2013年1月12日土曜日

メディアに池田勝正が取り上げられました!

池田の郷土史家の方の紹介で、池田城・池田氏関連の取材協力をさせていただきました。池田勝正も取り上げられています。

毎日新聞社が運営している、「マチゴト・豊中池田」という地域密着型新聞(11万部発行)があります。その中に漫画で知ろう豊中・池田というコンセプトの「とよいけ劇場」という枠があり、第11号と12号が「池田城と池田氏」というテーマが設定され、それについて取材協力をさせていただきました。

とよいけ劇場
http://machigoto.jp/cartoon/
 ↑ページ中の「閲覧する」ボタンを押すとpdfファイルがダウンロードされますので、そちらからご覧下さい。

時々こういったカタチで、池田勝正の事も紹介できたらいいなと思います。

マチゴト・豊中池田はネット版も紙媒体版もあります。是非ご覧下さい。
http://machigoto.jp/


2013年1月8日火曜日

河内国津田城

国見山展望台
河内国交野郡にあった津田城とは、どうも二ヶ所あったように思えます。
 一つは、標高286.5メートルの位置に築かれた国見山城とも称された城。もう一つは、津田村そのものか、それを含む一帯の城。
 このあたりは、在地領主の中原氏が勢力を持っていたようですが、次第に津田氏に取って代わられ、その津田氏三代目にあたる正明の時代に、三好長慶に属して、更に勢力を拡大したようです。
 交野郡の牧八郷と茨田郡の鞆呂岐六郷を併せて一万石余りの領有と、杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村も開発するなどして勢力を拡げたようです。また、奈良興福寺との関係を持ち、津田村・藤坂村・芝村・杉村・穂谷村の「侍中」を津田筑後守範長が率いていた事が、永禄2年8月20日の交野郡五ヶ郷惣待中連絡帳から明らかになっています。

津田山城内
津田氏は三好長慶に属した事から、長慶の政策に大きく影響されたであろう事は容易に察せられます。長慶が河内国内の飯盛山に本拠を移した永禄3年以降、津田は京都までの街道上の要地として重視されていた事でしょう。
 その視点で見れば、国見山城は、京都まで見渡せる視界を持ちます。また、津田は交野平野ともいうべく、天野川が流れる平地一帯も見渡せ、そこを走る幾本もの街道もまた見る事ができます。

津田の旧集落(上の方)
津田村も比較的標高の高い位置にありますが、その地塊に続く三国山に登れば、津田村周辺と共に、摂津国の高槻方面にある芥川山城も含む、広大な視界を手にする事ができます。津田氏は、三好長慶に属する事で自己の支配領域拡大に役立て、長慶もその安定的な存在を自己の政権安定の一要素として活用した事でしょう。

ところで、個人的な感想として、津田城が上と下の2つを運用していたと考えたのは、上の城である国見山城は、京都への対応のため、摂津・河内両国の連携に必要であったからと考えています。しかし、高い所の施設の維持管理には当然ながら、費用が重みます。また、人員も必要になったりしますから、そこを担当する津田氏はやはり優遇されるでしょう。
津田の集落(下の方)
一方、下の城である津田村ですが、津田氏の活動拠点であるため、人や物が集中してそこに集まります。いざという時にそこを守る必要がありますね。
 そういった理由から、城郭化せざるを得なかっただろうと思います。旧村を歩いてみると、そこここにその跡らしきものを感じます。尊光寺という津田氏一族の寺が現津田元町に存在しますので、村は津田氏と一体化した存在だったと思われます。

その後、津田氏及び津田城は、三好長慶の死後、三好三人衆と松永久秀の闘争に巻き込まれて苦悩しますが、命脈を保ったようです。
 更に、将軍義昭・織田信長の時代に動乱があり、荒木村重も関わった天正3年の河内国平定の時(四代津田正時の頃)には津田村も焼かれ、勢力を縮小させながら地域の動揺に耐えていたようですが、本能寺の変の頃には明智光秀に応じたために、決定的な打撃を受けて弱体化してしまった模様です。 

津田の秋の稔り
しかし、元々肥沃で地の利もあり、また、村人の勤勉さもあって村は復興し、現在に至っています。
 正保郷長の村高は1,018石で、米の他に大麦・小麦・綿・菜種・芋・茶・大豆・大根などが取れ、酒造業・絞油業・素綿業が営まれました。宝暦10年(1760)には、1,317人が住む村となっており、石高と業種の多さから見ると豊かな村となっていた事がわかります。

