ラベル 研究_1571年(元亀2)の白井河原合戦について の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 研究_1571年(元亀2)の白井河原合戦について の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年4月8日土曜日

佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

永い間、気になっていた佐保城を訪ねる機会があり、行ってきました。お誘いいただき、実現しました。実際に現地を歩いてみると、文献からは判らない「感覚」を感じることができ、非常に有意義です。
 この佐保城がなぜ気になるかというと、白井河原合戦において、非常に重要な位置づけであるためです。ここは、幕府方の和田伊賀守惟政が本陣を置いた幣久良山から5.5キロメートルの距離にあり、徒歩でも1時間余りの至近距離にあります。

左手は中世頃の寺跡と推定 
当時の記録『尋憲記』8月29日条には、一、摂津国にて、昨日28日合にて和田父子其の外同名衆打ち死に。各家の衆237人、中間小者55人打ち取り由也。池田・淡路衆との合戦にて打ち果たし、則ち高槻・茨木・宿久城・里(佐保)城、以上4つ落居の由、慥かに沙汰と申し候処へ、城宗徳方(不明な人物)より上乗院へ書状同辺由也、とあります。
 いくつか、白井河原合戦について記録している当時の日記がありますが、佐保城についての記述は、『尋憲記』のみです。
 ちなみに『尋憲記』とは、奈良興福寺大乗院の門跡尋憲が綴った日記で、この頃、奈良方面でも合戦が盛んにあり、周辺地域の情報を小まめに書き残しています。奈良方面へも和田惟政は、度々出陣しており、この白井河原合戦の直前にも出陣していました。
 また、物理的な視点では、茨木・高槻(大阪府)方面で起きた戦争の速報が、合戦翌日に奈良興福寺大乗院(現奈良市高畑町)へ届いていて、その情報に佐保城を含む、高槻・茨木・宿久城の4つの城が落ちたと伝わっています。この内、高槻城が落ちたとの報せは、結果的に誤報でしたが、概ね情報は正確です。

この合戦により落城したという情報要素は、この時の状況から考えて、佐保城は和田方となっており、そこを池田勢が攻め落としたという事になりそうです。
 ただ、いつ頃から佐保城が和田方であったのか、明確な記述は見当たりません。また、佐保城と佐保栗栖山砦との関係性、城主や築城年代なども公的には不明で、故に白井河原合戦時の関係性もハッキリとしたことは材料の乏しさから不明といえます。
 今後の議論収斂に役立てばと思い、現在あたる事の出来る材料をまとめておきたいと思います。この小考の最後で、個人的見解をまとめてみたいと思います。
 先ずは定番、日本城郭大系からです。
※日本城郭大系12-P75

---(資料1)--------------------------------------------
佐保川の流れ
佐保城は、茨木市上音羽の多留見から発する佐保川が佐保の本庄で流れを東から南へと大きくかえる地点の北方の山頂に営まれた山城である。
 山は城山と呼ばれ、標高198mの独立丘的な形態を有する山であるが、背後(北)の山とは、わずか幅約30mの田圃を介して続き、その田圃との比高もわずか7-8mに過ぎない。したがって、背後からの攻撃には弱く、そのため、おおむね東西に長く延びる本丸の北側部分約80mにのみ土塁をめぐらしている。
 一方、南面はこの山から派生する支脈を介して佐保川に臨んでおり、その比高も約50mにも達しており、非常に堅固であるといえる。
 さて、本城は、わずかにくの字形に彎曲するものの、ほぼ真一文字に東西に延びる山頂部を本丸とする単郭式城郭と思われる。山頂南面中央部には大手口と推定される区域があり、2-3m四方の小さな平坦部が残っているが、そこには本丸を背にして高さ1.5m、幅70cm内外の巨石が三個立て並べられており、後世、大坂城の大手門桝形・同桜門桝形などの虎口正面における巨石使用の先駆として注目されるものである。この大手門に至る大手道は、つづら折となって続いているが、途中数カ所で巨石が2・3段積みあげられている場所があり、城郭に関わる何らかの施設の跡と思われる。大手道を下っていくと、山の中腹に10年程前に新築された住宅があり、その裏庭で大手道はとぎれてしまっている。したがって、それ以下の城郭施設の有無については、全く知ることができない。
 一方、本丸の北面する部分は、前述したように高さ40-50mの低い土塁が続いており、防衛力の弱い北方からの攻撃に備えたものであろうと推定される。本丸の平坦部は、枯れた松や竹林によって足を踏み入れることさえ困難な状態であり、内部の残存状況はまったくわからない。
 いずれにしろ本城は、石塁もほとんど持たない単郭式の小城郭であったと思われ、その北部に営まれていた泉原砦と同じく、能勢と茨木とを結ぶ山中の間道を扼するために築かれたものであっただろう。
 城主・沿革についても全く伝わっていない。ただ、建武3年(延元元:1336)頃、泉原には勝尾寺領高山庄の下地雑掌職を勤める泉原将監という人物があおり、それが泉原砦とも何らかの関係を持っていたと思われるところから、この佐保にもこの頃、佐保一円を支配した小土豪が存在したことは充分考えられる。
 なお、『東摂城址図誌』には、この城のほかに佐保砦跡として一城跡の存在を記している(字城屋敷)が、その遺跡は明かではない。
--------------------------------------------(資料1おわり)---

そして、日本城郭大系からです。しかし、この表題は佐保城ですが、どうも佐保栗栖山城を指しているようです。
※日本城郭全集9-P87(1967年8月刊)

---(資料2)--------------------------------------------
保川右岸、栗栖の中腹に東西約60メートル、南北約220メートル、回字形の城であった。別に東西約100メートル、南北約216メートルともあり、城山といわれ、字を宮ノ上という。別に東西、南北とも約60メートルの砦あり、城屋敷という。
 興廃の年月、歴史も明かではではないが、付近に泉原城、当城より南へおよそ2キロメートル、佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう(『摂津志』『東摂城址図誌』)。(北本好武)
--------------------------------------------(資料2おわり)---

続いて、わがまち茨木(城郭編)での佐保城の記述です。
※わがまち茨木(城郭編)P70【執筆者】免山 篤

---(資料3)--------------------------------------
佐保城縄張図(わがまち茨木より)
大字佐保字馬場谷の通称城山に築かれた城砦である。佐保は泉原と同じく山間の佐保川中流に開けた盆地で、歴史は縄文期の庄ノ本遺跡に始まるのであるが、その後の遺跡は現在のところ不明である。泉原と同様に仁和寺の庄園として支配されていた。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、有安名のそれは30石〜50石と、異常に大きな名主であった。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いた。このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。
 さて、城であるが、佐保の元村と称する字庄ノ本集落の東に、北から延びてきた尾根が一度低下し、その先端から隆起して佐保川に向けて押し出した標高198メートルの小丘を利用して築かれている。主軸をほぼ東西におく長さ80メートル、幅30メートル位の楕円形をした単郭式の城で、北西の尾根に続く部分は幅20メートル位に切り開かれて、付近に「堀切」の地名を残している。この部分が、比高8メートル位と最も低く他は20〜30メートル位の急傾斜で囲まれている。
 城への入口は、山の西際に居住の山の持ち主でもある庄田氏宅の北側に開いている。村道から少し登った処に小郭があり、その南端から郭内への登り道が出ている。小郭の北側にも堀切状のものが北に造られている。道は少し登ると等高線に沿って幅が少し広くなり帯郭状になった部分を経て急坂が曲折して郭の東南に取り付いている。
 これとは別に曲折した道の途中から石を乱雑に積まれた部分を通って郭の南西側中央に造られた長さ7メートル、幅3メートル位の小平地に通ずる道があり、これが本来の郭の入口であろう。この地点には巨石が4個直線に並んでいるが、これは岩石節理の露出を郭壁に利用しているようである。
 郭内北側は、高さ1.5メートル位の土塁が構えられている。土塁は地点によって規模に変化が見られ、北西部分の規模が最も大きくなっている。これは比高の最も低い部分に対する配慮であろう。
 北の一角には矢倉台と見られる部分があり、その地点で土塁が一部切れているが、外部への道は見られない。それより東寄りに前記矢倉台と対になるあたりに土塁が郭内に突出した部分があり、塁もその岐点で高くなっている。
 郭の西北縁辺に径2メートル、深さ1メートルの円形土拡がみられ、狼煙の跡と思われる。郭内には人頭大の河原石がかなりみられるが、何れも浮いて存在する。外郭設備とし、東南側の土塁から7メートル程下った地点に南北に長さ30メートルの堀切が造られている。
 ほかに北側堀切に接して二段に小平地が造られ、上の段に一ヵ所、下段に二ヵ所の円形陥没が見られる。しかし構築の目的等は不明で、下段の一基は、かなり深く掘られているが、湧水の可能性の薄い地点であるので、井戸とは見られず、新しい掘削のようでもある。城地には矢竹が密生しているが、植栽された可能性がある。矢竹は当地方では、集落付近のみという片寄った分布が見られる。
 築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。時期は今のところ不明である。佐保氏に関しては史料を欠くが、豊後竹田の中川家文書中、山﨑合戦部分の記事中に(佐保喜兵衛)の名が見られるのと、市内千提寺のキリシタン墓碑銘に佐保カララ上野マリアの名が残るのみである。ちなみに「上野」は、「カミノ」で、佐保の別称である。余事ながら、これは千提寺のキリシタン史料を解く鍵の一つと考えている。
--------------------------------------------(資料3おわり)---

