2013年3月18日月曜日

天正5年4月6日、織田信長方荒木村重、播磨国人原右京進宿所へ宛てて音信

小野市史第4巻 史料編の380ページに、興味深い史料があります。

この時は織田信長方であったであろう荒木村重が、播磨国人と思われる原右京進の宿所へ宛てて音信しています。

内容は、
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存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候。急度御参会然るべく候。恐々謹言。
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となっています。

この史料は年記を欠きますが、個人的推定で天正5年ではないかと考えています。理由は、文中の「急度御参会然るべく候」とは、村重が播磨方面で活動を活発化させていた頃のものと考えてみました。
 村重はこの年5月、9月に小寺(黒田)勘兵衛孝高に音信するなどしていますし、羽柴秀吉なども盛んに播磨方面で活動しています。

もう一つ、この史料に注目すべき点があります。「安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候」とあります。
 安見は多分、河内国人の安見氏で、この頃は安見新七郎が当主です。通説では、天正3年頃に安見氏は滅びたと伝わっていますが、活動しています。

昔は何かと縁故関係がなければ、信用を得られません。どこの誰かも解らないのに、深い話しもできません。
 この安見氏とは、かつては河内国の守護代も務めた家柄でもあり、また、河内国発祥とされる鋳物師集団とも関わりがあり、安見氏の本拠である交野・茨田郡には、田中家という鋳物師が居り、江戸時代には禁裏御用も務める程の集団でした。

小寺領内に野里村があり、ここが鋳物師集団の居住する所でした。もちろん、小寺氏は置塩城の播磨守護家赤松氏に仕える家でしたので、安見氏とは、鋳物師つながりの縁故があったと考えられます。
  更に安見氏の本拠地は京都に近く、京都の禁裏は経済立て直しの一環として、鋳物師統括も真継氏によって進められていましたので、安見氏との接点もあったようです。そういった複数の要因がこの動きとなり、この史料に現れているのではないかと考えたりしています。

安見氏は、荒木村重の命で播磨国に赴き、原氏と何らかの打ち合わせを行っています。 なぜ村重が命令しているとわかるかというと、「安見参り候はば」と呼び捨てにしているからです。
 それと、この史料にはもう一人人物が現れます。「安河」です。これは既知の人物で、フルネームで書かず、省略されています。
 これは、安○河内守という人物だと思います。村重の側から原氏へ赴いた人物です。「存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。」という一文からわかります。
 現代文にすると、「安河にこちらの考えを伝えておきましたが、詳しい返答があり、誠に満足です。」 みたいな内容になろうかと思います。
 相手の使者だと、安河に対して敬語が使われる筈ですが、特にそれが見られませんので、状況としては、村重が安河を原氏へ使いにやり、村重がその返事を聞き、更に村重は安見を派遣したようです。急ぎの事があったのでしょう。

こういった動きが、村重謀叛の折の黒田勘兵衛の行動に繋がるいち要素になっているのだと思います。

2013年2月28日木曜日

天正3年9月18日、長雲軒妙相、河内国人安見新七郎宿所へ宛てて音信す

名古屋大学文学部国史研究室の所有する史料が『中世鋳物師史料』として発刊されています。

同史料に含まれる書状に、年欠9月18日付けで、長雲軒妙相なる人物が、河内国人安見新七郎宿所へ宛てたものがあります。この安見氏は、河内国守護代の家系で、この新七郎はその当主にあたる人物です。また、安見氏は、北河内地域などの鋳物師を統括していたようです。枚方の鋳物師として、田中家があり、領内の職人として把握していたようです。

そしてこの安見氏、この後に、荒木村重の被官となっているようです。 村重の使者として、播磨国人らしき原氏の元に発っている書状が存在します。

長雲軒妙相なる人物の書状の内容は、
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尚々佐右(佐久間右衛門尉信盛)いよいよ仰せ付けられ由、地下人申しに付きて、先日申し遣わし候処、返事御入れ事、其の写しをも彼の地下人方へ遣わし候。同篇御用捨て専一候。以上、と前置きしている。本文は、久しく老面談ぜず候者、十一日 御上洛に就き、御供致し候。仍て河内国枚方之在る鋳物師事、其の方自り夫役仰せ付けられの由候。惣別諸国候鋳物師事、禁裏御料所に付きて、諸役御免許に候。御朱印をも遣わされ候条、向後御用捨て尤も然るべく候。柳原殿自り仰され候間、申し入れ事候。若し又御存じ無き事候歟。彼の在所候者共、御尋ね有り、急度仰せ付けられるべく候。此の方御用の儀候者、相応じ疎意有るべからず候。恐々謹言。
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となっています。