これ程の場所ですからやはり、政治的特権を得たならば、相当に栄えた事は容易に想像ができますし、上下2つの城を持つ事も不可能ではなかっただろうと思います。

2013年1月5日土曜日

日本の重要文化財盗難が続発しています

日本の重要文化財などが盗まれています。

日本で盗まれて行方不明になっている重要文化財は580点、その他の重要美術品を含むと1500点にのぼるようです。以下のようにまとめた人がいますので、引用しておきます。

1994 安国寺(長崎県壱岐島)から国の重要文化財指定の「高麗版大般若経」が盗難。
    翌年に韓国の国宝284号に指定され、盗品は韓国に存在する事が判明。
1998 叡福寺(大阪府太子町)から高麗仏画「楊柳観音像」(重要文化財級) を含む
    仏画32点が盗難。韓国に渡った事が判明。
2001 隣松寺(愛知県豊田市)から阿弥陀如来の極楽浄土を描いた,県指定の重要文化財
    「絹本著色阿弥陀仏曼荼羅」など7点が韓国人により盗難。
2002 鶴林寺(兵庫県加古市)から国指定の重要文化財「絹本著色阿弥陀仏三尊像」など
    8点が盗難。韓国人の犯行。
2005 鰐淵寺(島根県出雲市)から「紙本墨書後醍醐天皇御願文」など国指定の重要文化財
    4点を含む,仏画や経典13点が盗難。
2006 西福寺(長崎県対馬市)から同県指定有形文化財の経典「元版大般若経」など
   約600巻ある経典のうち約170巻が盗難。

上記のうち、個人的に2003年頃に鶴林寺を訪ねた折、お寺の方が非常に憤っておられました。それでこれらの事実を知ったのですが、美術品としてのマーケットに売るだけでなく、韓国人が盗難を行ない、その後に韓国に渡って、同国が国宝や重要美術品に指定したりしています。

多数に及ぶ形跡がある事から、日本政府は韓国政府へ正式に盗難品の調査を依頼していましたが、韓国政府はこれを拒否したとの事です。政府が公式にこれを拒絶してしまえば、一体化している事になります。

韓国は卑怯な国です。なぜ当事者と交渉しないのでしょうか?

日本からも明治期や太平洋戦争後の混乱期にこうした重要美術品が多く流出しています。ボストン美術館に多数コレクションされたりしています。日本は、不幸にして流出した美術品を太平洋戦争後などに、コツコツと買い戻したりしたいました。決して不当を訴えて盗むような事はしていません。

しかし、所蔵者がそれを所蔵するに至った経緯を調べず、一方的に所持の不当を訴えて、それを盗むという行為は許されていい筈がありません。

今、どこのお寺も財政難で、文化財の保管管理が大変な状況になっており、そんな中でも所蔵されている方は、大変悩みながら管理されています。
 しかし、最近は地域の観光の一環として、その文化財が詳しい住所とともにそのいわれまでも公開され、ネット上で簡単に文化財の所在がわかります。
 これが仇になり、盗難事件が加速しています。無住になり、自治会管理になった文化財等は責任所在が分散され、管理も徹底されません。そんな文化財を多く見かけるのですが、その上位である自治体も特に積極的に対策を取る事もしていません。

いわば、盗りたい放題です。

多くの方にこの現実を知って欲しいと思います。関心を持ってもらいたいと思います。文化財は地域の、国の拠り所です。

2013年1月1日火曜日

河内国枚方城

枚方の京街道沿いに残る旧家
枚方城についてネット検索してみると、あまり記述はありませんが、いくつかある記事も概ね同じ出典を元に紹介されています。豊臣秀吉時代あたりからの城としての記述で、それ以前は不明としています。
 また、『大阪府の地名」や『日本城郭大系』を見ても、全容が明らかになる程の発掘が行なわれていない事もあって、城としての規模や経緯は不明なままのようです。
 場所については、枚方市立枚方小学校付近とされていますが、ここだと少し見通しが悪いので、町を見下ろす感じの城作りがされていたのではないかと想うのですが。どうでしょうか。