同じ資料から、佐保栗栖山砦についてです。
※わがまち茨木(城郭編)P73【執筆者】免山 篤

---(資料4)--------------------------------------------
佐保栗栖山城縄張図(わがまち茨木より)
『摂津志』に「佐保砦」とあるものである。佐保盆地の南を画する山脈が、佐保川によって切断された東側の突端、標高184メートルの来栖山頂に築かれた連郭式の城屋敷と称す。東西200メートル、南北100メートルの範囲に遺構を残している。尾根続きの東を除く三方は急斜面で囲まれた要害の地である。
 城への通路は佐保から福井に通ずる旧道より分かれて佐保川の枝流大谷川を渡って東方へ尾根沿いの道が通じている。いま一本、国見街道より尾根筋が東から通じ、途中郭の手前60メートル位の処に、長さ25メートルにわたって幅約0.5メートルの土橋が造られ通行を制限している。これを過ぎて少し進んだところで佐保の谷からの道と合流して郭の入口に至る
 虎口には、左右に竪堀が延びてその間に幅1メートル位の土橋が造られている。入口正面に比高4メートル、上面の径14メートル位の見張台状の小郭があり北側のみ土塁を構えてこれを第一郭とする。道はこの郭の南裾を通って次の第二郭へと通じている。
 二郭は、本丸に当たる第三郭との間に位置する30メートル四方位の不整円形をしたもので、当城で最も広い面積を占めている。郭内南東部には浅い5メートル四方位の凹地があり、その北に小さな土拡が2基見られる。
 二郭より一郭への通路は、現在一郭の西南に登り道があり、一郭の西に少し下って小平地が造られていることから、当時の入口は、そのあたりかも知れない。二郭の南に比高4.5メートル位の径18メートル不整五角形をした一郭がある。これが中心郭で、第三郭とする。南西に小平地を伴っている。三郭の西に長さ12メートル、幅8メートル位の郭があり、第四郭とする。北側に土塁を構え土塁の三郭裾への取付部から北に向かって竪堀が延びている。南側の東端、次の第五郭との境に長さ5メートル、高さ1.5メートル位の石積みが見られる。三郭の南には二郭と同じ高さで10メートル × 20メートル位の第五郭が造られ、第二郭とは小径によって結ばれている。
 郭の中央から南に向かって排水溝のような設備が地表に現存する。この二・五の両郭が生活の場と考えられ、土坑等はそれに関係するものであろう。
 四郭の西には少し高くなって長さ20メートル位の細長い郭があり、東半分には巨石の露出が多く見られるが、人工的な石の移動は見られない。これを第六郭とする。この郭も西に小平地を伴っている。六郭の西には6メートル程下って約6メートル四方位の小郭が造られ、これが城地の西端である。
 城の北側に井戸ヶ谷と称する谷があり、以前八角形の石積み井戸が残っていたと伝えられるが、現在埋没してみることができない。城の内外には土拡の存在を示す陥没地が多く見られるが、性格は不明である。山の持主、北浦照之氏の話しでは、手痕の付いた土器を拾ったことがあると云うことである。
 この城は佐保の入口を扼し、国見街道にも通じ、地の利を得ているのであるが、築城の時期、築城者については、全く史料を欠いている。戦国頃の築城と考えられるが、今後の調査に期待する。しかし、小規模ながら、完全に当初の地形をとどめた城砦として貴重な存在である。(後略)
--------------------------------------------(資料4おわり)---

最後に、佐保栗栖山砦の発掘調査報告書から、必要部分を抜粋したものを以下に示しておきたいと思います。以下は「第3章 調査の概要」「第7章 総括」「付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構」からです。
※佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -:2000年11月

---(資料5)--------------------------------------------
佐保栗栖山城の現在(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡は文献にその名前を残さない城跡であるが、この尾根には不自然な平坦面があり、調査以前から砦跡(山城)の存在が知られていた。(中略)曲輪1の平坦面から疎石建物が検出され、その北側と東側には土塁2がある。建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)
※第3章 調査の概要より

佐保栗栖山砦は「砦」と呼称するよりも「山城」と言うべき規模を有するものであることが明らかとなった。また、全面発掘調査により、郭同士の連絡機能が明確になり、様々な工夫がみられる注目すべき貴重な調査例となった。
◎佐保栗栖山砦の存続期間:出土遺物からは15世紀末から16世紀中葉までの期間が考えられ、出入口1の構造、各石積の使用状況、礎石建物、瓦の不使用から、現状の構造となって、放棄されたのが16世紀中葉の新段階であると考えられる。礎石建物や斜面の石積は短期的な存続を考えたものではなく、また、遺構の変遷も確認されたところから、15世紀末或いは16世紀前葉に築城され、16世紀中葉に破却されるという存続期間を推定する。
◎築城主体について:当砦跡は大規模な山城ではないが、在地集落在住者である小領主が築いた城としては規模の大きさや構造面から考えにくい。もう少し強力な権力が介在したと考えるべきではないかと思われる。村落に密着した在地支配の拠点として築城されたのではなく、何らかの軍事緊張に伴って築城されたことが推定される。近くには佐保城がありながらも異なったこの場所に栗栖山砦を築城している。その意義は大きいものであろう。
 但し、変遷で述べたように曲輪1を中心とした小規模の単郭山城であった古段階の時期を想定するならば、小領主、土豪の城郭として当初は機能していたことも考えておかねばならない。
◎最後に:以上のように佐保栗栖山砦跡は戦国期に拡がった防御技術を各所に積極的に活用していることがわかった。中世山城は築城主体・戦闘方法・社会情勢などの変化の中で、城自体にも様々な機能が求められ、それに応じて構造と共に著しく多様化を遂げていった。佐保栗栖山砦跡も半世紀に近い存続の中で様々な変化をしたことが明らかになった。(中略)
 佐保栗栖山砦跡の遺構・遺物から築城主体の権力構造の特色を導き出し、地域史・在地構造を分析し、さらに、一国以上の規模からもその存在について検討しなければならないのだが、充分な検討をするところまでには至らなかった。
※第7章 総括 第1節 佐保栗栖山砦跡の調査成果より

佐保栗栖山城(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡以前の調査成果:砦跡の曲輪8の谷筋斜面から炭窯と考えられる窯が2基、曲輪3の南辺斜面から焼土坑が1基検出された。いずれも砦跡の下層から検出されており、砦の時期以前の遺構であることが確認された。出土遺物はごく少量であるが、10世紀に相当する土器が出土しており、これらの遺構の時期にあてることができるものと考えられる。(中略)佐保栗栖山砦跡の位置に10世紀には、人の行動が及んでいたことが明らかになった。
※第7章 総括 第2節 佐保栗栖山砦跡以前の調査成果より