 そして、この書状の年代比定ですが、佐久間右衛門尉信盛の河内国周辺での活動時期や、文中の「十一日就 御上洛、仍ひらかた在之鋳物師事、自其方夫役被仰付之由候」とは、織田信長の上洛を指すと考えられ、天正3年10月10日に信長は上洛している事から、この史料は天正3年と思われます。

それから、長雲軒妙相なる人物は、内容からすると、織田政権の関係者のようです。

2002年11月の交野城跡の様子
天正3年頃の安見氏は、河内国交野郡を中心とする地域を拠点として活動しており、交野城を根城としていたようです。交野城あたりは、奈良と京都への要衝でもあり、大坂・奈良・京都からちょうど20キロメートル程の位置にあります。3カ国国境の地域といってもいい場所です。また、土地も肥沃で、米や作物も多く採れます。
 また安見氏は、永年に渡るそれまでの守護代としての活動経験もあり、河内国全土に繋がりも持ち、鷹山氏など大和国側にも影響力を持っていました。
 ちなみに同じ盆地内にある津田城は、交野城と補完関係にもあったようで、地理的にも京都に対する重要な場所です。

参考:河内国津田城

そういった人物であり、その本拠地域でしたので、京都とも関係が深く、また、政権維持に重要な人物でもありましたので、重用されたようです。
 天正年間初期、織田政権が各地に軍事侵攻する中で、京都を中心とする地域の防衛も疎かにできず、荒木村重に摂津だけではなく、河内半国(中・北)をも任せていたようです。それは、キリシタン史料など、様々な資料に見られます。
 また、安見新七郎は、父直政が元亀2年、松永久秀に嫌疑をかけられて自害させられています。間もなく、居城の交野城に松永勢が攻め寄せますが、これを退けて守り抜きました。史料を見ていると、この事件以来、新七郎は反松永勢力として活動したようです。

それから、通説では、天正3年の織田信長による河内国平定で、安見氏は滅びたとなっているようですが、織田政権に組み込まれたのが実情のようです。 その後も活動が見られます。

2013年2月27日水曜日

大東市の市民学芸員制度

南郷研究会という郷土研究会に参加したところ、ちょうど、「市民学芸員Report」という会報が配られた事から、大東市の市民学芸員という取組みを知りました。
 その方は南郷研究会の会員であると同時に、この市民学芸員もされておられて、地域の文化財について熱心に取り組んでおられます。
 この大東市の「市民学芸員」制度は、同市の歴史民俗資料館付けの組織で、全くのボランティアで皆さん参加されておられます。今年で5年目となるそうです。今まで知りませんでした。

多分、全国的に見ても先駆的な取組みだと思いますし、個人的にもこういった取組みをしていくべきだと考えていた事から、興味を持ちました。

例えば、アメリカの映画作りは、莫大な予算とプロジェクトによる取組みでもあるのですが、結構、ボランティアも活用されています。そのボランティアも専門性に分けられ、それを統括するスタッフが居て、組織立てられているようです。労力提供する側にもメリットがあり、受ける組織にもメリットがあるように、互いのメリットの交換の場になっています。
 というのは、俳優の莫大なギャラが制作費を圧迫している背景もあるからだとか...。

しかし、これは今の日本社会全体でも必要な事だと思います。労働の質の向上と継承は、社会の大きな宝です。何よりも、お金を節約したいなら、行政はキチンと組織立てて考える努力をし、市民と共に課題を克服して行くべきだと常々感じています。
 市民の側でも、有為な人材が公的な後ろ盾を受けられる事にもなり、人材の発掘と目的達成の補完が可能になります。

細かな制度の練り上げも必要だと思いますが、制度作りは、行政が得意とするところですので、それを活かす事で解決できるでしょう。また、現実的にそういった素地もニーズもある訳ですから、あとは、行政のやる気だけです。

地方・地域分権を唱うならなら、こういった分野も自主的に考える事ができるかどうか、この一点を見ても、その自治体の万事の素質だと思います。
 一方で、道路や橋、水道などのインフラの維持管理も深刻な問題が指摘されている程ですから、実際のところ深刻な無法行動が続けられているのが現状であり、地域分権などとは夢のまた夢です。