枚方城について『日本城郭大系』によると、現在、枚方城は何らの遺構も残していないが、その立地は、枚方市街ではもっとも高所に位置しており、舌状台地の最突端で、三方は深い谷となっており、眼下には淀川から河内平野が一望に見渡せ、現在も城の立地条件は良好に読み取ることができる。
 また、 昭和54年(1579)、城跡の西端で宅地造成があり、崖を削ったところ、上端幅上端幅1メートル、深さ1.5メートルの薬研掘跡らしきV字溝が検出されたが、これは、西側谷を登り切った所に設けられた堀と推定される。
 なお、地名に「門口」と称する小字が残る。、とあり、城があった事は確実視されているようです。
 それから『大阪府全誌』には、枚方城址は、字上の町にあり。今は門口と呼べる小字ありて、地形自ら地堡ありしを想はしむ。城は本多氏の據りし所なり。大字岡一乗寺の記録に依れば、城主本多内膳正政康は豊臣氏に属し、土着の名族にして、百済王の裔なり。(後略)。、とあります。
 
京都に近い枚方は、水陸交通の要衝であり、当然ながら有力者も育ち、地域権益を守るための自治や物理的にそれを守るための施設、すなわち城があっても全く不自然ではありません。いや、当然の事と思います。
 
御茶屋御殿公園から高槻方面
城の視点で地形を見ると、眺望の利く小高い丘があり、至近距離に淀川があります。その淀川に注ぐ天の川が、枚方の町を囲むように合流しています。そこに三矢(みつや)という川港(川の関も)もあります。
 三矢の浜は、枚方宿の消費材搬入の他、周辺の茨田・交野両郡の村々にとっても重要な港で、肥料の搬入・農産物搬出の窓口として機能していたようです。また、乗客数も多かったようで、枚方宿は宿場としても賑わっていたようです。
 枚方には南への河内街道や淀川沿いの京街道が通り、大和国方面への道も通しています。これも枚方の町の発展要素のひとつでした。
 また、枚方宿を構成する岡(村)には、奈良興福寺の関が置かれ、宿内には更に、順興寺(現願生坊)・浄念寺(以上本願寺)、万年寺(真言宗)、一乗寺・台鏡寺(以上浄土宗)など多くの寺があり、寺内町のような性格を持つ部分があったようです。

旧田中家鋳物民俗資料館
それから、禁裏鋳物師を務めた枚方村田中家も丘の上にありました。今は跡地になっていますが、市立旧田中家鋳物民俗資料館として、移築復元されています。
※是非資料館を訪ねる事をオススメします。非常に興味深い資料館です。

同じ丘の上に、意賀美(おかみ)神社があるのですが、明治時代に合祀などがあって、ちょっとややこしいです。
 神社のある場所には、元々「須賀神社」「日吉神社」があり、古くから万年寺もありました。廃仏毀釈で万年寺が廃され、そこに伊加賀村から意賀美神社が移ってきて現社名となったようです。ですので、現意賀美神社の社地は、万年寺地で、万年寺の夕刻を告げる鐘は枚方の名物でもあり、枚方八景の一つでもあったようです。

さて、ちょっと当時の史料も見てみます。

永禄11年(1568)6月23日、大和国へ陣立てのために、近江国甲賀郡の国人山中蔵人某が、350人程で三矢に陣取ったとしています。『言継卿記』によると、この日の午前1時〜5時、同日午後3時〜5時頃に雨が降ったと記されています。

この山中蔵人とは、幕府(将軍義栄)方で、三好三人衆勢力の一部です。この頃、三好三人衆勢は、大和国の松永久秀を攻撃中でした。
 翌24日には、この山中蔵人勢に対して、松永久秀嫡子同名久通が、三矢を攻撃するために出陣してきます。同じく『言継卿記』によると、午前7時〜9時頃に松永久通は、1,000名程で山中蔵人勢を攻めた、とあります。この時、久通自身が300程を直接指揮し、搦手表には700程を配して攻めたとあります。
 
一乗寺にある枚方城主本多政康墓
結果は、「山中以下悉く討ち捕り云々。」とあり、松永方が勝ったようです。この三矢合戦の記述で気になるのは、「搦手表」に700の兵を配したという点です。

一方で、同月29日には、松永方の大和国での拠点のひとつである信貴山城が落ちています。
 ですので、松永久通の三矢攻撃は、この信貴山城に対する援護であり、補給の確保であったのでしょう。

それら一連の動きを見ると、三矢のすぐ東の丘に枚方城が、当然あったのだろうと考えられます。「搦手」と認識される形態の施設があったのでしょう。
 山中蔵人は枚方城に入り、350程の軍勢をそこに置き、その枚方城に関係の深い人物は、地域勢力である本多氏だったのでしょう。

