2012年10月24日水曜日

池田・箕面市境にある石澄滝と鉱山

五月山から北には無数の鉱山跡があります。五月山は北摂山塊の南端にあたり周辺には「間歩(まぶ)」跡も多く見られます。近くでは多田銀山が有名ですね。

しかし、池田市域にも間歩跡がいくつかあります。五月山の連なりで頭頂部にあたる六個山(396メートル)の西側に、間歩跡が残っています。貞享3年(1686) に鉱山が開発され、京都の浅川三郎兵衛という人が8年間に渡って銅を中心に採掘したようです。
 更にこの鉱山からは、銅の他銀も採れたらしく、貞享4年の資料(吉田家文書:大谷用水番水手形)には「銀山」と記述されているそうです。

その後、写真の場所から少し南で、太平洋戦争中にも採掘していたようです。そこは秦野鉱山と呼ばれ、主に鉛を採掘していたようです。

写真は、一番大きな間歩です。中には入れませんが、入り口は2メートル程あり、下向きに数十メートルはあろうかと思える、怖いくらいの穴があいています。

一番大きな間歩の跡

また、ここには石澄滝があり、落差は15メートル程でしょうか。落ちたら死ぬくらいの高さです。周辺は岩場で、道具が無いと、登るのは難しいところです。

石澄滝

そんな立地からこのあたりは修行の場で、その跡も沢山残っています。箕面寺や勝尾寺が近くにありますが、真言宗系の寺院(山伏の格好をする)が付近には多く、五月山は修行の山でもありました。ですので、池田の畑から高山、余野、止々呂美、勝尾寺、箕面寺方面へつながる山道もありました。

また、この六個山の南側、石澄滝が流れ出る丘陵地あたり、現在の箕面市新稲にある曹洞宗栄松寺は、池田一族の関係者が創建したお寺です。更に六個山の草地は、池田一族出身者が中心となって開いた新稲村の草地でもありました。今もその辺りは新稲の住所表示です。
 ちなみに、この石澄滝に発した流れは、南流し、石澄川となって箕面市瀬川地域で箕面川と合流。池田市井口堂地域を経て、猪名川へ注ぎます。

鉱山開発される前にも当然、池田城やその町とは関係の深い地域でしたが、その後もこのように池田と深い関係を持っていた地域です。


参考サイト1:大萱原鉱山(大阪府の鉱物産地を訪ねて・その14)
参考サイト2:鉱物趣味の博物館
参考サイト3:五月山遠望(わが街池田:池田城関係の図録)


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2012年10月14日日曜日

白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について

『陰徳太平記』の記述にも登場する藤井加賀守なる人物についてですが、直接的な史料はあまり無いものの、実在した人物であることは間違い無いようです。

幸福山太春寺の山門
いわゆる、池田二十一人衆の連署状とされる『中之坊文書』に、藤井権大夫数秀なる人物が署名をしています。また、荒木村重が高山右近など複数の人物宛てに発行した書状(『佐佐木信綱氏所蔵文書』)にも、藤井加賀守と思しき人物が見られます。

また、藤井加賀守の領地の寄贈を受け創建された幸福山太春寺(たいしゅんじ)があり、また、箕面市外院に藤井加賀守と伝わる供養のための墓*があります。それに荒木一族の関係者の墓も連なっています。
※供養のための墓とは、埋葬した場所とは別の、拝むための墓塔があり、この地域の独特とも思える文化があります。

史料としては数が少なく、判断に迷う所ですが、それにまつわる史跡も含めると、おぼろげながら推定もできそうです。
伝藤井加賀守の供養墓
藤井姓は、箕面市如意谷・外院地域には多くあり、戦国時代には藤井氏が、このあたりの豪族であったのではないかと思われます。
 藤井加賀守は荒木村重の重臣であったとも伝わっており、そういったところを考えると、それなりの統率者でもあった事が推測できます。豊島郡の東の端にあたり、今の箕面市如意谷や外院あたりに勢力を持つ豪族で、垂水牧であった萱野にも近く、箕面寺・勝尾寺、西国街道なども要素に持ち、荒木村重を支えた人物ではなかったかと思われます。