◎佐保栗栖山砦は開発によって消滅することになったが、徹底的な発掘調査のおかげで多くの知見を我々に残してくれた。それは土木技術面から縄張り・立地に関わるものまで多岐にわたっている。
 そのうち全国的にも始めて確認されたと思われる曲輪造成技術に関わる事実は、曲輪11下面の地山刻み込みである。開発覚悟の全掘方針ではあっても、普通はここまでしないという最後のダメ押しの発掘で、私は現物を見る機会がなかったが、写真を送って頂いて驚いた。(中略)古代では珍しくないが、中世城郭では希である。
 (前略)同じ形は大和の十市氏関連の多武峰城塞群や穴師山などにある。(中略)十市氏の例をそのまま適用するのは難しいが、応用はできる。ヒントは、外側土塁が南側にはあるが北側にはない、という点である。(中略)だから南側だけ外側土塁の手法を採用したわけである。このような理屈に手慣れた様子は、1560年代前半の十市氏と同じレベルとみてよい。縄張りの編年作業に使える事例である。(中略)だとすると、規模こそ違え、姫路城二の丸の三国堀に相当する。曲輪1の西端の迫り出しの厳しさも、この関係で説明しやすくなる。(中略)
 そのころの本城は眼下の道を監視する軍事機能しか持たない閉鎖的な砦だったと思われる。それが改修されて、曲輪2が造成され(=堀が埋められ)、前述のような虎口と進入ルートの工夫がなされ、道との関係を積極的に追求するような性格の城に変質したのである。外と出入りする、開くということと、外と戦う、閉ざすということとの矛盾を解決するために、虎口の工夫がなされるのである。(中略)通路8の幅の広さも注目に値する。かなりの重要人物がこの通路を上下したに違いない。(中略)近世城郭では、こういう位置の曲輪は人質曲輪と呼ばれることがある。中世城郭では人質曲輪の確認例はない。それどころか人質曲輪のような機能を限定することが妥当かどうか疑問視されている。曲輪5の出土遺物の特徴からすると貯蔵庫の可能性があるようだ。(中略)
 このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。
 本城は周辺との地理的な関係から見ると、高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎ城の可能性が高いが、それも細川・三好・松永等上部権力との関わり無しには考えられない。複雑な畿内政治に組み込まれる中で、特異な縄張りが必要になったのであろう。
※付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構より
--------------------------------------------(資料5おわり)---

といっところが、現在のところの文献資料です。これらに加え、現地の観察から個人的に考えた(感じた)ことを以下にまとめてみたいと思います。

気になるのは、小盆地を囲む山地に城跡があることです。佐保・栗栖山城は、南北に走る亀岡街道の脇に立地し、監視・封鎖の用途としても機能していた思われますが、南西に伸びる盆地の端には岩坂村があります。この開口部にも手を打たなければ封鎖の意味が無くなり、筒抜けになってしまいます。
 岩坂村から粟生村方面への山道が伸び、両村は代々関係性が深いようです。中世末期から近世にかけての資料でも粟生村との関連性の親密さを感じさせます。現在の地名は「粟生岩阪(大阪府茨木市)」で、やはり伝統を踏襲しています。
 但し、岩坂村に隣接して神合(じごう)村があり、こちらは、佐保村に連なる関係であったようです。行政上の村切りかもしれません。とても複雑です。『大阪府の地名1』によると、1605年(慶長10)摂津国絵図には「五ヶ庄内谷」として「■■(梅原か)・屋上村・神合村・免山村・庄本村・馬場村」がみえ、近世初期に五ヶ庄と称された北摂山間諸村の南辺に位置した。とあります。
 さて、岩坂村についての推定ですが、岩坂村が粟生村と親密である状況が、中世にも続いていたなら、粟生の出先としての岩坂村だったのかもしれません。少々距離があるのは気になりますが...。
明治42年頃の佐保地域の様子

 時代により状況も色々で、敵になったり味方になったりすると思いますが、現地で聞いてみると、それぞれは親密な交流が続いていた訳でもないようです。ですので、共同体という意識も無く、敵味方に分かれる事も多々あったと思われます。

【佐保城について】
既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。」と述べています。
 また、免山(めざん)・梅原の集落もこれを構成する一部であったと様にも見え、免山集落から城への道も複数本通じており、連動性があるように思われます。加えて、時期は不明ながら、発掘調査を踏まえると最初は小規模な関連施設的に栗栖山砦を連動させていたのかもしれません。
 そしてまた、城の眼下を通る亀岡街道は、何度も折れながら進みます。これは天然の「当て曲げ」でもあり、城の設備では「横矢掛かり」のような環境ができあがっています。軍事的緊張の高まりの折、ここを通り抜けるには相当な威圧になると思われます。真っ直ぐには進めませんし、両側に城の施設があります。

【村内に存在する別の権力】
現代社会でもある事ですが、基礎自治体の域内に上位行政体管轄の道(国道)が通っていたり、地勢上から上位行政体の機関が常駐する事務所(河川管理など)あったりします。
 これと同じく、中世にもそのような状況はあったと思われます。もちろん、その機能を引き受けることのできる体制であれば、城そのものも大きくなったり、中心政権内でも深く関わる氏族となって、それなりの大きな組織体となることでしょう。
 しかし、それができない状況では、上位権力の出先施設を置いて、運用すると言うことも当然ながら、あったでしょう。この佐保村の場合、村の統治機構の中(政所やそこから派生した地域の豪族)、その領域に、中央政権の城(栗栖山城)が存在したのではないでしょうか。
 それは、細川氏や三好政権あたりにそれが必要となり、その後の中央政権支配領域拡大(統治機構の変化)により、その役割りを終えたといった流れになる気もします。(元々の佐保と有安名という別の権力体(機構)が、時の状況により変質したのかもしれません。)その時期は、ちょうど16世紀中葉あたりで、荒木村重の統治する頃は、城郭形態も変化して、必要があれば有岡城など拠点城に人質は収容できるようになっていきます。
 この視点は、今のところ想像の域を出ませんが...。

【馬場村】
佐保地域の歴史的背景は、今のところ、不明な事が多いながらも解明の手がかりとして、有安名(みょう)があります。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、30石〜50石もある有安名が存在し、異常に大きな名主として注目されています。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いたと考えられています。
 これについて、既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。」と述べられています。
 この経緯からすると、馬場村が、有安名主の居住地であり、このあたりは在地(免山・梅原など)とは少し経緯の違う地域となっていたようです。「馬場村」自体は他の周辺集落より大きめの規模で、且つ、集落の大きさに比べると寺の大きさが目を惹きます。加えて村の立地は要害性もあります。

佐保の盆地右奥は栗栖山城

【佐保栗栖山城】
小土豪では保ち得ない規模と構造、土木・造作技術、立地であることから別の上部権力体の城として存在していたのではないでしょうか。
 この位置なら、小規模で不十分な施設ならば守るのが難しいように思われますが、盆地全体の掌握のためには、最適化された施設とされたように思われ、同時に、旧来の亀岡街道の監視に加えて、清阪街道の監視・掌握も同時に行える規模に拡大・強化されているように思われます。
 旧政権から幕府に移管された芥川山城のように、この栗栖山城も同じような経緯があったのではないでしょうか。こちらは、直下に亀岡街道も監視でき、粟生方面等とも繋がる複数の間道のロータリー構造とも言える、盆地を掌握して街道全体を押さえる目的もあったように思われます。
 永禄11年秋以降、ここを和田・高山氏が強行に領したことで、周辺の敵対勢力は不利、または、一掃されて、追われた者が池田方に助けを求めに来たと伝わる伝承は、こういった状況から生まれているのではないかと思われます。

【白井河原合戦との関係】
亀岡街道を北に進めば、能勢・余野方面と繋がっており、ここの通行を確保(敵にとっては阻止)する必要性があり、要地である佐保は、手を打つ必要があると思われます。ですから、幕府方であった施設を池田勢が落とした。それは勝ち戦の勢いに乗って、8月28日当日に行われたと考えられます。これは、敵方のシンボルを破壊するという、政治・軍事的に大きな出来事であったかもしれません。地域の「開放(奪還)」といったような、強いメッセージにもなった事でしょう。
 佐保栗栖山城の発掘調査では、曲輪1の建物が火災を受けたとの見解が示されており、何らかの関連誌があるのかもしれません。火災は13から成る曲輪で、1ヵ所のみの検出で、全体から検出されるものでは無いので、「自焼」的な跡なのかもしれません。
 一方で、佐保栗栖山城の陥落は、それ以前の可能性もありますが、今のところ勝ち戦の勢いに乗って城を落としたと考える方が、自然だろうと思います。在地の佐保城の状況については、現在のところ不明です。