順興実従墓
その後間もなく、枚方にあった順興寺は元亀年間(1570〜73)の兵火で焼失しているようですので、枚方城もその時に何らかの被害が出ていたのかもしれません。
 地形的に、この枚方の丘は細かく入り組んでいて、防御面においては独特の手法が取れるのではないかと思います。谷と丘との地形を活かすために、施設を複数箇所作っていたのかもしれません。
 
何れにしても、科学的な継続調査に期待したいところです。その結果、様々な事実が判明する事でしょう。

追伸:私は仰星高校の4期生で、高校時代は毎日、この枚方の旧市街を京阪電車の車窓から見ていました。当時もこのあたりは、古い町屋が密集していて、その時の私は漠然と「古い町があるな」程度にしか見ていませんでした。当時私は高校生ですので、そういった伝統的なものに今程興味が無く、また、見て回る機会もありませんでした。
※かといって、歴史に興味がなかった訳ではありませんでした。どちらかというと数学ができない分、歴史で点数を稼いでいた方でしたから、嫌いではありませんでした。
 その当時、現在の状態とは違い、塊や面として旧町が残っていたことは、京阪電車から見てもよく判りました。歩けば、とても貴重な景色が残っていたであろうことは、想像に容易いことです。「見ておけばよかった。...」今とても悔やまれます。これからは、急速にそういう事が起きるでしょう。できるだけ見ておきたいと感じています。

2012年12月13日木曜日

戦国時代も今現在も個人と社会の関係は、何も変わりません。その中心は人間です。

趣味で室町時代後期(戦国時代)の人物研究をやっていますが、ひとりの人物を通して、様々な事が見えてきます。個人と社会の関係は、時代が移っても何も変わりません。使う道具が違うだけで、その中心は人間です。そして摂理には絶対に逆らえません。

とても興味深い事をいっていた学者がありました。「戦国時代とは武士の堕落」であると。

際限なく権利と利益に拘わり、それを得て、そして保持するために殺し合うのは、正に戦国時代とは、人間として、社会として、戒めるべき一線を越えてしまった苦しみだったように思えます。力で欲望を満たし、また、知恵が欲望を支えるという間違った精神をいつまでも断ち切る事が出来なかった。それが、初期の武士社会だったように感じます。
 戦国時代を経て、近世江戸時代に向かう中で、権利の整理を行い、殺し合わない仕組みを考え出した、政治の歴史は大変すばらしいと思います。

一方でそれは「支配」ともいうのかもしれません。しかし、個人的には奴隷的な感覚を含む残酷なイメージの支配とはちょっと違うのではないかと考えています。徳川家康から3代かかって成し遂げた平和な世の中は、独断的な支配の「罪」よりは「功」の方が、日本社会にとって大きかったと思います。

さてしかし、経済や金融にのみ目を奪われ、本当の自国の「済民」を考える事ができない現代社会は、戦争(暴力)や人権を踏みにじる事にも肯定的に捉える方向に進みつつあるように思えます。銭の光が道理を曇らせる事の怖さも、より意識しなければ、その感覚は退化してしまいます。
 それを問題とも思わず、いわずもがな咎めもせず、全く先進国としての英知すらも忘れてしまって、ただ生活しているだけの国民になってしまっていいのでしょうか?そこから何が生まれるのでしょうか?
※まあ、自分だけが戒めても、それが通用しない状況に陥る事もありますので、常に備え、バランスを保つ事は大切だと思います。暴力に巻き込まれ、自分が被害を受ける恐れがある時は、対処できるだけの備えも当然ながら必要です。

自治とは何か、国とは何か。人間とは何か。社会とは何か。世界とは何か。何の為にそれを手に入れたのか。
 万事、銭だけで解決する事ができるのかどうか。将来像として、どのような道を歩むべきなのかを政治家は、しっかりと示すべきだと思います。企業も同じです。

結局、素晴らしい道具で殺し合い、奪い合い、罵る社会は、500年経った今でも同じになってしまうのでしょうか? 法治から人治の社会に逆戻りになっているのかもしれません。

2012年12月5日水曜日

和漢胃腸薬 忍術丸(和漢生薬)

ちょっと過去と現在とをつなぐ、現在の役立つ情報をご紹介したいと思います。

年末年始は何かと飲み食いが過ぎ、胃腸も疲れ気味になりますよね。私は、この「和漢胃腸薬 忍術丸(和漢生薬)」にもお世話になっています。この薬は、丸薬ですので携帯にも便利で、飲み易くなっています。
※その後、薬は無くなって購入しようと思ったのですが、残念ながら売っているところが無く、その時に購入した「いけだや胃腸薬」の方を愛用しています。