墓の裏に「荒木摂津守■■」
もちろん、池田勝正時代には、確実に池田家中の人物であったようですが、それ以前からも同様であったと考えられます。

今のところ、藤井加賀守についてはそんな個人的見解を持っていますが、今後また、何か解ればこのブログでご紹介したいと思います。


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2012年10月13日土曜日

旧暦8月28日は、今年のカレンダーでいうと10月13日です。

旧暦8月28日は、今年のカレンダーで言うと、10月13日です。
旧暦の元亀2年8月28日は、太陽暦の10月13日です。そうです、白井河原合戦は、こんな季節に行なわれたのです。

数字だけ見ていると、「夏」ですが、収穫の時期、しかもこんなに涼しい時期に合戦が行なわれました。朝晩は、随分と寒いですよね。また、『言継卿記』など当時の日記史料を読みますと、京都も奈良も晴れていたようですので、摂津国中部、白井河原あたりも晴れていた事と思います。
 歴史上の出来事を、現在に置き換えてみるのも、結構面白いというか、意義があります。

この合戦で、三好三人衆方池田衆の荒木村重や中川清秀は名を挙げ、近隣に知られた武将となっていきます。

白井河原合戦について、『陰徳太平記』の「白井河原合戦並びに高槻茨木両城合戦之事」を見てみます。
 (前略)。かくて各先陣2陣と手配りし、荒木信濃守村重、先陣にぞ進みける。(中略)。相続く士には、中川瀬兵衛尉清秀・池田久左衛門尉知正・安部野仁右衛門・星野左衛門尉・山脇加賀守・同名源太夫・野村丹後守・藤井加賀守・荒木善太夫・同名善兵衛・伊丹勘左衛門・川原林越後守・秋岡次郎太夫・本庄新兵衛・粟生伊織・安都部弥一郎・北の河原(北河原?)新五・同名与作・同名与一右衛門・福田午の介・佐伯庄衛門など皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。此の外二十一人衆に、池田清貧斎を始め、老功の士、勝正の幕下に属して、後陣を堅め、都合2,500余騎、上郡の馬塚に屯を張る。両陣白井河原を隔てて、互いに螺を吹き立て、敵の模様を窺いける。(後略)。

また、『耶蘇会士日本通信』の「1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰」にはこうあります。
 (前略)。翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)。彼(和田惟政)は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督(惟政)の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)。総督の首級は他の武士一同のと共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり、とあります。

旧暦8月28日に行われた白井河原合戦に破れた和田方は、本拠の高槻城に入り、防戦の順日を行います。また、幕府方はこの報に接し、三淵大和守藤英を急派させています。


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2012年10月12日金曜日

和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る

元亀2年(1571)8月27日、日本史上でも決して小さな出来事とは言えない「白井河原大合戦」の前日です。記録は陰暦ですので、現在の太陽暦に変換すると、本日10月12日です。
 田畑の実り豊かなこの時期に、反幕府方池田衆と幕府方摂津守護和田方が、攻防戦が繰り広げられて、いよいよ決戦のその時が近づきました。
 
この合戦で、池田衆が京都の至近である茨木方面で勝利し、京都の防衛に大きな穴が空いてしまいました。幕府方は京都を守りきれず敗走する事も十分にあり得た深刻な事態でした。なぜなら、一連の武力侵攻で池田衆が西国街道とその分岐点を押さえたからです。池田衆は、反幕府勢力であり、古巣の三好三人衆方です。

この白井河原合戦について、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した当時の報告書『耶蘇会士日本通信』には、その様子が詳しく記述されています。

そこには、(前略)、惟政勇を恃(たの)みて聞かず、高槻を去る3里計りの糠塚に陣す。其の翌日、即ち元亀2年8月28日に惟政は、白井河原に突撃して村重らの軍と戦い、(後略)、とあります。