【白井河原合戦後の佐保栗栖山城】
前述により、佐保栗栖山城が、別の権力体によるもので、白井河原合戦に勝利した三好三人衆方池田勢が、同城を落としたと、仮定します。
 それが達成されると、亀岡街道を北上し、泉原村を経て余野へ。そして、その隣は犬甘野、亀岡への通路が開けます。途中の「余野」は街道の交差点で、東西南北どちらへも進むことができるロータリー交差点的立地です。いわゆる要衝です。
 そしてこの余野には、地名を冠した余野氏が居り、同氏は池田氏と姻戚関係にあります。佐保の交通障害が無くなった事で、丹波国方面から茨木城方面までの連絡と通交が可能となりました。
 佐保栗栖山砦跡発掘調査報告書内で想定されていた、「高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎの城の可能性が高い」とは、少々距離があり過ぎる上に、尾根筋・谷筋の一本道が無く、何度も山と谷を越える道となります。
 栗栖山城の関連性を考えるなら、亀岡街道上の要所を見た方が自然であろうと思えます。また、元亀2年(1571)当時の状況として、幕府方和田惟政の与力であった高山氏は芥川山城を、同様に栗栖山城も役割りを担っていたのではないかと思われます。
 芥川山城は丹波方面への備えですので、亀岡街道を有する栗栖山城も同じような役割りがあったのではないでしょうか。そういう意味では、丹波方面への街道の分岐点であった福井城も非常に重要な役割を担った筈で、『日本城郭全集』で述べられている「佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう。」とは、概ね言い得ているようにも思えます。
 さて、白井河原合戦で壊滅的な敗北をしてしまった和田方は、多くの人材を失い、高槻の本城を残して、多数の拠点も失っています。背後の山地支配も大きく後退しています。
 これにより、高槻城は北や西から常に狙われる事となり、支配地が小さくなった事で、敵の動きも事前に知ることが難しくなったとも思われます。丹波への街道を押さえることは非常に重要で、軍事・政治・経済活動のためには、それが統治の必要要素だったともいえます。
★関連記事:摂津余野氏について

このように、今回の訪城で不明の闇に少々の光が見えるようになると、また別の要素にも考えが及びます。佐保城の用途・機能を考えるなら街道沿いに、いくつかの更なる施設も必要になるように思え、南條集落方面を見通すための監視所、梅原集落を守るためのいくつかの拠点もあったのではないかと思われます。

永年、保留状態であった佐保城についての思索は、今回の訪城で一気に進み、大変有意義でした。訪城をお誘いいただき、ありがとうございました。

【補足記事】
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える


「白井河原合戦についての研究」トップページへ

2023年1月5日木曜日

【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

 質問があり、その回答旁々、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(後編)です。ご活用下さい。

先日お伝えしました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)の続報です。幕府の重臣、将軍義昭の側近であった高槻城主和田惟政が、8月28日の合戦で戦死し、その後の流れをお伝えします。
大将の和田惟政が、三好三人衆方摂津池田衆に討たれ、瞬く間に近隣周辺は、池田方の手に落ちてしまいます。池田衆は、和田惟政やその主立った武将の首を持って、高槻城などに押し寄せます。その首を城外から見せつけるように掲げ、歓喜の声を上げたとフロイスの報告にはあります。首は、色々な場所、見せる必要のある城に持っていったようです。
 フロイスはこの時、合戦場から12キロメートル離れた、河内国三箇(サンガ)の教会(現大阪府大東市)にいたところで、この報に接したようです。何が起きているのかを確認するために、高山飛騨守のもとに使いを遣り、その日の午後には戻って、詳細を聞いたとしています。この日、朝から晩まで銃声を聞き、飯盛山(城)に上ると、2日2晩、高槻方面が燃えるのを認めたとあります。
しかしながら高槻城は、辛うじて落城を免れています。
以下は、その確認を元に、フロイスが報告を送っている内容です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰条
-------------------
(前略)総督(和田惟政)の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)総督の首級は、他の武士一同(主な和田方武将)と共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり。
-------------------
 

そして以下は、時系列で白井河原合戦が終息するまでを一覧にします。11月頃までは、戦闘状態が続いていました。土地勘は地図をご参照下さい。
 総合的には池田勢が勝利し、三好三人衆方が京都に迫る勢いでした。加えて、松永久秀など、奈良方面から北上する三好三人衆方一派もありました。更に、近江国方面からも朝倉・浅井勢が京都を覗う動きを見せていました。大坂本願寺も三好三人衆方です。
この情況で、摂津池田衆は、本拠の豊嶋(てしま)郡から、東側に大きく版図を広げることとなり、歴代池田家の最大の領域を手に入れます。


<8月>---------------
 28 幕府衆三淵藤英、夜半に摂津国高槻城へ入る
 29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺の諸城を攻撃を始める
<9月>---------------
   1   摂津池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
   2   摂津池田家家臣中川清秀、摂津国茨木城を領知する
   5  摂津池田勢、大挙して摂津国高槻城を攻める
   6   池田勢、戦闘に敗北
   9   摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
 中 摂津池田衆内吹田氏、摂津国吹田城に復帰?
 11 織田信長、近江国三井寺へ入る
 12 織田信長、比叡山を焼き討つ
 13 織田信長入京
 24 幕府衆明智光秀勢、摂津国(高槻)へ出陣
 25 幕府衆一色藤長など、摂津国(高槻)へ出陣
<10月>---------------
 10 摂津国池田家臣の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
   9   摂津国高槻の付城に三好三人衆方三好左京大夫義継が入る?
 14 織田信長、幕府衆細川藤孝へ山城国勝竜寺城の普請について音信
 26 織田信長勢先鋒、京都へ入る
<11月>---------------
   8   摂津池田衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
 14 織田信長、摂津守護伊丹忠親へ通路封鎖を行うよう通達
 15 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
 17 但馬守護山名祐豊、丹波国へ侵攻

 


 

「白井河原合戦についての研究」トップページへ

【前編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

質問がありましたので、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(前編)です。ご活用下さい。  

近年、少しずつ知られるようになりました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)ですが、この合戦は、単なる地域戦ではなく、将軍義昭・織田信長政権に対して、政局を変える事になった大戦でした。
 「白井河原合戦」とは、後年につけられた名前で、毛利家中でまとめられた『陰徳太平記』や豊後竹田家の中川家でまとめられた一家記(中川史料集)などで使われた言葉です。その時の既述が、順送りで現代に伝わっています。当時は、「郡山合戦」「宿久河原合戦」と呼ばれ、概ね実際と近い場所を呼称としています。
 合戦場所の呼称、江戸時代に書かれた、物語風の脚色が、白井河原に焦点を当てるため、幣久良山(てくらやま)眼下の川が主戦場のように意識されているのですが、これは事実からすると、違います。
主戦場は、あくまで幣久良山から西側の約2キロ程の地点です。幕府方大将の和田惟政は、ここで戦死しました。和田惟政の一団約200名は、三好三人衆方池田勢の鉄砲300丁の斉射を受けて、対戦した時点で、ほぼ壊滅状態でした。池田方は、囮として前哨させた荒木村重一千名程を前に立て、和田方を引き出し、西側に出てきたところで、丘に隠していた二千名が現れ、ここで鉄砲の斉射が行われます。
以下、当時の様子の記録、抜粋です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰
---------------------------------
(前略)翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)
 総督(和田)は大臚勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ、又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時、城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。(中略)敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワ(約2キロメートル)の所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。
 彼は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。
---------------------------------
 

この結果、和田方は、地域統治ができなくなり、そのまま一気に、京都への侵攻が現実味を帯びました。その結果、京都防衛の拠点、勝龍寺城(京都府長岡京市)の大幅な防備強化を行い、現在の城の形態は、この頃に起源があるとの見解を示しています。
また、この大合戦の周辺環境も将軍義昭・織田信長政権の空白で、弱り目でした。以下、箇条書きです。

  • 伊勢長島での本願寺門徒の蜂起(5月) ※本願寺衆の各地での蜂起
  • 松永久秀の反幕府行動の活発化(5月)
  • 幕府方毛利元就死亡(6月)
  • 六角承禎など近江国内で活動を活発化(7月)
  • 比叡山焼き打ち(9月)

この情況で、白井河原合戦は行われており、後に明智光秀によって起こされる「本能寺の変」に近い意図がありました。相手の弱り目で、大挙決戦を挑む。池田衆は多分、この情況(将軍義昭・織田政権の)を情報として知っており、この大きな流れを作っていたのが、近衛前久でした。この時は、大坂本願寺内に居り、全体を繋ぐ役割と地位にいたようです。

兎に角、この白井河原合戦前後で、地域統治のための多くの人材を失い、将軍義昭・織田信長政権は、京都確保が難しくなり、9月の比叡山焼き打ちは、この事態打開のため、強硬策に出たと考えられます。戦争は、人材を失う事が策としての難点です。

 


 

 


 

 

「白井河原合戦についての研究」トップページへ

2019年7月7日日曜日

前田利家、佐々成政などの武将も陣を取った摂津太田城と太田氏について考えてみる

摂津太田城については、不明な事が今も多いようです。発掘も殆ど行われずに破壊されてしまった事と、文献があまり無いところから進展が図れないようです。摂津池田氏もそうですが、散見される手がかりを集めて、そこから推量することから始めないとダメなのでしょうね。
 ネットでザッと調べてみましたが、詳しく調べられたところは、あまり無いようなので、みなさんの参考になればと思い、記事としてアップしてみます。非常に文字数が多くなりますが、現在茨木市太田やその周辺にお住まいの方々の他、太田にゆかりの方へ何らかのお役に立てばと思い、長文ですが敢えて詳しく載せておきたいと思います。