ちょっと横道に逸れてしまいましたが、大東市のこういった「市民学芸員制度」は、非常に期待出来ますし、多くの町に広がって欲しいと願っています。

大東市立歴史民俗資料館 市民学芸員REPORT は、大東市内の公的な施設などで手に入るようです。興味をお持ちの方は、一度手に取ってご覧下さい。


ちなみに、同組織の活動拠点は同市民俗資料館です。
大東市立歴史民俗資料館公式ホームページ

追伸:個人的には、こういった市民活力の現実的な概念として寝屋川市の取り組む地域通貨での支払いも組み合わす事ができれば、有為な人材を定着させ、成長の持続につながるものと考えています。バランスは難しいと思いますが、責任と発展を持続させるには頼りになる要素であると思います。

2013年1月12日土曜日

メディアに池田勝正が取り上げられました!

池田の郷土史家の方の紹介で、池田城・池田氏関連の取材協力をさせていただきました。池田勝正も取り上げられています。

毎日新聞社が運営している、「マチゴト・豊中池田」という地域密着型新聞(11万部発行)があります。その中に漫画で知ろう豊中・池田というコンセプトの「とよいけ劇場」という枠があり、第11号と12号が「池田城と池田氏」というテーマが設定され、それについて取材協力をさせていただきました。

とよいけ劇場
http://machigoto.jp/cartoon/
 ↑ページ中の「閲覧する」ボタンを押すとpdfファイルがダウンロードされますので、そちらからご覧下さい。

時々こういったカタチで、池田勝正の事も紹介できたらいいなと思います。

マチゴト・豊中池田はネット版も紙媒体版もあります。是非ご覧下さい。
http://machigoto.jp/


2013年1月8日火曜日

河内国津田城

国見山展望台
河内国交野郡にあった津田城とは、どうも二ヶ所あったように思えます。
 一つは、標高286.5メートルの位置に築かれた国見山城とも称された城。もう一つは、津田村そのものか、それを含む一帯の城。
 このあたりは、在地領主の中原氏が勢力を持っていたようですが、次第に津田氏に取って代わられ、その津田氏三代目にあたる正明の時代に、三好長慶に属して、更に勢力を拡大したようです。
 交野郡の牧八郷と茨田郡の鞆呂岐六郷を併せて一万石余りの領有と、杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村も開発するなどして勢力を拡げたようです。また、奈良興福寺との関係を持ち、津田村・藤坂村・芝村・杉村・穂谷村の「侍中」を津田筑後守範長が率いていた事が、永禄2年8月20日の交野郡五ヶ郷惣待中連絡帳から明らかになっています。

津田山城内
津田氏は三好長慶に属した事から、長慶の政策に大きく影響されたであろう事は容易に察せられます。長慶が河内国内の飯盛山に本拠を移した永禄3年以降、津田は京都までの街道上の要地として重視されていた事でしょう。
 その視点で見れば、国見山城は、京都まで見渡せる視界を持ちます。また、津田は交野平野ともいうべく、天野川が流れる平地一帯も見渡せ、そこを走る幾本もの街道もまた見る事ができます。

津田の旧集落(上の方)
津田村も比較的標高の高い位置にありますが、その地塊に続く三国山に登れば、津田村周辺と共に、摂津国の高槻方面にある芥川山城も含む、広大な視界を手にする事ができます。津田氏は、三好長慶に属する事で自己の支配領域拡大に役立て、長慶もその安定的な存在を自己の政権安定の一要素として活用した事でしょう。

ところで、個人的な感想として、津田城が上と下の2つを運用していたと考えたのは、上の城である国見山城は、京都への対応のため、摂津・河内両国の連携に必要であったからと考えています。しかし、高い所の施設の維持管理には当然ながら、費用が重みます。また、人員も必要になったりしますから、そこを担当する津田氏はやはり優遇されるでしょう。
津田の集落(下の方)
一方、下の城である津田村ですが、津田氏の活動拠点であるため、人や物が集中してそこに集まります。いざという時にそこを守る必要がありますね。
 そういった理由から、城郭化せざるを得なかっただろうと思います。旧村を歩いてみると、そこここにその跡らしきものを感じます。尊光寺という津田氏一族の寺が現津田元町に存在しますので、村は津田氏と一体化した存在だったと思われます。