あまり一般では見かけないのですが、この薬をどこで知ったかというと、甲賀流忍術屋敷を訪ねた折、そこでお土産を買う時に施設の方に教えていただいたのがキッカケでした。その時は忍法とか、色々効きそうだと思いました。

和漢胃腸薬 忍術丸(和漢生薬)
◎製品名
和漢胃腸薬 忍術丸(第2類医薬品)
◎製造販売元
日新薬品工業株式会社
滋賀県甲賀市甲賀町田堵野80-1
URL http://www.nissin-yk.co.jp
◎効能・効果
食欲不振(食欲減退)、胃部・胃部膨満感、消化不良、胃弱、食べ過ぎ、飲み過ぎ、胸やけ、胃もたれ、胸つかえ、はきけ(むかつき、胃のむかつき、二日酔・悪酔のむかつき、嘔気、悪心)、嘔吐
◎用法・用量
成人(15歳以上):15粒、11歳以上15歳未満:10粒、8歳以上11歳未満:7粒、5歳以上8歳未満:5粒、3歳以上5歳未満:3粒、3歳未満の乳幼児は服用不可
◎注意事項
次の人は服用前に医師又は、薬剤師に相談して下さい。
・医師の治療を受けている人
次の場合は直ちに服用を中止し、この袋を持って医師又は薬剤師に相談して下さい。
・ 1ヶ月位服用しても症状がよくならない場合
◎副作用被害救済制度
0120-149-931
滋賀県甲賀地域は、今も製薬会社が多く、この忍術丸も地元の会社によって製造されています。また、偶然だとは思うのですが、伊丹製薬株式会社という製薬会社もあります。

それからまた、摂津国池田とは、この甲賀地域とのご縁もあります。甲ヶ谷(こかだに)という町がかつてあり、ここには大工が多く住んでいたとの事で、その名がついたと地元に伝わっています。甲賀谷と書かれた記述もあります。近江国甲賀には優れた大工が多く住む地域としても有名でした。
北摂池田の火祭 がんがら火公式サイト -呉春酒造の梁に書かれた文字(写真上)-

さらに戦国時代、池田には甲賀伊賀守なる家老が居り、城下に屋敷を構えていたとの伝承記録も残ります。

摂津池田は、甲賀地域とも浅からぬつながりがあり、興味深くもあります。




2012年11月29日木曜日

徳川幕末頃の武士の写真

ちょっとたまには、視覚的な話題をひとつ。

江戸時代の終わりの頃から、明治時代にかけて、外国人向けのおみやげに武士の写真も人気がありました。白黒写真に着色してあります。

最近の日本ブームで再び脚光を浴びていますが、インターネットの時代になってそれが益々加速しているようです。外国人たちがこの写真を見て、色々とコメントをしていますが、それらを読むのも楽しいです。

Samurai Photographs of the Nineteenth Century 


 


百年前の日本人【Japanese 100 years ago】
※こちらは明治から大正にかけての庶民の様子です。


私が学生の頃、この白黒画像に着色すると何か独特の雰囲気を感じ、好きでした。白黒写真を使った作品も作っていました。

さて、画像の事です。近世と中世とはちょっと違うところもあるでしょうが、大変参考になります。資料映像としてご覧下さい。

2012年11月22日木曜日

旧三箇村歴史案内ツアー

旧下三箇地域の下野付近
先日、大東市立歴史民俗資料館が主催する、旧三箇村歴史案内ツアーへ参加してきました。大東市史編纂委員による説明を受けながらの見学でしたので、大変勉強になりました。

江戸時代に記された、大和川付け替え後の陸地化した地割り図の様子から、三箇村地を抽出する事で、島であった頃の推定がされています。また、そこを通る街道を歩き、実際の地面の高低差を観察する事もできました。
 やはり、島の跡になっているところは、少し高くなっており、その事にまつわる様々なお話しもあって、興味深かったです。

三箇菅原神社
さて、三箇といえば気になるのが三箇城の位置です。しかし未だに結論は出ておらず、従来の三箇菅原神社付近の説を踏襲するものでしたが、本当にそこが正しいのかどうかは懐疑的な見解を持っているようです。