まず、『わがまち茨木(城郭編)』から該当項目を抜粋してみます。
※わがまち茨木(城郭編)P24

------------------------------------------
(1)はじめに
茨木市には数多くの城があるらしいが、城らしい城は茨木城だけではなかろうか。太田城は砦といったほうがよいかも知れない。しかし茨木城よりも200年余りも以前の平安時代末期の城であった。今、太田城の面影は、石垣の一部だかしか残っていない。また長く続いたであろうと思われる記録も残っていない。ただ側面的な事象を取り上げて”まぼろしの太田城”を構築してみたいと思う。
(2)太田の家並
旧市街(2002年4月頃の撮影)
太田一・二丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭く、まっすぐに突き抜ける道ではなく、T字型(三叉路)になって折れ続いている。これは城下町の特徴を示している。一戸一戸を見ると、古風な門や門長屋・格子の玄関など時代劇映画のセットを思わせる佇まいである。
(3)太田城跡
太田には”太田地番図”という大図面がある。その中に”城の口” ”城の前”という小字があり、太田城があったように思われる。そこは太田の旧住宅の南端から約200メートル南方の地点である。城の口は広い平地にあるが、城の前はそれより低いところにあった。1960年頃までは付近一帯水田であり、よい米の生産地であった。今この城の前は町名変更で付近の土地を合わせて”城の前町”と改名している。
わがまち茨木(城郭編)より
上の二図を比べると、城の半分は東芝中央倉庫の敷地になっている。城の西側と南側の落差は7〜8メートルの急斜面であって、いわゆる舌状台地の突端を利用した城であったと推定している。大きさは東西・南北共に150メートル前後だっただろうか。その東端に高さ2メートルくらいの”城の山”があり、太田城跡のシンボルでもあった。その位置から考えると、物見櫓的な働きをしていたのではなかろうか。
 昭和35年、城跡の半分が東芝に買収され、中央倉庫にするため約2メートルばかり切り下げる土地造成を行った。その折、城の山の西方で青みがかった幅2〜3メートルの土が50メートルばかり続いて出てきたが、遺物は何も出なかった。昭和32年、城の口の西方(通称”段の森”とか”お宮の下”とかいっている)の、里道を拡張して農道にするため土を掘り返した折に、松の根が数本でてきたことから大きな森があったのではなかろうかと想像される。
○大阪府全志---「太田城址は南方にあり。太田太郎頼基の築きし所にして、同氏累世の居城たりしも、廃城の年月は詳らかならず。今は田圃となりて、城の崎、城の前などの字地を存せり。」とあるしかし、太田地番図には、城の崎の地名は見当たらない。
(4)太田野太郎丸の墓
城の山は東西数メートル、南北10メートル、高さ2メートルばかりの草地で、その南方で北面した自然石の墓石があった。表には”地蔵菩薩”、裏には”太田野太郎丸”と彫り込まれ、これを覆う常緑樹が数本植えられていた。毎年8月24日の地蔵盆には、提灯をかかげてお祭りしていた。
○大阪府全志---「其の墓は南方田圃の間にありて、高さ三尺許の自然石なり。」
○三島村誌---「太田太郎源頼基文治三丁未年摂津国川原条に於いて義経の為に討ち死に。其碑銘表面に地蔵菩薩・裏面に太田野太郎丸と記載あり。本村の南へ距ること三町にして、田間に屹立せり。」
ところが、この城の山も買収範域に入ったので、約50メートル北西の空き地に墓石を移すと共に、伊吹をを植えてこざっぱりとしたところとし、例年通りのお祭りをしていた。しかし、年と共に荒れ果ててきたので、太田共有財産管理会では、1978年(昭和53)に石垣を造り、頼基の行跡を石に刻んで立派な顕彰場所とした。
(5)太田城
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
太田野太郎丸とは、太田太郎頼基のことで、太田城を居城としていた。太田城は彼が築城したというが、記録が無いので細部の点が不明である。ただ城の東・南・西の所々に石垣が散見できる程度であったが、これも1961年(昭和36)の土地造成のため破壊された。しかし北西部の1箇所だけが残っている
 源平合戦では全て討って出て戦っているように、その当時は城を守るという考えは無く、太田城も台地の上につくった砦の域を脱しなかったと思われる。
------------------------------------------

続いて、城郭を調べるには、バイブル的存在の『日本城郭大系12(大阪・兵庫)』より「太田城」の項目を抜粋します。ちなにに、城郭大系の該当項目も『わがまち茨木(城郭編)』を元に書かれています。
※日本城郭大系12(大阪・兵庫)P73

------------------------------------------
太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側付近一帯に築かれていたと推定されるが、昭和35年、この地に東芝中央倉庫が建設された際に、旧地形は全く損なわれてしまい、今はただ「城の前」町という町名にその名を留めるのみとなってしまった。それでも、1960年(昭和35)以前の様子は、太田在住の歴史家加藤弥三一氏の著された『まぼろしの太田城』によって僅かながらうかがうことができる。
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
同書によれば、従前この地には「城の口」「城の前」という小字と、「城の山」という小丘陵が存在していた。「城の口」は、同書中の図をも加味していえば、舌状に張り出した台地の先端部付近の平地を指し、「城の山」はその先端のやや東寄りに位置する高さ2〜3メートルの微高地であった。その大きさは、東西数メートル × 南北十数メートルであったという。「城の前」はこの舌状台地の南側一帯で、落差は7〜8メートルもあったといい、良田であった。また、「城の口」は、その西方を「段の森」あるいは「お宮の下」とかいったが、1957年(昭和32)、俚道拡張工事の際に土を掘り返したところ、数本の松根がでてきたところから、大きな森となっていたのではないかといわれている。さらに、東芝中央倉庫の造成工事に際して、この地を約2メートル切り下げたところ、「城の山」の西方で青味(泥)がかった幅数メートルの土が、南北に50メートルばかり続いていた。当時の堀かと思われたが、遺物は何も出土しなかった、と記されている。
 いずれも正確な場所がわからないのは残念なことであるが、加藤氏の貴重な著述によって、太田城の概略を知る事ができるのは、ありがたいことである。
 さて、以上に要約した加藤氏の所説によれば、太田城は、その南面においては7〜8メートルの比高を有する舌状台地の突端に築かれた城郭であったと推定される。「城の山」も、おそらく太田城に関係する施設であったと思われ、その位置からすれば、物見櫓的機能が想定されよう。
安威川の様子(2002年4月頃の撮影)
ところで、この太田の地は、東方の芥川と西方の安威川とによって挟まれた丘陵が沖積平野へと移行する傾斜変換点付近に立地しており、古来、開けた土地であった。『新撰姓氏録 摂津国神別』には、前述の中臣藍連と同族である中臣太田連の名が見えている他、太田城の北東、継体陵古墳の西傍には式内太田神社も鎮座している。また、京都と中国地方とを結ぶ西国街道も太田を通っていて、交通上の要衝としての側面も忘れることはできない。
 したがって、『大阪府全志』は太田城を太田頼基(12世紀後半在世)の築城とするが、おそらくその初源はさらに遡るものと思われ、その形態も、居館を兼ねた館城であった可能性が大きい。また、『平家物語』第12巻に、西国街道を通って中国地方へ落ちのびる源義経の軍勢に対する太田頼基の言葉として、「我が門の前を通しながら矢一つ射かけであるべきか」とみえているが、城跡の南面がその更に南側より7〜8メートルも高く、自然の要害をなしていた感があることと思い合わせれば、太田城は北側の西国街道に面して大手を開いていたことも考えられる。
昔の伝太田頼基墓(今よりも前の形態)
さて、平安時代末期頃に太田城に在城したと伝えられる太田頼基は、『尊卑分脈』によれば、多田源氏の祖、満仲九世の孫で、太田太郎と号したとされる。この頼基の名が史上初めて現れるのは『平家物語』第4巻で、治承4年(1180)4月9日の夜、源頼政が以仁王から令旨を賜らんとして、王のため馳せ参ずるであろう源氏の名を数えあげていく件があるが、その中に、「多田の次郎朝実、手嶋の冠者髙頼、太田の太郎頼基」とみえている。
また、『吉記』の寿永2年(1183)7月24日の条には、多田の下知と称して、太田太郎頼基なるものが、西国から送られてくる平氏の糧米を奪ったり、乗船を破壊したりしたこともみえており、この頃、太田氏は多田源氏の一族として、その支配下に組み込まれて活動していたことがうかがわれる。その他、太田頼基の名は『吾妻鏡』『玉葉』『源平盛衰記』などに見えるが、その居城については、『玉葉』43巻、文治元年(1185)10月30日の条に、「摂州の武士太田太郎以下、城郭を構えて云々」とみえるのみで、詳細は不明である。そして、それから約300年を経た大永7年(1527)に、細川高国と同晴元との間で戦われた合戦の最中に、太田城は周辺の茨木城・安威城などと共に、晴元方の武将柳本弾正の手によって開城させられてしまったという記事(『足利季世記』)を最後に、史上から姿を消してしまう。
 なお、『信長公記』には、天正6年(1578)の荒木征伐の際、信長が「荒木の城へ差し向け、太田郷北の山に御砦の御普請申し付けられ候」とあるが、これは地形から見て全く別の城(砦)を指すものであろうと思われる。
------------------------------------------