その後、津田氏及び津田城は、三好長慶の死後、三好三人衆と松永久秀の闘争に巻き込まれて苦悩しますが、命脈を保ったようです。
 更に、将軍義昭・織田信長の時代に動乱があり、荒木村重も関わった天正3年の河内国平定の時(四代津田正時の頃)には津田村も焼かれ、勢力を縮小させながら地域の動揺に耐えていたようですが、本能寺の変の頃には明智光秀に応じたために、決定的な打撃を受けて弱体化してしまった模様です。 

津田の秋の稔り
しかし、元々肥沃で地の利もあり、また、村人の勤勉さもあって村は復興し、現在に至っています。
 正保郷長の村高は1,018石で、米の他に大麦・小麦・綿・菜種・芋・茶・大豆・大根などが取れ、酒造業・絞油業・素綿業が営まれました。宝暦10年(1760)には、1,317人が住む村となっており、石高と業種の多さから見ると豊かな村となっていた事がわかります。

これ程の場所ですからやはり、政治的特権を得たならば、相当に栄えた事は容易に想像ができますし、上下2つの城を持つ事も不可能ではなかっただろうと思います。

2013年1月5日土曜日

日本の重要文化財盗難が続発しています

日本の重要文化財などが盗まれています。

日本で盗まれて行方不明になっている重要文化財は580点、その他の重要美術品を含むと1500点にのぼるようです。以下のようにまとめた人がいますので、引用しておきます。

1994 安国寺(長崎県壱岐島)から国の重要文化財指定の「高麗版大般若経」が盗難。
    翌年に韓国の国宝284号に指定され、盗品は韓国に存在する事が判明。
1998 叡福寺(大阪府太子町)から高麗仏画「楊柳観音像」(重要文化財級) を含む
    仏画32点が盗難。韓国に渡った事が判明。
2001 隣松寺(愛知県豊田市)から阿弥陀如来の極楽浄土を描いた,県指定の重要文化財
    「絹本著色阿弥陀仏曼荼羅」など7点が韓国人により盗難。
2002 鶴林寺(兵庫県加古市)から国指定の重要文化財「絹本著色阿弥陀仏三尊像」など
    8点が盗難。韓国人の犯行。
2005 鰐淵寺(島根県出雲市)から「紙本墨書後醍醐天皇御願文」など国指定の重要文化財
    4点を含む,仏画や経典13点が盗難。
2006 西福寺(長崎県対馬市)から同県指定有形文化財の経典「元版大般若経」など
   約600巻ある経典のうち約170巻が盗難。

上記のうち、個人的に2003年頃に鶴林寺を訪ねた折、お寺の方が非常に憤っておられました。それでこれらの事実を知ったのですが、美術品としてのマーケットに売るだけでなく、韓国人が盗難を行ない、その後に韓国に渡って、同国が国宝や重要美術品に指定したりしています。

多数に及ぶ形跡がある事から、日本政府は韓国政府へ正式に盗難品の調査を依頼していましたが、韓国政府はこれを拒否したとの事です。政府が公式にこれを拒絶してしまえば、一体化している事になります。

韓国は卑怯な国です。なぜ当事者と交渉しないのでしょうか?

日本からも明治期や太平洋戦争後の混乱期にこうした重要美術品が多く流出しています。ボストン美術館に多数コレクションされたりしています。日本は、不幸にして流出した美術品を太平洋戦争後などに、コツコツと買い戻したりしたいました。決して不当を訴えて盗むような事はしていません。

しかし、所蔵者がそれを所蔵するに至った経緯を調べず、一方的に所持の不当を訴えて、それを盗むという行為は許されていい筈がありません。

今、どこのお寺も財政難で、文化財の保管管理が大変な状況になっており、そんな中でも所蔵されている方は、大変悩みながら管理されています。
 しかし、最近は地域の観光の一環として、その文化財が詳しい住所とともにそのいわれまでも公開され、ネット上で簡単に文化財の所在がわかります。
 これが仇になり、盗難事件が加速しています。無住になり、自治会管理になった文化財等は責任所在が分散され、管理も徹底されません。そんな文化財を多く見かけるのですが、その上位である自治体も特に積極的に対策を取る事もしていません。