近世の三箇村は、上三箇と下三箇に分かれており、213軒の家に1,127人が暮らしていたようです。
 また、中世時代に開基及び起源を持つ寺が5つ程あります。

真宗大谷派大長寺
・本伝寺 ※伝元徳年間:1329〜30
・正覚寺 ※永正14年(1517)8月1日付の阿弥陀如来絵像所蔵
・大長寺 ※伝永正14年開基
・水月院 ※中世に遡るか
・本妙寺 ※伝文安2年(1445)京都本圀寺日助上人が伽藍創建

そして、その三箇庄から出た三箇氏はキリシタン大名として有名で、領内にキリシタンも多数居り、教会もあったとされていますが、それ以前からあった寺と宗教も同時に存続していたとも考えられるようです。

住道駅から飯盛山を望む
そしてそのキリスト教徒のための教会は、今の「住道」の地名の由来とも関係しているとする説もあります。教会の「尖塔」が隅にあり、「隅堂:すみどう」から「住道:すみのどう」に転訛したとも考えられています。住道は明治以降に漢字が定着していて、この文字があてられた理由は今のところ不明なようです。
 
水月院跡
それから三箇城の位置ですが、以下のような条件から、菅原神社付近がそうであろうと考えられているようです。
 
・菅原神社は、産土神で土着の神様である
・曹洞宗系の寺院が隣接して存在したらしい事
・神社の周囲は更に地面が高くしてある
・菅原神社から北へ伸びる旧街道は「城の堤」と呼ばれていた事

しかしながら、今回「島」と推定されるであろう領域からすると、その城の位置の意味合いがわからず、不自然に思えてしまい、必然性がわからないのです。また、地面の高さから言えば、重要施設を作る割には、十分な高さとも言えない要素もあり、適切な場所かどうかも少し疑問があります。
 いずれにしても、もう少し深野池や新開池の正確な淵取りがわかれば、島との関係性も明らかになる事でしょう。島と池との関係がはっきりすれば、今の推定地の必然性がわかったり、他の位置の可能性も出て来ると思います。

城ノ堤(三箇4〜6丁目にかけて)
いずれにしろ、発掘をして、物理的な検証と共に考慮しなければ、ここまで環境が変わってしまうと不可能なように思います。

また、何か三箇城について情報があれば載せていきたいと思います。

2012年11月13日火曜日

黒田勘兵衛と池田勝正と播州青山の合戦 その2

永禄12年8月13日、池田勝正など幕府勢は、但馬・因幡国守護の山名祐豊を討伐し、伯耆国など周辺で影響力を持つ尼子氏勢力にも備えるための布石を打って帰途につきます。
 しかしこれは、幡州青山の合戦で、友軍であった龍野赤松政秀勢が敗退したため、退路を断たれる恐れもあって、播磨方面へ後退したものとも考えられます。ちょうど幸いに、山名祐豊の居城である此隅城を落とした事で目的は達成されており、幕府方の撤兵は外聞としても不自然でありません。

そんな中で、幕府方の検使(目付)であった朝山日乗が、同月19日付けで、毛利元就・同被官福原貞俊・同児玉元就・同井上春忠・元就衆小早川隆景・同被官口羽通良・同牛遠・同山越・元就衆吉川元春・同被官桂元重・同井上就重・元就衆同名輝元・同被官熊谷高直・同天野隆重へ宛てて音信します。
 
この内容は大変興味深い内容です。以下その内容を抜粋で紹介します。

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(前略)
一、出雲・伯耆・因幡三カ国合力為し、則ち、木下藤吉郎秀吉・坂井右近政尚人に五畿内衆20,000計り相副えられ、日乗検使の為罷り出、但馬国於銀山を始めとして、子盗(此隅)・垣屋城、10日の内18落去候。一合戦にてこの如く候。但馬国田結庄・同観音寺この両城相残り候。相城申し付けられ候。山下迄も罷り下らず、近日一途為すべく候。御心安かるべく候。一、備前・美作両国御合力の為、木下助右衛門尉・同名助左衛門尉定利・福島両三人、池田筑後守勝正相副えられ、別所小三郎長治仰せ出され、是も日乗検使罷り出、20,000計りにて罷り出、及び合戦。増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ケ所落去候。置塩・御着・曽祢懇望半ばに候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。只今小寺政職相拘わり候条、重ねて柴田勝家・織田掃部助忠寛(信昌)・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭申し付けられ候。15,000之あるべく候。近日為すべく候間、即時に小寺・宇野申し付け、(竜野)赤松下野守政秀一統候て、備前国三石に在陣仕り、宇喜多河内守直家・備中国人三村元親と申し談じ、備前国天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者播磨国庄山に陣取り候。
(中略)
左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。
(後略)
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通信内容は、事実である部分とそうでない部分が入り混じっています。不利な情況は伝えていませんし、更に伊勢方面から15,000の軍勢を播磨国へ入れると伝えています。しかし、この時点で実現は難しい誇張表現があります。実際にそれは行なわれていません。