以上のように地形的には、太田村のあたりから段丘状になり、見通しも利く事から、軍事的な要地であったと思われます。
 『信長公記』の記述は、天正6年(1578)秋、荒木村重の織田信長政権離叛による武力闘争ですが、それより以前にも太田村は重要視されています。元亀2年(1571)秋の白井河原合戦の時です。『中川史料集』に太田郷の事が記述されています。先ずは、『信長公記』荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事の条をご紹介します。
※『改訂信長公記』(新人物往来社)P235

------------------------------------------
◎次の日(11月10日)、滝川左近将監一益、明智惟任日向守光秀、丹羽惟住五郎左衛門尉長秀、蜂屋兵庫頭頼隆、氏家左京亮直通、伊賀(安藤)伊賀守守就、稲葉伊予守良通、島上郡芥川、島下郡糠塚、同太田村、猟師川辺(地名?)に陣取り、御敵城茨木の城へ差し向かい、太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。(中略)茨木へ差し向かい候付け城、太田郷砦御普請出来(しゅったい)申すについて、越前衆、不破、前田、佐々、原、金森、日根野、入れ置く。(中略)
◎11月18日、信長公、總持寺へ御出で、津田七兵衛信澄人数を以て、茨木の小口押さえ、総持寺寺中御要害、越前衆、不破河内守、前田又左右衞門尉利家、佐々内蔵佐成政、金森五郎八長近、日根野備中守弘就、日根野弥治弥次右衛門尉盛就、原彦次郎長頼などに仰せ付けられ、太田郷御砦引き払い、近々と取り詰めさせ。(後略)
------------------------------------------

日本城郭大系12(大阪・兵庫)より
『信長公記』によれば、前田利家、佐々成政といった武将が、太田城に陣を取っています。西国街道を押さえる意味もあって、太田は重要視されていたと思われます。この折、普請作業も行われていますので、元の形態は改変されているようです。また、文中の「太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。」とは、太田茶臼山古墳(継体天皇 三嶋藍野陵)と思われます。太田の開発前のお話しを聞きますと、そのあたりがひときわ地形が高く、「山」と認識される場所であったようです。
 太田村の北側、2キロメートル程のところに塚原や安威といった要所があり、そこに通る塚原街道や茨木街道を押さえるための砦も普請したかもしれません。双方の道の北へは、丹波国と繋がっています。ちなみに、『公記』は、摂津池田を攻める時も、五月山を「北の山」と記しています。
 一方、この時点で織田信長の有力武将であった、明智光秀の名も記述されており、太田村の重要性から、きっと明智光秀も太田城に入ったりしていたのではないでしょうか。丹波国方面と頻りに連絡を取り合っていたりします。

続いて、『中川史料集』太祖清秀公の元亀3年の項目の記述です。
※中川史料集P21

------------------------------------------
一、9月1日、暁、郡山御立ちあり。近郷の領主御味方として馳せ参る。人々には下村市之丞、熊田孫七、鳥養四郎大夫、山脇源大夫、太田平八、粟生兵衛尉、戸伏一族各手勢を召し連れ御備えに加わる。然る所に茨木方の諸士太田郷の山々、西の尾筋に出張し、弓鉄砲を打ち掛け遮り留めんとす。熊田千助、一の御先備えにて、加勢の人々相加わり鉄砲を真っ先に進め、即時に追い払い手を分け、馳せ立て競い進む。熊田孫七、森田彦市郎は地蔵峠より、人数を進め西南に掛け打ち入る。茨木方にも水尾図書助、倉垣宮内少輔等激しく防ぎ戦うといえ共、御先手は名を得たる者どもなれば、水尾、倉垣暫時に敗軍して討死す。(後略)
------------------------------------------

この詳しい分析は、当ブログの記事「白井河原合戦」をご参照いただければと思いますが、やはり太田村は要衝である事が、こういった記事により判明します。
 この白井河原合戦当時、元亀2年(1571)8月28日に合戦が行われ、高槻の地域領主(摂津守護)和田惟政が、高槻を中心としつつ太田村あたりも支配していたようです。その時の太田城主が、太田氏であったかどうかは不明ですが、『中川史料集』では、「太田平八」なる武士が登場しています。やはり、太田一族は脈々と続いていたのです。
 地形もですが、村に西国街道を通しており、また、川も隣接しています。更に、土地も肥沃で、米を初めとした産物に恵まれているなど、非常に重要な土地であったようです。

続けて、この太田平八について、『豊後岡藩(中川家)諸士系譜二』にその手がかりが記されています。
※摂津市史(史料編1)P532

------------------------------------------
 ◎第18巻
此の巻に者元亀三年九月朔日茨木城御討入之刻、大祖の旗下に属する輩記之。
太田元左衛門
其の祖太田平八、代々摂州太田の郷を領す。後家督衰微して水の尾村(現茨木市)に家居す。元亀三年九月茨木御討入の時来て、太祖の旗下に属す。
◎第19巻
此の巻に者元亀三年九月茨木城御討入之後、摂州の諸士、大祖の旗下に属する輩記之。
太田忠右衛門
其の祖太田志摩守、代々摂州太田郷に有りて、室町公方の御家人たり、元亀三年九月、清秀公茨木御討入之刻来て旗下に属す。
------------------------------------------

近世の中川家の文書に、家臣としての太田氏の名が見られます。ここに「太田平八」の名が見え、本流でありながら太田郷から出た家系としての太田氏を記しています。また、別の太田氏も記されており、こちらは、後に本流となった太田氏一派らしく、「志摩守」を名乗っているようです。
 どこでもあるのですが、太田氏も同族同士の内訌が起き、太田を出た一派があったり、取り込んだりした一派があって、本流が入れ替わったりした時期があったのではないかと思います。

さて、その太田村と同村を内包する太田保について、『大阪府の地名』から抜粋してみます。先ずは、太田村の項目です。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P185