白井河原の合戦は、早朝から行なわれていたようですので、前日に池田衆と和田惟政は陣取りを終えていたと考えられます。池田衆は今の茨木市郡のあたりに陣を取っていますが、ここに陣を取るには、宿久庄城や里城(同市藤の里あたりか)などを既に落としていたと考えられます。
 対する和田惟政は、自軍の体制が整わない中で快進撃を続ける池田方を口惜しく思いつつ、幣久良山(てくらやま)に陣を取り、池田衆の様子を見、諸方への連絡等、手筈を整えていたようです。
 惟政は、池田衆に不意を衝かれ、不本意ながらも白井河原付近まで池田衆の侵攻を許してしまいました。惟政は要害性があり、守りに適したこの付近で、池田衆の前進を阻む事ができると考えていたものと思われます。
 
池田衆は夜の間に伏兵を配し、惟政を誘き出す作戦に全力を尽くし、この先鋒に荒木村重が就いていたようです。村重は翌日の合戦で期待通りの活躍を見せ、近隣に名を知られる武将となります。

兎に角、双方共に「明日はいよいよ決戦」との決意を堅め、陣を周到に組んでいたと考えられます。

詳しくは、「白井河原合戦について」の項目をご覧下さい。


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2012年10月7日日曜日

441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣

元亀2年(1571)8月22日早朝、三好三人衆方池田衆は、幕府方摂津守護和田伊賀守惟政に決戦を挑むべく、3,000の兵を西へ向けて出陣させました。今から441年前です。
 また、当時の記録にある日付は旧暦であり、陰暦ですので、現在の太陽暦で言うと、正に「今日」です。

そうです。新米の季節です!

つい、グルメの方向に行ってしまいました。すいません。

さて、この時期に決戦を挑むというのはやはり、収穫をも手に入れるべく計画しているのは明らかだと思います。武力闘争に勝てば、今現在の実りと、その後の収穫も手に入れる事ができるのです。

池田衆は、和田方に領地を侵されていましたので、この一戦に心血を注ぎ、挽回を図ろうとしていたようです。池田衆は持てる力の大部分を注ぎ、準備も行ったようです「3,000」の兵とは、当時の単独動員数としても大きな部類です。
※控えなどで、他にも兵を残していたようですので、総力ではありません。

池田衆は、和田惟政と決戦を挑むべく、西へ進みます。3,000の兵を3隊に分けて、池田を発ちました。この3隊に分けた事も、計画があっての事だったようです。

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2012年9月24日月曜日

組織と個人を結びつけ、維持する事

組織と個人を結びつけ、維持する事について、個人的に関心を持っています。それを維持し続ける要素とその中心たる核。また、それを維持し、発展させて行く要素とは何でしょうか?

これは、現在にも通じるテーマです。

池田勝正が生きた時代の日本には「家」制度があり、その中心は血族の結合体です。また、運命共同体としての「村」という社会。そして権力。

しかし、それらは当たり前のように、何もせず存在した訳ではありません。もちろんルールも必要ですし、持続活動のための利益も必要です。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず...。」有名な一節もありますね。これは、人間社会の不滅の真理のように思います。

近江守護家の六角氏は、あれほどの権勢を誇ったにも関わらず、永禄11年秋、あっけなく崩れ去りました。三好長慶亡き後の三好家、同じく織田信長...。もちろん池田勝正亡き後の池田家、それに続いた荒木村重...。
※もちろん、滅びていない家もありますよね。滅びたところばかり見てもだめなのですが、滅びる時にその組織の真理と核が現れるように思います。

その中心は人間です。その人間の何がそうさせるのか。

家庭も組織も地域も国も、集まって生活する為には、何が必要なのでしょうか?それを支えるのは何でしょうか?個人が持つ欲望でしょうか?

