地について
 一 中世の石高と近世の石高の違い
 二 指出と検地
 三 家数改め
◎第三章 信長の領国統治体制
 一 守護と一職支配の関係
 二 柴田勝家の場合
◎第四章 織田政権での荒木村重
 一 摂津国統一過程と周辺環境
 二 村重の河内国との関係
おわりに
◎備考
 『荒尾市荒木家』の翻刻




2015年2月27日金曜日

永禄12年の但馬山名氏攻めと播磨国攻め従軍(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭の要請に応じた織田信長を伴って入京し、第十五代室町将軍に任ぜられると、翌年から早速、政権の基盤作りを精力的に行います。
 摂津国内最有力の勢力であった池田衆は、京畿政治の中でも中心的役割を担うに足る実力を持ち、幕府からも頼りにされていました。
 正式に義昭政権が発足すると、様々な依頼も幕府に寄せられるようになり、幕府自体は決して安定しているとは言えない中でも、政権支持勢力をできるだけ取り込む、繋ぎ止めるためにもそれらに応える必要がありました。とりわけ、西国方面は常に乱れ、安定しませんでした。
 これに対応するために、街道でつながり、播磨方面とも決して浅くない関係を持つ池田家をその任に就かせたようです。池田家は守護家ですので、幕府の播磨への窓口ともいえるかもしれません。
 それらについて、以下の項目を上げ、考えてみたいと思います。
 

(1)池田勝正の播磨国担当
(2)但馬国山名氏攻めへの池田衆従軍
(3)幕府方と毛利氏との協力関係
(4)龍野赤松氏救援作戦従軍
(5)瀬戸内海北岸の三好三人衆勢力の掃討
(6)幕府による第一・第二次播磨国侵攻作戦について




2015年2月22日日曜日

永禄10年の大仏焼失と池田勝正の奈良出陣(はじめに)

永禄10年(1566)10月10日、奈良の大仏が、松永久秀と三好三人衆との闘争(戦争)の只中に焼け落ちます。これは多くの人が知る事実です。また、この大仏の焼失について、久秀が焼いたとする説も今に伝わっています。これも有名な逸話です。
 この時、大仏のある回廊に陣を取り、その焼け落ちる様を池田勝正は見ていました。しかし、この事実はあまり伝えられていません。
 大仏焼失に至るまでの動き、また、その当日の詳しい動きを、池田勝正を中心にご紹介したいと思います。以下の項目に分けてご案内します。


(1)三好長慶の死後に家中が分裂
(2)池田勝正の三好三人衆方への加勢
(3)三好三人衆勢、河内国を制して大和国へ侵攻
(4)奈良多聞山城の攻防戦
(5)大仏焼失と松永方にとっての一時的な戦況好転
(6)堅城多聞山城落城



2015年2月20日金曜日

荒木村重も関わった、当主池田筑後守勝正追放のクーデター(その7.1:池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」)

同テーマ内のその7「池田勝正追放後に別の当主を立てたか」でも提起した概念ですが、その続報です。
 その7での記事中でご紹介しました、史料3から5までの署名者である民部丞某は、同一人物である事が、判明しました。それら全ての花押が一致しました。再度、以下にその史料を掲示します。

-(参考史料1)-------------------------
◎史料3:元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てた禁制
※島本町史(史料編)P443など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料4:元亀元年9月付けで、民部丞某が摂津国多田院へ宛てた禁制
※川西市史4(資料編1)P456など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料5:元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てた禁制
※箕面市史(資料編2)P414
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
-------------------------

それで、同じく、その7の記事でご紹介しました史料1に登場する民部丞ですが、この人物と既出の参考史料3から5で署名している民部丞なる人物とは、同一ではないかとの可能性は高くなるように思います。

-(参考史料2)-------------------------
◎史料1:元亀3年らしき11月6日付け、将軍義昭の上野中務大輔秀政へ宛てた御内書
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
-------------------------

ただ、それらの史料の人物を、同一として完全一致させる断定的証拠も今のところ無いため、慎重に扱う必要はありますが、史料3から5の民部丞の署名が一致した事で、その可能性としては極めて高くなったといえます。
 それからちなみに、この民部丞の禁制に関する副状も見当たらない事から、自立的な強い権力保持者だったかもしれません。