------------------------------------------
◎太田村(茨木市太田1-3丁目、太田東芝町、東太田1-4丁目、花園1-2丁目、城の前町、高田町、西太田町、十日市町、三島丘1-2丁目)
太田神社(2019年6月撮影)
耳原(みのはら)村の東、島下郡の中央東端にあり、東は島上郡土室(はむろ)村。村の西を安威川が流れ、中央部を西国街道が横断。古くは「大田」と表記。「新撰姓氏録」(摂津国神別)に、天児屋根命十三世の孫の御身宿禰の末裔とある中臣大田連本貫の地といわれ、継体天皇三島藍野陵という茶臼山古墳、延喜式内社に比定される太田神社、飛鳥時代の太田廃寺跡がある。「播磨国風土記」揖保郡大田里の項に「摂津国三島賀美郡大田村」がみえ、三島賀美郡にあたる島上郡には大田の村名がなく、当村との関係も考えられる。
 中世には造酒司領大田保が設けられた。また幕府御家人で摂津源氏の流れをくむという太田太郎頼基(「平家物語」巻一二判官都落ち)の居城があったと伝え、城の崎・城の前などの関係小字が残る(大阪府全志)。南北朝期には西国街道の宿所であったとみられ、応安4年(1371)有馬温泉(神戸市北区)へ出かけた京都八坂神社社家顕詮は、下向途中の9月20日、大田宿北側の「的屋」で一泊している(八坂神社記録)。
 戦国期には車屋という旅宿もあった(「大乗院寺社雑事記」文明19年3月14日条)。総持寺散在所領取帳写(常称寺文書)文安2年(1444)正月17日請取分に、大田村の「高津か」「馬田」「め極のつ」の総持寺領のことがみえ、高津か(髙塚)は茶臼山古墳をさすとみられる。
 元和初年の摂津一国高御改帳によると大田村1,015石余は丹波篠山藩松平康重領。以後篠山藩の支配が続き、延享3年(1746)三卿の田安領となって幕末に至る。江戸時代中期以降の戸口は65戸・300人前後(太田区有文書)。特産物に寒天があった。寛政10年(1798)安威村をはじめとする島下・島上29ヵ村が、太田村5名、上音羽村・道祖本(さいのもと)村各1名の寒天業者を相手に製造差留訴訟を行った。差留の理由は製造工程で原料の天草を安威川・茨木川に晒すため、その灰汁や塩分が用水を通して田地に流れ込み作付けが悪くなること、寒天製造は多くの労働力が必要とし、また農業日雇よりも軽労働なので、日雇稼が寒天製造に集まり、農業経営に差支えること、製造業者の中には田地を売払って専行化した者もおり、農地の余剰があること、天草を煮詰めるのに大量の薪・炭を必要とするため、薪・炭が高騰、それを理由に野道具鍛冶屋が農具の値を引き上げたこと、薪・炭の消費や京都の大火などで郡北の山林が乱伐され、保水がきわめて悪くなったことなどであった(水尾区有文書)。寒天製造は17世紀中頃、山城伏見から北摂地方へ移され、すでに元禄初年には天満市(現北区)の重要乾物となっていた。最盛期は明和〜寛政期(1764〜1801)で、寛政10年には当村を中心とした一里四方の地に、60〜70の釜が設けられていたようである(同文書)。文化10年(1813)には寒天株仲間も結成され、大坂三町人の一である尼崎家がその元締となった(石田家文書)。寒天のほか独活(うど)も当地の特産物で、天保年間(1830〜44)当村の与左衛門により品種改良がなされ、以後太田村では全村的に栽培、「与左衛門うど」とよばれて高く評価され、現在まで引き継がれている。
雲見坂(2002年4月頃の撮影)
茶臼山古墳西隣の太田神社は速素戔鳴命・天照皇大神・豊受大神を祀り、「延喜式」神名帳島下郡の「太田神社」に比定される。「延喜式」九条家本・金剛寺本は「大田神社」と表記。中臣大田連と関連の深い神社とみられている。俗に大神宮ともいう。神社には他に八坂神社・女九神社があり、女九神社は継体天皇の九人の妃を祀るという。寺院には浄土真宗本願寺派の安楽寺・西福寺・称念寺がある。なお西国街道に面して舟形光背の線刻如来石造があり、鎌倉時代のものといわれている。西国街道を横切る雲見坂は、太田頼基が雲気をみて戦の勝敗を占ったところと伝える。
------------------------------------------

続いて、太田保についてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P186

------------------------------------------
◎太田保
茨木市東部、安威川流域にあった造酒司領。島下郡に属し、近世の太田村を中心として一部に耳原村を含んだ(勝尾寺文書)。「山槐記」応保元年(1161)12月26日条に「造酒司申、摂津国大田保為奈佐原■■妨事」とあるのが早く、東接する新熊野神社(現京都市東山区)領島上郡奈佐原庄より押妨を受け国司に訴えたが、その沙汰がない間に再度の押妨にみまわれている。造酒司領大田保は、諸寮司に割当てた官田の一つで、宮中での諸行事などに供される酒や酢の原料となる米を負担していた。成立は不明であるが、他の諸寮司田の成立からみて9世紀末頃と考えられ、また造酒司領の保が置かれたのは、令制下に摂津国に25戸設けられた酒戸(令義解)のいくつかが当地にあったことによるのではないかと推定される。大田保は造酒司領として鎌倉期まで続いていた。「平戸記」仁治元年(1240)閏10月17日条に引く嘉禄2年(1226)11月3日の左弁官下文に、造酒司への諸国納物のなかの摂津国米149石2斗のうち「於72石者、以大田保便補之、不足77石3斗」とみえ、摂津国からの納米は所済されず、当保からの便補によってまかわなわれている。この下文は同記同月日条所引の仁治元年閏10月3日の造酒司解に副進されたもので、その解文には「大和河内和泉摂津等、如形雖有便補之地、更不及半分之所済、於其外八ヶ国者、惣以忘進済之思」とあり、諸国からの納米が難渋するなかで、摂津国では大田保が貴重な便補地であったことを伝えている。
 室町期には足利将軍家の管轄に入ったらしく、「満済准后日記」永享4年(1432)2月22日条に「一条家門へ自将軍所領二ヶ所被進之云々」、康正2年造内裏段銭並国役引付に「弐貫五百文(中略)日野前大納言御家領(摂津国大田保段銭)」とみえる。これよりさき、永享3年11月15日の室町幕府奉行人連署奉書(御前落居記録)に「大田七郎頼忠与日野中納言家雑掌相論摂津国大田保内所職田畠(畠田五郎左衛門入道浄忠跡)事」とあり、南西方畑田に本拠があったと考えられる畠田浄忠の欠所地をめぐって、在地土豪の大田頼忠と日野家雑掌との間で紛争があった。以上のことから大田保のほとんどは足利将軍家より日野家に与えられ、公文職は裏松中納言(義資か)家に与えられていたが、永享4年将軍義教は改めて公文職を一条家に与えたことがわかる。当保の所職田畑は、本来足利将軍家領で、取巻く貴族らに随分得分として分与されていたと考えられる。なお、一条兼良の「桃華蘂葉」には「摂津国大田保公文職並売得田畠、普光院時(足利義教)、同時載一紙所宛行也、依有要用売与池田筑後守了、(此中少分為堀川判官給恩除之)」とみえ、その後、一条家は公文職と売得田を摂津国人池田氏に売却している。おそらく在地土豪太田氏や池田氏の進出によりその支配が維持できなくなったものと思われる。
------------------------------------------

これらの記述(事実)が示すように、地味、地勢が豊かである故に、権威までも吸着した歴史があります。時代による差異はありますが、江戸時代の基準で1,015石の採れ高は、非常に大きく、表高でこの規模ですから、やはり非常に豊かな土地であった事は間違いありません。
 戦国時代もいよいよ深まると、成長した地域勢力が、この地を求めて競うようになります。それが太田氏であり、同国人である池田氏であった訳です。池田氏は摂津国内でも、飛び抜けて優勢な勢力であり、本拠の豊嶋郡を出て島下郡まで勢力を伸ばす程に旺盛でした。

1570年(元亀元)創建の清浄山安楽寺
さて、これ程の素養を持つ太田村ですので、この豊かさを持つ土地であるからこそ、それを守るための策が無いはずがありません。当然、城があり、中心になる太田氏などの勢力があったはずです。それらの手がかりがどこにあるのか、今はわかりませんが、今後、明らかになることを楽しみにしています。

さて、この太田城に興味を持ち始めたキッカケであった安楽寺様には、色々とお世話になりました。今も親しくさせていただき、取材などで何か新しい事が判れば、お知らせしたいと思います。


◎浄土真宗本願寺派 西本願寺 清浄山 安楽寺
〒567-0018 大阪府茨木市太田1丁目14番6号
https://www.ibaraki-anrakuji.com




2015年2月13日金曜日

白井河原合戦についての研究

白井河原合戦は、京都の中央政権を研究する上でも非常に重要な出来事だと思いますが、地方豪族の私闘のように概念付けされ、どちらかというと、歴史的な位置付けとしては軽んじられている現状にあるかと思います。
 白井河原合戦の何が重要で、どんな事が起きていたかという事を以下にご紹介していきたいと思います。シリーズで書いたものや随筆として書いたものもありますが、それらを以下にまとめます。ご興味のある方は、是非ご一読下さい。
 
<シリーズでの研究>
白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)
白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)
白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)
白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))


<別シリーズで取り上げた一項目として>
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)
摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)


<随筆>
【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要
元亀2年の白井河原合戦について
和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る
白井河原合戦前夜
元亀2年8月28日の白井河原合戦の事
8月29日の白井河原合戦
宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城
441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣
旧暦8月28日は、現在のカレンダーでいうと10月13日です。
白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について
佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える NEW
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える  NEW


2015年2月11日水曜日

摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
-------------------------

三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
-------------------------

明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。





2014年1月27日月曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦についての補足を「補遺」としていくつかご紹介しています。今までの資料に加えて、最近、新たな研究成果が公的に発表されたりしていますので、それらを全体の流れに組み入れて考える必要があります。

可能性を再度精査し、精度を上げる事で、その時何があったのかを論理的に検証・復元することが可能になると考えています。

さて、最近『わがまち茨木』の「水利編」と「街道編」を手に入れ、読んでみました。同じシリーズで「城郭編」は持っていたのですが、それらを併せ読んでちょっと新たに気づいた事がありますので、ご紹介してみようと思います。