織田信長などの書状等を見ていますと、統率力のある人物を捕らえたり、処刑したりする事(やみくもな殺害という意味では無く)に注意を払っています。 もちろん、良くも悪くも能力のある人物は、自分の側でも注意を払っています。

やはり、先導者というか主導者となる人物(人材)が、組織を永続せしめる「核」なのではないかと最近、自分の経験などからも感じるようになりました。
※当たり前の事ですね。遅ればせながら、やっと自分の頭で理解できるようになりました。

「烏合の衆」という言葉がありますが、沢山の人間がいても、そこに「意思」がなければ何の約にも立たず、何の生産もできません。

それからまた、その先導者とか主導者を、どうやって過ぎ行く時間の中で「適正」を判断するのか。それは誰が行なうのか...。人間の寿命を越え、何代にも渡って組織を維持し続けるための難題をどうやって克服していくのか...。

キリがないのですが、組織と個人、そしてそこにできる社会と権力について、大変興味を持っています。そんな事も、勝正の研究の中から読み取れたらいいな、と考えています。

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2012年9月14日金曜日

千年以上前のナビ

仕事でちょこちょこと京都にも行くのですが、交差点を渡る時にふと思いました。

「ナビだ」と。

東西南北を把握し、通りと筋の名前がわかれば、いつでも自分の位置が把握できます。学校でも習った碁盤の目の都市づくりですね。

こんな仕組みが千年以上前からあったとは、凄いな〜、と、ふと感じました。学生時代、旭川に住んでいたのですが、ここも碁盤目の町づくりです。札幌もです。住んでいる人も外から来た人も直ぐに把握できて便利だったのですが、その事を忘れていました。

そして自分の頭の中は直ぐに勝正の時代にタイムスリップします。

代々の当主もそうですが、池田勝正は摂津守護職を任された人物でもあり、それらの当主と同じく勝正も京都に屋敷を持っていたと考えられます。 当時の人々も、ずっと、この「碁盤の目」システムを享受してきたわけです。

京都には、今もその概念が残っていて、町づくりの中心になっています。当たり前〜、すぎる事なのかもしれませんが、何だか妙〜に歴史を実感しました。

それでは感動の写真をどうぞ。


 
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2012年8月28日火曜日

元亀2年8月28日の白井河原合戦の事

元亀元年(1571)8月28日の早朝、今の大阪府茨木市郡付近で三好三人衆方池田衆と幕府・織田信長方和田伊賀守惟政勢の合戦があり、池田衆が勝利しました。今から441年前です。

詳しくは昨年、「白井河原合戦に至るまで」として詳しく書いてみました。ご興味のある方は、ご覧下さい。

さて、今年は、ちょっと合戦の様子についてご紹介してみようと思います。
 白井河原合戦については、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの上司に宛てた現地報告書の中に詳しく書かれています。また、こういった報告書をフロイスが後年、再編集し、内容に修正等を加えたものが『(フロイス)日本史』として発行されています。
 前者は、『耶蘇会士日本通信』として、戦前に訳されて刊行されたものがあります。『日本史』は昭和53年になって発行されたもので、 『耶蘇会士日本通信』の誤訳を補完する役目も持っています。
 しかし、 『日本史』の方も昭和50年代の研究を元に訳されて、細かな人物関係や日時などには間違いがあり、また、本文そのものも少々訂正すべき所があるようで、それらを正すべく更に『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』など一定の年ごとに区切った訳本が発刊されてもいます。
 発刊される毎に発展しているのですが、地域権力についてはまだ全国的に周知されるに至らず、特に池田衆と和田勢の戦争である白井河原合戦については、今も間違いは正されいません。