興味深いところを少し見てみましょう。

「置塩・御着・曽祢懇望半ば候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。」との一節は、交渉と軍事的圧力で、屈するだろうとの見通しを立てているようです。更に、播磨国人の小寺・宇野氏(この時は敵方なのだが)に命じて、龍野赤松氏と合流し、備前国天神山に居城するに浦上宗景を討つ、と言っています。
 その時、宗景の重臣である宇喜多直家や毛利方の備中国人三村元親も幕府方に加わる、としています。そして「根切り」、皆殺しにする、と伝えています。
 実際、9月になると宇喜多直家は、浦上氏から離れて乱を起こします。幕府方は調略を行っていたのでしょう。

また同時に、「五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め」と、毛利元就へ支配領域の宣言を行っています。この時点で幕府は、いずれの国でも全域に支配が及んでおらず、不完全なままでしたが、勢力範囲を明確化させています。
 そして更に「阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。」とつけ加え、更なる領域の拡大方針までも示しています。これらは毛利氏にとって、あまり面白くない動きだとは思います。九州の大友氏との調停を幕府に依頼する引き換えとして、どさくさ紛れに、毛利氏の弱みにつけ込んだような感もあります。

幕府が、永禄12年夏に播磨へ侵攻した理由は、そういった毛利氏との密約のようなものもあり、同時に領域の拡大もありました。
 ですので、10月に池田衆が幕府方として再び播磨国へ入っていますが、幕府勢は夏の侵攻をきっかけに進駐して、軍勢をとどまらせたと考えられます。当番制などで、一定数を保っていたのでしょう。

10月14日付けで織田信長は加古庄に宛てて禁制を下します。宇喜多直家の調略も成功し、目途が立った事から、幕府方は再び軍事功勢を強めます。詳しい事は解らないのですが、同月26日、池田勝正など摂津衆が再び播磨国へ出陣し、室山(室津)城・乙(おと)城などを攻撃しています。
 これは、三好三人衆とも同盟する浦上宗景方への攻撃で、播磨国から追い出す目的があったようです。同時に重臣の宇喜多氏の反乱も起きた事で、毛利方からの圧迫を強烈に受ける事になり、たまらず浦上氏は降伏します。
 この時、幕府勢は瀬戸内海沿いを進んだらしく、英賀などこの方面の国人も幕府方に味方するようになっていたようで、海陸の通路を利用したと思われます。

それから、この時ちょっと奇妙な事件が起こります。池田衆が龍野方面に出陣していたのですが、その道中に鵤荘があります。池田衆はこの荘内に乱暴をはたらき、「御太子絵」を池田に持ち帰ったというのです。
 しかし、元亀2年になって「色々と不吉な事が起こるのは、絵を持ち帰った事だろうから返す」といって、池田衆は斑鳩寺仏餉院に伝えています。
 どうして池田家の一部が乱暴を働いたのか、よくわかりません。幕府に何度も徴用・動員され、不満が募っていたのかもしれませんね。将軍義昭方となり、守護格に取り立てられましたがそれから1年、休む間もなく幕府のために働かされています。

池田衆はこの後間もなく帰途についたようです。11月頃と思われます。今のカレンダーでいうと、12月中頃の寒い時期です。


 

2012年11月6日火曜日

黒田勘兵衛と池田勝正と播州青山の合戦

平成26年(2014)の大河ドラマに黒田勘兵衛(孝高)が取り上げられる事になったようです。
 最近の大河ドラマは低視聴率を続けていますが、戦国時代を取り上げる事で、業界期待通りの視聴率につながるかどうか、注目したいところですね。

青山古戦場跡
さて、大河ドラマで播磨国方面が取り上げられるとあって、当方もその動きに追従したいと思います。
 黒田勘兵衛の出自など詳しくは、ご存知の方も多いと思いますので割愛したいと思いますが、勘兵衛の名を一躍、世に知らしめたのが「播磨国青山の合戦」でした。
 勘兵衛は10倍もの敵を正面に受け、見事に撃退し、思い通りにはさせませんでした。また、領地は敵に囲まれていて、ひとたび合戦に負けたり、降服したりすると、領地・領国を失う瀬戸際にありました。