いわば、盗りたい放題です。

多くの方にこの現実を知って欲しいと思います。関心を持ってもらいたいと思います。文化財は地域の、国の拠り所です。

2013年1月1日火曜日

河内国枚方城

枚方の京街道沿いに残る旧家
枚方城についてネット検索してみると、あまり記述はありませんが、いくつかある記事も概ね同じ出典を元に紹介されています。豊臣秀吉時代あたりからの城としての記述で、それ以前は不明としています。
 また、『大阪府の地名」や『日本城郭大系』を見ても、全容が明らかになる程の発掘が行なわれていない事もあって、城としての規模や経緯は不明なままのようです。
 場所については、枚方市立枚方小学校付近とされていますが、ここだと少し見通しが悪いので、町を見下ろす感じの城作りがされていたのではないかと想うのですが。どうでしょうか。

枚方城について『日本城郭大系』によると、現在、枚方城は何らの遺構も残していないが、その立地は、枚方市街ではもっとも高所に位置しており、舌状台地の最突端で、三方は深い谷となっており、眼下には淀川から河内平野が一望に見渡せ、現在も城の立地条件は良好に読み取ることができる。
 また、 昭和54年(1579)、城跡の西端で宅地造成があり、崖を削ったところ、上端幅上端幅1メートル、深さ1.5メートルの薬研掘跡らしきV字溝が検出されたが、これは、西側谷を登り切った所に設けられた堀と推定される。
 なお、地名に「門口」と称する小字が残る。、とあり、城があった事は確実視されているようです。
 それから『大阪府全誌』には、枚方城址は、字上の町にあり。今は門口と呼べる小字ありて、地形自ら地堡ありしを想はしむ。城は本多氏の據りし所なり。大字岡一乗寺の記録に依れば、城主本多内膳正政康は豊臣氏に属し、土着の名族にして、百済王の裔なり。(後略)。、とあります。
 
京都に近い枚方は、水陸交通の要衝であり、当然ながら有力者も育ち、地域権益を守るための自治や物理的にそれを守るための施設、すなわち城があっても全く不自然ではありません。いや、当然の事と思います。
 
御茶屋御殿公園から高槻方面
城の視点で地形を見ると、眺望の利く小高い丘があり、至近距離に淀川があります。その淀川に注ぐ天の川が、枚方の町を囲むように合流しています。そこに三矢(みつや)という川港(川の関も)もあります。
 三矢の浜は、枚方宿の消費材搬入の他、周辺の茨田・交野両郡の村々にとっても重要な港で、肥料の搬入・農産物搬出の窓口として機能していたようです。また、乗客数も多かったようで、枚方宿は宿場としても賑わっていたようです。
 枚方には南への河内街道や淀川沿いの京街道が通り、大和国方面への道も通しています。これも枚方の町の発展要素のひとつでした。
 また、枚方宿を構成する岡(村)には、奈良興福寺の関が置かれ、宿内には更に、順興寺(現願生坊)・浄念寺(以上本願寺)、万年寺(真言宗)、一乗寺・台鏡寺(以上浄土宗)など多くの寺があり、寺内町のような性格を持つ部分があったようです。

旧田中家鋳物民俗資料館
それから、禁裏鋳物師を務めた枚方村田中家も丘の上にありました。今は跡地になっていますが、市立旧田中家鋳物民俗資料館として、移築復元されています。
※是非資料館を訪ねる事をオススメします。非常に興味深い資料館です。

同じ丘の上に、意賀美(おかみ)神社があるのですが、明治時代に合祀などがあって、ちょっとややこしいです。
 神社のある場所には、元々「須賀神社」「日吉神社」があり、古くから万年寺もありました。廃仏毀釈で万年寺が廃され、そこに伊加賀村から意賀美神社が移ってきて現社名となったようです。ですので、現意賀美神社の社地は、万年寺地で、万年寺の夕刻を告げる鐘は枚方の名物でもあり、枚方八景の一つでもあったようです。

さて、ちょっと当時の史料も見てみます。

永禄11年(1568)6月23日、大和国へ陣立てのために、近江国甲賀郡の国人山中蔵人某が、350人程で三矢に陣取ったとしています。『言継卿記』によると、この日の午前1時〜5時、同日午後3時〜5時頃に雨が降ったと記されています。

この山中蔵人とは、幕府(将軍義栄)方で、三好三人衆勢力の一部です。この頃、三好三人衆勢は、大和国の松永久秀を攻撃中でした。
 翌24日には、この山中蔵人勢に対して、松永久秀嫡子同名久通が、三矢を攻撃するために出陣してきます。同じく『言継卿記』によると、午前7時〜9時頃に松永久通は、1,000名程で山中蔵人勢を攻めた、とあります。この時、久通自身が300程を直接指揮し、搦手表には700程を配して攻めたとあります。
 