白井河原合戦跡地(北を望む)
『(フロイス)日本史』では、この時の池田衆内の主導者として、池田知正と荒木村重が統一表記されているのですが、実際は、池田三人衆という勢力があって、その三人が当主を置かず合議統治していたのが実情です。この点では『耶蘇会士日本通信』の訳し方の方が正しいと言えます。
 この時の 池田家の主導者は池田勘右衛門尉正村・池田紀伊守(清貧斎)正秀・池田(荒木)信濃守村重です。これらの人物はいわゆる「家老」で、その下というか同列にも近いカタチで上位の武士がおり、その中に池田知正や中川清秀、池田正行などが含まれていました。
 この池田三人衆はそれぞれ1,000名程の軍勢を受け持ち、白井河原合戦に動員しています。池田家の実際の動員数はこれよりも多かったと思われます。全部を出陣させて、本拠地や重要地点を空にする分けにいきませんので、いくらかは残す筈ですので。

さて、白井河原合戦は、記述によると早朝から行なわれていた事がわかります。『(フロイス)日本史』の記述(第41章(第1部94章):和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について)を引用します。

(前略)
この不幸な合戦の当日、私はそこから4里(16キロメートル)離れた河内国三箇に居ました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山飛騨守ダリオ(和田惟政家臣)のところに遣わして、道中が危険なので、奉行(和田惟政)から私たちのため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私たちにはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところがやっと午後になって遣わした家僕が戻り、この悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族たちが運命を共にした事、そして家僕が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し退去して入城していた事を私たちに報告しました。
 (中略)
奉行の首級は、すべての他の殿たちの首級とともに、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声をあげて、この度の出来事(池田衆の勝利)を祝いました。
 二日二晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんど全ての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。
(後略)

とあります。 また、『耶蘇会士日本通信』でもほぼ同じ記述内容ですが、そこには、聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。、とあります。

合戦が早朝から始まったと考えられるのは、戦い方を見てもそう感じさせるものがあります。

現郡山宿本陣付近南側の高低差
同じく『(フロイス)日本史』の同条を見てみます。

(前略)
和田殿は、大胆、かつきわめて勇敢でした。彼は城中(高槻)、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、もっとも勇敢な戦士たちでありました。しかし、その報せ(前線からの敵進軍中の報告)はあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に 700名あるかなしかの兵卒を率いて直ちに出陣する他ありませんでした。
(中略)
彼(和田殿)は上記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の一人の息子(愛菊惟長)とともに後衛として後に続きました。
(中略)
郡山地域にある馬塚跡
彼(和田殿)は敵勢を新城から半里(2キロメートル)ばかりのところで認めますと、息子とともにやってくる後衛を待つ事無く、交戦の際には徒歩で戦う日本の習慣に則り一同を下馬させ、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
そして彼らは見つかると、忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まるとすぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫るのを見、はなはだ勇猛果敢に戦いました。
(中略)
奉行とともに、かの200名の貴人も全員討ち死にし、和田殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは池田からは、それほど多くが出陣したのでした。
 和田殿の息子は、父の破局に接しますと、後戻りをし、わずかばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒たちは、奉行並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者たちも同じく分散してしまいました。
(後略)

とあります。

郡地域にある馬塚跡
池田勢は、3,000の兵を出陣させ、その内の1,000名だけを露出させ、他は伏兵として山裾に隠していました。これは夜のうちに、準備をしていたと考えられます。
 また、この白井河原あたりの地形は 南北に迫る山塊の谷にあたります。勝尾寺川はその谷を流れ、その川に沿って西国街道が走っています。したがって、西国街道を通れば、南北にある山塊から俯瞰されます。そして、白井河原付近からは南の山塊(千里丘陵)が途切れ、更に大きく視界が開けます。池田衆はこういった地形を利用して、決戦を挑む事をはじめから作戦を立てていたと考えられます。


池田衆は現在の茨木市郡山から郡あたりに陣を取りました。そこに「馬塚」という陣跡が2カ所ありますが、池田衆はその両方に陣を取っていたのかもしれません。勝尾寺川、西国街道の南側です。
 和田方は、その池田衆の陣から北東にある幣久良山に陣を取り、眼下の勝尾寺川と茨木川の合流点を天然の堀としていました。ここは、明治20年(1887年)2月、明治天皇が大阪鎮台兵の演習を御覧になったところでもあり、その事の碑が立っています。
 幣久良山からは、360度視界が開けていますので、そこから北東に1キロメートル程の安威城、また、南に2キロメートル程の茨木城の様子もすぐにわかります。