伝置塩城大手門(姫路城「との門」)
そんな中で勘兵衛を世に知らしめた「青山の合戦」では、池田勝正が勘兵衛に敵する幕府方摂津衆として、一連の戦いに加わっています。
 この頃、播磨国は守護家の赤松氏が2つに割れ、共に争っていました。播州平野を二分する山々(峰相山から南へ馬山・城山・壇特山・京見山などが連なる)に隔てられて、そこを境にして東西に領域を持ちました。
 西には守護家から分かれた赤松政秀が、龍野城を中心として展開し、東には守護家筋の赤松義祐が置塩に居城します。
 黒田勘兵衛は、守護家の赤松義祐に仕える小寺政職の重臣として姫路城に拠点を持ちました。今の国宝姫路城が建てられる前は、黒田勘兵衛の一族が住む城でした。
 永禄12年夏、将軍義昭が20,000の軍勢を播磨国方面へ向けます。これには複合的な要素が重なっています。以下、箇条書に整理して示します。
 
<原因>
・毛利氏の浦上方牽制要請が幕府にあった
・毛利氏の尼子(山名)方牽制要請が幕府にあった
・但馬・因幡国守護の山名氏討伐を幕府として企図した
・龍野赤松氏の支援の必要があった
・播磨国の平定を幕府として企図した
・四国の三好三人衆を討つための布石をうつ目的があった
・瀬戸内海の制海権を幕府として得る必要があった
 
大塩町の旧市街にある西光寺
幕府として、これらの要素を一気に解決するために、大軍を準備して差し向けました。この時に池田勝正は、相当数の兵を出したようです。
 この動きを幕府勢の「但馬の山名攻め」と「播磨出兵」などと別々の捉え方をしているようなのですが、よく見てみると一連の行動である事がわかります。
 この動きは、後の「越前朝倉攻め」の基本ともなる動きをしますが、双方で大軍を用意したのは、示威行動であると共に要所に兵を割くためでもあります。
 幕府軍は、播磨国の増井・地蔵院・大塩・高砂・庄山の城を落します。このあたりは置塩赤松氏の領域です。姫路・御着の城をとり囲むように幕府方の足場を作ります。
高砂市阿弥陀町の地蔵院
しかし、それ以上西へは進まず、市川沿いを北上して但馬国へ向かい、山名氏を降服させます。10日間で18もの城を落とし、山名氏の居城である此隅(こぬすみ)城を落とし、生野銀山も手に入れました。池田勝正もこの方面へ出陣していました。

しかし、無敵と思われた幕府方の行動を狂わせたのは、黒田勘兵衛の活躍でした。普通に考えれば圧倒的優位の龍野赤松勢が負けるはずはありません。勘兵衛は、青山の合戦で勝利し、幕府方赤松勢を撃退したのです。
 幕府方は早期の後退を決め、一旦勝ち取った優位性を崩さないように政治的な方向性に持ち込んで、決着を図ろうともしたようです。
庄山城遠景
播磨国内で、再び反幕府勢が盛り返すと、但馬へ入った軍勢の退路を断たれてしまうばかりか、山名氏の残党が再び勢いづきます。また、四国などからも三好三人衆の勢力が、反幕府方として播磨国へ来援してしまい、形成は一気に逆転してしまいます。

8月19日付けで、幕府方朝山日乗が、毛利元就に対して庄山城から状況を伝えています。幕府軍の優位を伝えているのですが、嘘も書いています。
 そしてまた庄山城は多分、軍事行動の拠点とし、要地としていたのでしょう。この点について詳しくは今のところ解っていません。

英賀城本丸跡
さて、10月になると、織田信長が、加古庄へ宛て禁制を下します。幕府方が播磨国で再度攻勢を強めます。しかしこれは、龍野赤松氏への援軍だったようで、池田衆はこれにも従軍しています。龍野赤松氏は随分と弱っていたようです。

この2回目の播磨国出兵は、完全に幕府方が播磨国内から兵を退かず、庄山城などの拠点に維持しつつ、時宜を待って再び攻勢に出たものかもしれません。毛利氏の協力もあったために、そういった機会に敵を制圧しようと考えた可能性はあると思います。