元亀3年冬の時点で、池田一族衆が民部丞を当主に再び立て、将軍義昭へ加担する事を申し出たとすれば、その後の池田衆としての動きは、民部丞に焦点をあてて行く事になります。
 将軍義昭と織田信長が不和となり、双方は京都で争います。この時の記録に摂津池田衆の動きが様々な史料に頻出します。これについては、追々詳しくご紹介するつもりです。
 史料上で、民部丞のある程度の行動が明らかになった事で、それまでバラバラに存在していた要素が繋がって、道筋がつけられるようになったのは、一歩前進です。
 
ただ、克服すべき課題もまだあります。以下に箇条書きにしてみます。

◎民部丞の元亀2〜3年夏までの史料上の動きが見られない。
◎池田一族が、上記参考史料2の中で将軍義昭に伝えた民部丞なる人物と同参考史料1の資料群に署名している民部丞なる人物との一致は、完全に結びつける史料は今のところ無い。
◎民部丞の池田家中での地位や活動が不明である。
◎民部丞と池田知正との関係が、否定も肯定もできない。

これらの課題を抱えていますので、花押の一致が先入観にならないよう、慎重に民部丞の行動をこれからも史料で追いたいと思います。
 一方で、民部丞が池田家に関連すると見られる状況証拠もあります。禁制の内容を見比べてみます。池田家と関係の深い箕面寺に対して下した、歴代池田当主とその後に摂津守護格となった荒木村重の禁制を見てみます。
 先ずは、天文20年5月付け、池田(右)兵衛尉長正が下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411

-(史料1)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の河持ち制するの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩於者、制す物取られるべく候。尚以て是非及はば、成敗加え罪科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
-------------------------

続いて池田八郎三郎勝正が、永禄7年2月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P413

-(史料2)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨背き輩あ、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
-------------------------

時代が代わって、ここから以下は荒木摂津守村重が、天正3年11月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料3)-------------------------
一、山林竹木剪り取り事付き所々散在盗み剪り事、一、寺家寺領於新儀非例申し懸け事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若しこの旨相背き輩在り之於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

上記史料3についての副状です。荒木村重一族同苗平大夫重堅が、天正3年11月26日付けで当郡中所々散在に宛てた音信(折紙)です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料4)-------------------------
箕面寺山林盗み取りの者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以って彼の寺へ村重御制札出し置かれの間、堅く停止為すべくの旨候。万一異儀於者成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
-------------------------

同じく村重の、天正3年11月26日付け音信です。
※箕面市史(資料編2)P414、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料5)-------------------------
一、当寺両座の間、先規の如く仰せ付けられるべく事、一、寺役等同前為すべく事、一、諸事寺法堅固に仰せ付けられるべき事、右条々寺家法度に任せ申し付けられるべく候。若し、相背かれ族之在る於者、堅く寺中仰せ付け為されるべく候。仍て件の如し。
-------------------------

上記史料5についての副状です。荒木重堅が、天正3年11月26日付けで箕面寺年預御坊参御同宿中に宛てた音信です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料6)-------------------------
御寺家御法度儀に付きて摂津守一書相調え入れせしめ候。各有様為に仰せ付けられるべく候。万一異儀申され仁之在り於者、この方へ仰せ越されるべく候。堅く申すべく候。恐々謹言。
-------------------------

この箕面寺は、池田家とも縁の深い寺で、政治的な画期では必ず音信し、確認事項を交わすなどしています。また、禁制は全て直状形式です。直状は、当主自らが発行する形式で、文末が「仍て件の如し」となっています。
 池田一族が没落すると、代わって台頭してきた荒木村重が音信しています。村重と箕面寺は村重の池田家中時代から既知の仲でしたので、再確認とった音信といえます。基本的な事は踏襲し、もし不都合があれば調整するともいっています。
 それから内容では、箕面寺の自治権も認めているようです。それ以前と少し違う感じがするのは、「摂津守(村重)統治下での」といったところが明らかにされているところです。
 
さて、話しを池田家統治下に戻します。

そのように箕面寺へ宛てて下された禁制の内容は、前例を踏襲されていて、それを発行できる事自体が、権限の継承と考えられますので、長正から民部丞までは、そういった流れがあったと考えられます。
 そこで視点を少し変えて、江戸時代に書かれた『荒木略記』という伝承資料を見てみます。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P2

-(伝承資料1)-------------------------
「荒木略記」荒木信濃守条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させ、その子息直正と申し候を取り立て、大将に仕るべくとて、勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
-------------------------

続いて、『陰徳太平記』という伝承資料を見てみます。
※陰徳太平記4-P53 (米原正義校注)