宿久庄城跡推定地
夜が明けた時、和田惟政は幣久良山から池田方の陣を見て、陣形がまだ調っていないと考えたのかもしれません。すぐ西側には宿久庄城と郡山城があり、それらを池田衆が攻囲していたため、そこに手を取られているとも考えたのでしょう。
 さて、郡山から郡あたりの池田の陣形が、1,000名程を二つに分配置されていたとすると、数も大して多くは見えなかったでしょう。軍勢の配置は1点では無く、複数点置かなければ、攻守に移れませんし、補完ができません。
和田方は、200名といえども指揮官クラスの武将ですので精強です。 和田惟政は、この状況を見て、相手の体制が調わないうちに、攻めようと考えたのだろうと思います。決して勘違いでは無く、勝機を見いだしての行動だったと思います。


郡山城跡
しかし、そう思わせた池田衆の思うつぼだったのです。出撃してきた和田方に300丁もの鉄砲の一斉射撃と2,000名もの伏兵が襲いかかりました。もちろん1,000名の囮の池田衆もそれに加わります。

和田惟政率いる200名の武士は、ひとたまりもなく、全滅だったようです。

池田衆は28日から、二日二晩に渡って和田領内を打ち廻ったと、『(フロイス)日本史』などの記述に見られます。池田衆は遂に、芥川を渡って高槻城も囲み、攻め始めます。

結局、この戦いに幕府・織田信長方の兵も救援に駆けつけて、一時的に停戦などを行ないますが、 11月になっても禁制が出されていたところを見ると、この年いっぱい闘争が続いたようです。

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2012年8月17日金曜日

元亀2年9月中頃、摂津国吹田へ吹田氏復帰か

詳しい日時は不明ですが、白井河原合戦の戦況から見ると、元亀2年(1571)の9月中頃には摂津国吹田村を取り戻し、三好三人衆方池田氏に近しい吹田氏が入った(復帰した)と考えられます。

千里丘陵の南側に位置する、水運・陸上交通の要衝である吹田は、同年6月に吹田城を落として制圧しています。 これには幕府方和田伊賀守惟政が担当し、三好三人衆方に加担する守備勢力の武将57名を討ち取ったと、『言継卿記』にあります。「親は遁(逃)げ」とあり、これは吹田氏ではないかとも考えられます。

吹田を確保した事で、千里丘陵南から豊嶋郡へ入る事ができ、そのまま東進すれば友軍の摂津守護伊丹忠親とも勢力範囲を繋ぐ事ができるようになりました。また、神崎川を押さえる事ができ、京都への水運監視ができるようにもなります。

和田惟政は、本拠の高槻から茨木を押さえとしつつ、南への連絡が確保できた事から、池田城への攻勢を強めました。6月23日には、和田惟政が摂津国豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現豊中市中桜塚の原田神社)へ宛てて禁制を下すようになっている事から、 原田城もこの頃には池田氏配下から離れていたと考えられます。

「原田城について」のページ

ちなみに、この一連の闘争で高山飛騨守長房の息子(3男:高山右近の弟)が戦死し、宣教師ルイス・フロイスが、その埋葬のために摂津国へ赴いています。

吹田方面では闘争が続き、幕府方は吹田から江坂を経て原田方面、そのまま東進して利倉・椋橋方面へも進んでいたものと考えられます。

しかし、三好三人衆方の池田勢も事態打開を画策しており、和田方と白井河原で決戦を行って勝利しました。
 和田方は元々勢力を分散してしまっていた事と、総大将である和田惟政をはじめ、主立った多くの人材を失うに至って、立て直しが不可能となって壊滅状態に陥っていました。