一乗寺にある枚方城主本多政康墓
結果は、「山中以下悉く討ち捕り云々。」とあり、松永方が勝ったようです。この三矢合戦の記述で気になるのは、「搦手表」に700の兵を配したという点です。

一方で、同月29日には、松永方の大和国での拠点のひとつである信貴山城が落ちています。
 ですので、松永久通の三矢攻撃は、この信貴山城に対する援護であり、補給の確保であったのでしょう。

それら一連の動きを見ると、三矢のすぐ東の丘に枚方城が、当然あったのだろうと考えられます。「搦手」と認識される形態の施設があったのでしょう。
 山中蔵人は枚方城に入り、350程の軍勢をそこに置き、その枚方城に関係の深い人物は、地域勢力である本多氏だったのでしょう。

順興実従墓
その後間もなく、枚方にあった順興寺は元亀年間(1570〜73)の兵火で焼失しているようですので、枚方城もその時に何らかの被害が出ていたのかもしれません。
 地形的に、この枚方の丘は細かく入り組んでいて、防御面においては独特の手法が取れるのではないかと思います。谷と丘との地形を活かすために、施設を複数箇所作っていたのかもしれません。
 
何れにしても、科学的な継続調査に期待したいところです。その結果、様々な事実が判明する事でしょう。

追伸:私は仰星高校の4期生で、高校時代は毎日、この枚方の旧市街を京阪電車の車窓から見ていました。当時もこのあたりは、古い町屋が密集していて、その時の私は漠然と「古い町があるな」程度にしか見ていませんでした。当時私は高校生ですので、そういった伝統的なものに今程興味が無く、また、見て回る機会もありませんでした。
※かといって、歴史に興味がなかった訳ではありませんでした。どちらかというと数学ができない分、歴史で点数を稼いでいた方でしたから、嫌いではありませんでした。
 その当時、現在の状態とは違い、塊や面として旧町が残っていたことは、京阪電車から見てもよく判りました。歩けば、とても貴重な景色が残っていたであろうことは、想像に容易いことです。「見ておけばよかった。...」今とても悔やまれます。これからは、急速にそういう事が起きるでしょう。できるだけ見ておきたいと感じています。

2012年12月13日木曜日

戦国時代も今現在も個人と社会の関係は、何も変わりません。その中心は人間です。

趣味で室町時代後期(戦国時代)の人物研究をやっていますが、ひとりの人物を通して、様々な事が見えてきます。個人と社会の関係は、時代が移っても何も変わりません。使う道具が違うだけで、その中心は人間です。そして摂理には絶対に逆らえません。

とても興味深い事をいっていた学者がありました。「戦国時代とは武士の堕落」であると。

際限なく権利と利益に拘わり、それを得て、そして保持するために殺し合うのは、正に戦国時代とは、人間として、社会として、戒めるべき一線を越えてしまった苦しみだったように思えます。力で欲望を満たし、また、知恵が欲望を支えるという間違った精神をいつまでも断ち切る事が出来なかった。それが、初期の武士社会だったように感じます。
 戦国時代を経て、近世江戸時代に向かう中で、権利の整理を行い、殺し合わない仕組みを考え出した、政治の歴史は大変すばらしいと思います。

一方でそれは「支配」ともいうのかもしれません。しかし、個人的には奴隷的な感覚を含む残酷なイメージの支配とはちょっと違うのではないかと考えています。徳川家康から3代かかって成し遂げた平和な世の中は、独断的な支配の「罪」よりは「功」の方が、日本社会にとって大きかったと思います。

さてしかし、経済や金融にのみ目を奪われ、本当の自国の「済民」を考える事ができない現代社会は、戦争(暴力)や人権を踏みにじる事にも肯定的に捉える方向に進みつつあるように思えます。銭の光が道理を曇らせる事の怖さも、より意識しなければ、その感覚は退化してしまいます。
 それを問題とも思わず、いわずもがな咎めもせず、全く先進国としての英知すらも忘れてしまって、ただ生活しているだけの国民になってしまっていいのでしょうか?そこから何が生まれるのでしょうか?
※まあ、自分だけが戒めても、それが通用しない状況に陥る事もありますので、常に備え、バランスを保つ事は大切だと思います。暴力に巻き込まれ、自分が被害を受ける恐れがある時は、対処できるだけの備えも当然ながら必要です。