-(伝承資料2)-------------------------
「陰徳太平記」三好勢摂州渡海之事:
(前略)。かかりける所に、池田勝正は、元亀元年6月18日、同名豊後守、同周防守2人を生害させて、其の身は何国(いずくに)共なく出奔せり。さるに因りて跡に残る池田の一門、並びに家老諸士等十方(とほう)に暗(く)れて居たりければ、為方(せんかた)なうして頓(やが)て阿波国へ使いを遣わし、御味方に参るべく候間、不日に御渡海候へと云い送る。(後略)。
-------------------------

こういった伝承にも元亀元年6月の池田家内訌の事が取り上げられているのですが、『荒木略記』には、勝正を追放した後に、別の当主を立てたとあります。
 これまで(というか今でも)、伝承資料は信用性が低いとして、始めから相手にされない傾向にありますが、その割には都合よく引用される事が多々あります。
 しかし、平成の世である今、そんな事をいつまでも続けてよいとは、個人的には考えていません。どの程度正確に伝えているのかも測るべきだと思います。自分で調べてみて感じる事は、何よりも、現に、ある程度の方向性は正しい場合が多いです。これらの事を現代風に例えるなら、伝承資料とは「証言」と捉えてもいいのではないかと思います。

この元亀元年6月の池田家内訌について、上記の2つの伝承資料は、正確に伝えています。細部に若干の「狂い」はありますが、現存している他の史料を丹念に見れば、それらしき動きをしている人物が確認できました。それが「民部丞」に関する史料群です。

今のところ、完全一致という訳ではありませんが、手掛かりとするには非常に有力な要素と思います。ですので、始めに少し触れました、元亀4年の将軍義昭と織田信長の京都での闘争について、池田衆の動きの輪郭を示す事ができるようになります。
 私自身も、その頃の池田家中の核がどこにあるのかが掴めなかった事から、理解が混乱していたのですが、上記の想定の下で、再度見直していきたいと思います。
 
結論としては、元亀元年6月の池田家内訌で、勝正を追放した直後、伝承資料通りに池田家中は、一旦、新たな当主を立てたと考えられます。



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2015年2月13日金曜日

白井河原合戦についての研究

白井河原合戦は、京都の中央政権を研究する上でも非常に重要な出来事だと思いますが、地方豪族の私闘のように概念付けされ、どちらかというと、歴史的な位置付けとしては軽んじられている現状にあるかと思います。
 白井河原合戦の何が重要で、どんな事が起きていたかという事を以下にご紹介していきたいと思います。シリーズで書いたものや随筆として書いたものもありますが、それらを以下にまとめます。ご興味のある方は、是非ご一読下さい。
 
<シリーズでの研究>
白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)
白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)
白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)
白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))


<別シリーズで取り上げた一項目として>
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)
摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)


<随筆>
【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要
元亀2年の白井河原合戦について
和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る
白井河原合戦前夜
元亀2年8月28日の白井河原合戦の事
8月29日の白井河原合戦
宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城
441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣
旧暦8月28日は、現在のカレンダーでいうと10月13日です。
白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について
佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える NEW
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える  NEW


2015年2月11日水曜日

戦国時代の交通・流通(はじめに)

私は、摂津守護池田筑後守勝正について研究していますが、彼が活動した室町時代末期には流通もかなり発達していました。
 そのため、様々な交通手段やそれに関わる組織、経済、手段、規制(法)、整備、管理、地形などなど様々な要素が社会の中で概念化されていました。

人間(個人)は社会に属し、生きるために活動しますので、当然、移動を伴います。陸路・海(川)路を使います。それらがどうなっていて、当時利用され、認知されていたのかを知りたいと思い、これらの分野についても調べたりしています。
 気付いたり、見えてきた事を少しずつ記事にしていきたいと思います。特に近畿周辺の事になると思いますが、ご興味のある方はどうぞご参照下さい。


追伸:この分野に興味を持って、現地の見学に行ったりすると、皇太子殿下が訪ねられた時の写真が飾ってあったり、記念碑が建てられていたりすることが多いので、現地の人に聞いてみました。
 すると、皇太子殿下は歴代の皇族の方々の研究分野は植物系が多いけども、皇太子殿下については、中世の水運や交通についてご研究されているとの事でした。それを聞くと、急に皇室が身近になったような気もしました。なんだか、ちょっと嬉しくなるような感情もあり、思わぬ新発見でした。


河内(枚方)街道について



摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
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三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
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明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。