池田衆は、和田方の拠点を一気に攻め、和田方の拠点の高槻をも取り囲んで落とす勢いを持っていました。また、茨木城などその他主立った拠点も2つ落としています。
 高槻は講和によって、辛くも守りきった和田氏でしたが、人材を失ったため、立て直しができず、その数年後には滅亡となります。
 一方の池田氏は一気に東へ勢力を拡大させ、吹田を取り戻し、茨木を新たに配下に収めたようです。 池田勢は千里丘陵の周縁部はほぼ勢力下に収めるに至り、西国街道・亀岡街道・吹田街道などなど、多くの地域や権益を支配するに至りました。

「白井河原合戦について」のページ

白井河原合戦は旧暦の8月下旬ですので、太陽暦ではもう秋で、収穫の頃です。池田勢が勝利した事により、これらの収穫も手に入れる事になりました。

池田一族衆の池田正行は、こういった状況下で春日社南郷目代今西氏へ、吹田についての音信をしていたものと考えられます。

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2012年8月4日土曜日

摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将

池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。

正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容です。

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尚々吹田寺内衆へも此由堅被仰付候て可出候。少取乱候之間閣筆候。重々対後日私曲之儀在之候ハバ、貴所可為疎意候。(悉無事之様御調専一候。)

南郷五ヶ村扱之儀、相調候由可然存候。就其寺内村之儀も軈而作環住可申候歟。如五ヶ村無別儀様御調所仰候。自然後日ニ申事於在之者、其曲在間敷候。為御案内如此候。恐々謹言。

年欠 十二月十三日 池田紀伊守正行

今西橘五郎殿 御宿所

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吹田殿趾
音信(『今西家文書』)は「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直後のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。白井河原合戦時の吹田村周辺の状況については、「白井河原合戦について」をご覧下さい。

また、文書の内容は、最後に「恐々謹言」とはあるものの、大変高圧的で「慇懃無礼」でもあります。
 しかし、そういった態度を取る事ができる状況だった事がわかります。文書の宛先である今西氏は、奈良春日社の荘園(主に垂水西牧、次第に東牧の山田荘や菟原郡山路荘にも広がる。)を管理する神人(じにん)で、池田家にその荘園から上がる税金の徴収を部分的に任せていました。
 今西氏担当(支配)の地域は、最盛期で7万3千石に達していたそうです。詳しく書くと大変な文章量になるので割愛しますが、今西氏と池田家は重要な関係であり、こういった高圧的な態度で池田家が接していた事はあまり無いのですが、天正時代頃には次第にそういった傾向になっていたのかもしれません。しかしながら、これ程の内容は他にあまりありません。

さて、池田紀伊守正行という人物ですが、「紀伊守」という官位を名乗る前は「勘介(かんすけ)」でした。なぜ同一人物である事が断定できるかというと、文書の最後に書く自分の名前の近くに「花押(かおう)」という手書き印を記します。これはその人だけが持つもので、公的な証明になります。
 この花押が、池田勘介の場合も池田紀伊守の場合も「正行」としての花押が一致します。ですので、地位が変わっていても同一とわかるのです。
 それから、勘介とか紀伊守というのは、社会的地位を示すものです。社会的な地位は伴いませんが、今でも歌舞伎役者などは、こういった伝統的なシキタリの名残がありますね。また、官位は会社でいうところの、係長や課長・部長といった組織内部と、社会通念としてのニュアンスもあります。