自治とは何か、国とは何か。人間とは何か。社会とは何か。世界とは何か。何の為にそれを手に入れたのか。
 万事、銭だけで解決する事ができるのかどうか。将来像として、どのような道を歩むべきなのかを政治家は、しっかりと示すべきだと思います。企業も同じです。

結局、素晴らしい道具で殺し合い、奪い合い、罵る社会は、500年経った今でも同じになってしまうのでしょうか? 法治から人治の社会に逆戻りになっているのかもしれません。

2012年12月5日水曜日

和漢胃腸薬 忍術丸(和漢生薬)

ちょっと過去と現在とをつなぐ、現在の役立つ情報をご紹介したいと思います。

年末年始は何かと飲み食いが過ぎ、胃腸も疲れ気味になりますよね。私は、この「和漢胃腸薬 忍術丸(和漢生薬)」にもお世話になっています。この薬は、丸薬ですので携帯にも便利で、飲み易くなっています。
※その後、薬は無くなって購入しようと思ったのですが、残念ながら売っているところが無く、その時に購入した「いけだや胃腸薬」の方を愛用しています。

あまり一般では見かけないのですが、この薬をどこで知ったかというと、甲賀流忍術屋敷を訪ねた折、そこでお土産を買う時に施設の方に教えていただいたのがキッカケでした。その時は忍法とか、色々効きそうだと思いました。

和漢胃腸薬 忍術丸(和漢生薬)
◎製品名
和漢胃腸薬 忍術丸(第2類医薬品)
◎製造販売元
日新薬品工業株式会社
滋賀県甲賀市甲賀町田堵野80-1
URL http://www.nissin-yk.co.jp
◎効能・効果
食欲不振(食欲減退)、胃部・胃部膨満感、消化不良、胃弱、食べ過ぎ、飲み過ぎ、胸やけ、胃もたれ、胸つかえ、はきけ(むかつき、胃のむかつき、二日酔・悪酔のむかつき、嘔気、悪心)、嘔吐
◎用法・用量
成人(15歳以上):15粒、11歳以上15歳未満:10粒、8歳以上11歳未満:7粒、5歳以上8歳未満:5粒、3歳以上5歳未満:3粒、3歳未満の乳幼児は服用不可
◎注意事項
次の人は服用前に医師又は、薬剤師に相談して下さい。
・医師の治療を受けている人
次の場合は直ちに服用を中止し、この袋を持って医師又は薬剤師に相談して下さい。
・ 1ヶ月位服用しても症状がよくならない場合
◎副作用被害救済制度
0120-149-931
滋賀県甲賀地域は、今も製薬会社が多く、この忍術丸も地元の会社によって製造されています。また、偶然だとは思うのですが、伊丹製薬株式会社という製薬会社もあります。

それからまた、摂津国池田とは、この甲賀地域とのご縁もあります。甲ヶ谷(こかだに)という町がかつてあり、ここには大工が多く住んでいたとの事で、その名がついたと地元に伝わっています。甲賀谷と書かれた記述もあります。近江国甲賀には優れた大工が多く住む地域としても有名でした。
北摂池田の火祭 がんがら火公式サイト -呉春酒造の梁に書かれた文字(写真上)-

さらに戦国時代、池田には甲賀伊賀守なる家老が居り、城下に屋敷を構えていたとの伝承記録も残ります。

摂津池田は、甲賀地域とも浅からぬつながりがあり、興味深くもあります。




2012年11月29日木曜日

徳川幕末頃の武士の写真

ちょっとたまには、視覚的な話題をひとつ。

江戸時代の終わりの頃から、明治時代にかけて、外国人向けのおみやげに武士の写真も人気がありました。白黒写真に着色してあります。

最近の日本ブームで再び脚光を浴びていますが、インターネットの時代になってそれが益々加速しているようです。外国人たちがこの写真を見て、色々とコメントをしていますが、それらを読むのも楽しいです。

Samurai Photographs of the Nineteenth Century 


 


百年前の日本人【Japanese 100 years ago】
※こちらは明治から大正にかけての庶民の様子です。


私が学生の頃、この白黒画像に着色すると何か独特の雰囲気を感じ、好きでした。白黒写真を使った作品も作っていました。

さて、画像の事です。近世と中世とはちょっと違うところもあるでしょうが、大変参考になります。資料映像としてご覧下さい。