正行が生きた時代は、それがそのまま社会的身分となります。また、一族内での順位にもなっていきます。

そしてその地位ですが、下積みといいますか、最初は「勘介」という通称ですが、家中の政治で重きを成すようになると対外的な接触も増える為に官位を伴うようになっていくのが多くの場合です。
 正行の場合は、「勘介」から「紀伊守」となります。紀伊守の社会的身分は、国司という部類で、侍がよく名乗る位(くらい)です。国の名前に「守(かみ)」とつく呼称です。守が最高位で、その下に色々と位階があります。そして、その国にも上下の区別があり、大国・上国・中国・小国となっていて、大国の最高位は従五位(上)、上国は従五位下、中国は正六位下、小国は従六位下です。ですので、池田家の当主の筑後守は上国で従五位下ですので、その他の一族は社会的地位が並ぶ事はあっても越えない範囲で、地位が決まります。紀伊守は筑後守と同じ、上国で従五位下です。
 ちなみに、その他に池田家中で見られる官位は、池田播磨守(大国)、池田肥前守(上国)、池田周防守(上国)、池田遠江守(上国)、池田豊後守(上国)、池田伊賀守(下国)、池田和泉守(下国)、渋谷対馬守(下国)、池田伊豆守(下国)、荒木信濃守(上国)、荒木美作守(上国)、荒木美作守(上国) 、荒木若狭守(中国)、荒木志摩守(下国)、などがあります。

それからまた、この官位は、それを継ぐ家がだいたい決まっていたようです。養子縁組や活躍があって、上位の地位を持つ人物から官位が下される場合などがありますので、厳密には絶対ではない部分がありますが、概ね決まっていたようです。
 ですので、紀伊守を継ぐその先代は、池田正秀の可能性も高いというわけです。この人物は紀伊守から隠居するなどで、名を一狐としたり、斎号を清貧斎と名乗った人物です。どちらが斎号で入道号なのか今はまだ迷う所ですが、公文書にも使っています。清貧斎一狐と一緒に使ったりもしています。

これが同一家系とすれば、親子となります。親子で公文書に署名した史料もあります。

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湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正次(正行か)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参

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この音信(『中之坊文書』)も「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直前のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。また、宛先の湯山とは、現在の有馬温泉の地域です。
 文中にある「池田勘介正次」は、活字にした際に「次」か「行」か判断がつかなかったため、「正行か」と注釈がつけてあります。これは正行です。ちなみに、読めない文字として他にも「荒木志摩守■清」があるのですが、この字は「■=卜(ボク)」です。この人物も地位の高い人物で、多くの書状に署名をしている人物です。それ以外にもここには重要な人物が名を連ねています。
 ちなみに、この文書は「池田二十一人衆」が署名したものとの通説があるのですが、実際には「池田二十一人衆」という集団の史料は存在せず、伝聞記録に現れるのみです。ですので、記録するため(理解)の便宜的な呼称で、その呼称も数回登場するのみです。中には「三十六人衆」とするものまであります。

◎呉江舎(池田氏関係):池田一族連署状のページ

さて、この時の池田清貧斎一狐は、「紀伊守」を署名しておらず、池田正行は「勘介」のままです。書面は後の証拠になるので、その時の状況を反映したものになっていると考えられますが、既知の相手には一々正式な名前や地位を全て書かない事もあるように思います。現在でもあるような、未知の人には当然、正式な事を全て書くでしょう。
 この『中之坊文書』では、荒木村重が、池田姓を名乗り、信濃守の官名まで名乗っています。村重はそれまで、荒木弥介として史料に登場していましたので、この史料が村重の官位を名乗った初期にあたるのだろうと考えられます。同時に、家中での地位が向上していると言えます。
  その事を湯山年寄中に宛てて告げていたとも考えられます。それに加えて、顔ぶれも意味があったと考えられます。
 実は湯山地域へは、当時の主要道でもあった有馬街道があるのですが、京都や大坂からでは、池田を必ず泊地とする立地になっていました。 湯山の更に西には播磨国三木です。そのため池田と湯山地域は、交通・商業などで密接な関係を持っていました。

こういった経緯を持つ、池田正行は、池田筑後守勝正を放逐した後の池田家政の中心的人物の一人となり、池田周辺地域などにも関わっていたようです。詳しくは今のところわかりませんが、冒頭の『今西家文書』を見ると、正行は吹田村方面の政治・軍事に関する何らかの役割を担っていたのかもしれません。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)