耳原大池
「城郭編」に「耳原城(砦)」の事は紹介してあって、知ってはいたのですが、広域図が無く、城跡見取り図だけでは、関連性に気づきませんでした。
 最近購入した「水利編」に幣久良山の事とそこに関連する耳原大池の紹介が詳しくされていて、記事の中に耳原城の事も紹介されていました。城郭編と同じ方が記事を書いているのですが、発行時期が違うので、また違う書き方になっています。地図も「水利」についての視点になっています。それが、読む私の視点とちょうど一致しました。

幣久良山のすぐ東側に「鼻摺古墳(反正天皇陵)」という小さな古墳があって、それには東側から南をぐるりと回り込むような、半円形の濠跡も昭和51年時点まであったようです。それは西国街道に面しています。 100メートル以内の至近距離です。しかも、幣久良山へ南北に通じる道(福井街道)を挟むように立地もして、幣久良山に陣を置くには大変都合の良い環境を自然に作っています。
 要するに、街道の交差点にある要害のような環境が、自然に出来ているという訳です。

現在の西国街道の様子
そして、そこから西国街道を東へ300メートル以内のところに耳原城跡があったと伝わっているようです。現在の法華寺の裏というか、接するようにして直ぐ北側にあったと伝わっているのですが、現在は帝人大阪研究センターの敷地となり、駐車場の一部になっています。発掘がされたかどうかは今のところ確認できていません。

そこは法華寺よりも少し地面が高く、東側にすぐ段差があって、砦や城を置くには適しています。この場所は、庄屋であった市兵衛という人の屋敷で、「市兵衛屋敷」と呼ばれていたようです。そこには北と西側を守る堀の跡もあったようです。
 ちなみに、市兵衛さんのお墓が、法華寺内にあるようですので、両者の関係は密接にあるようです。

また、『武城旧記』という資料には、「手鞍山(幣久良山)也 天正年中、明智日向守在城、其の後織田辰之助耳原に在城す」とあるようです。「織田辰之助」とは不明ですが、これは荒木村重の謀反の時に近くの太田に陣を置いて合戦などがあったようですので、その頃のことを指しているのかもしれません。
 そして、元亀2年の白井河原合戦の時も明智光秀は9月24日に京都を出陣して摂津国方面へ入っている事から、断定はできませんが、何か関係しているのかもしれません。同月中旬には一時的に双方とも、停戦しています。
 もっとも、その頃に池田衆は高槻方面まで侵攻していますから、幕府(和田)方である明智勢が耳原まで進駐することは難しいかもしれません。ちなみにこの合戦で総持寺は焼失しています。

全容は不明ですが、耳原城が元亀2年頃も何らかのカタチで機能していたとすれば、幣久良山の陣と安威城との軍事的補完関係も考慮されたでしょう。耳原の城は、街道の監視などに使われたのかもしれません。

鼻摺古墳と耳原城の存在が、幣久良山に陣を取った和田惟政の戦術にどう影響したか、再度見直してみる必要もあると思います。まあ、この二つの要素は、全体に大きな影響を与えるというよりは、幣久良山の陣をより堅固に保持・支援するための要素なのかもしれません。







2013年12月14日土曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))

先日、高槻市立しろあと歴史館にて開催された企画展「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」が開催され、その企画展用に発行された図録は大変価値のある一冊になっています。最新研究では様々な可能性が示唆され、高山右近の研究も更に進展した印象を受けます。

この企画展は、高山右近の生涯が対象になっていますので、期間が長く、地域も広いのですが、その中で特に、白井河原合戦の頃の素材に注目してみたいと思います。
 高槻市立しろあと歴史館の学芸員中西裕樹氏が、「高槻城主 高山右近の家臣と地域支配 -織田政権下の茨木城主中川清秀との比較から-」(以下「図録」と表記)で、研究成果を詳しく発表されています。他にも「しろあとだより」(以下「たより」と表記)など色々と小考を発表されており、それらを含めて、気になった要素を以下に抜き出してみます。

「里城」が「佐保城」との説を打ち出す (出典:たより第7号)
「(前略)「里」地名は未確認だが、北西約3キロメートルの山間部に位置する佐保村には複数の城郭遺構が存在し、「サホ」に「里」の字を当てたとも推測される。(後略)」との見解が示されています。
 この事は、これまでご紹介した白井河原合戦の分析にも合致するところがあります。池田衆は、決戦を意図し多数の兵を動員、また、隠密行動を取っていた事が判明している中で、それを更に裏付ける推定でもあるように思います。
 「里」の記述が「佐保」の誤記であれば、佐保は宿久庄の裏側でもあり、また更に、池田方面からの街道伝いに進めます。そしてまた、同地域に城跡が多くあるということは、要地であった証拠でもあるのでしょう。
 この時、池田衆にとっても重要な地域と捉えられ、制圧目標となっていたと考えられます。ここを手に入れる事ができれば、宿久庄の裏を確保し、街道を押さえ、連絡と補給を安全に行えると同時に、敵の同じ動きを封じる事ができます。敵の情報経路を絶つことは、隠密行動にも必要な要素かもしれません。
 また、池田方は、佐保から福井方面を経て向かう一隊と、宿久庄からの一隊が、2つの方向から白井河原の決戦場に向かう作戦を立てたのかもしれません。
 ちなみに、「余野氏」は、池田の一族衆でもあり、その拠点である余野から山道を伝って南下すれば2里(8キロメートル)程で到着します。また、止々呂美方面からもほぼ同じ距離です。

郡氏の由緒書(他に甲冑なども)の白井河原合戦部分を公表 (出典:図録)
系図の関連では取り上げられていたのかもしれませんが、まとまって紹介され、分析されたのは、今回の「高山右近の生涯」が初めてではないでしょうか。大変興味深い記述があります。
 一連の資料の中に郡宗保公の肖像画があり、この宗保は、伊丹親保の子が郡兵太夫正信の養子に入り、白井河原合戦で郡兵太夫の戦死後、宗保が郡氏の跡を継いで、荒木村重に仕えたと伝わっています。
 確かに元亀2年から天正元年の春頃にかけて、和田惟長と伊丹氏は同じ幕府方として親密な行動を取っています。ですので、この言い伝え部分に矛盾はありません。
 但し、白井河原合戦に勝った池田衆は、千里丘陵の東側にも勢力を伸ばしたと考えられ、茨木城までも手に入れていたのでしょう。そうすると、郡氏の本拠地は、当然池田方に接収される事となりますので、高槻・伊丹などで再興を図ったり、また、別の郡一族が池田衆方となって、郡村などの本貫地を守ったのでしょう。そのあたりの所は不明です。

由緒書には、白井河原合戦の時の郡兵太夫の行動が記され、フロイス日本史の記述を補う状況を見ることができます。これらは追々紹介していきたいと思います。

郡村周辺にある、2つの「馬塚」について (出典:図録)
旧郡村付近に「馬塚」と呼ばれる場所が2カ所あります。その内の一つに池田衆が陣を取り、白井河原合戦に臨んだとする逸話もあります。
 1つは、現在の国道171号線の下井町交差点から郡村方面に入る道に「馬塚」とされるところがあり、コンモリとした古墳のようになっています。少し小高い所にあり、陣跡とされるのですが、それにも適した場所です。
 もう一つは、その「馬塚」の前の道を更に郡村方面に進みます。郡小学校の東側にもう一つの「馬塚」があります。こちらは、人工的な小さな山で、木が一本生えています。墓石もその上にいくつかあります。こちらはこの地域が開発されるまでは、田んぼの中にあり、前者の「馬塚」とは趣が少し違います。

事情としては、命からがら逃げてきた郡兵大夫一行が、村の内に入った所で力尽きたのでは無いかとも思える、「下井町交差点」に近い馬塚がそれのような気がします。
 この馬塚は、郡氏の子孫の方々が今も決まった日に供養を行っているそうで、双方の馬塚で行われているそうです。
 また、この馬塚付近は、兵糧を炊き出す場所でもあったと伝わっています。白井河原の時だけの事なのか、定位置の作業場だったのかわは判りませんが、城に付随するのか、公的な場所でもあったようです。

「どちらが本当の馬塚か」という、二者択一的な事では無く、どちらも人や馬などの遺体を葬った場所なのかもしれません。由緒書が描く状況から見ると、郡兵太夫が自分の村に戻る行動をしているため、この辺りは、白井河原合戦の当日はまだ、池田衆の勢力が及んでいなかったと考えた方が自然だと思います。そしてまた、郡村には城もあったようです。

ですので、伝承として伝わっている、池田衆が馬塚に陣を取り、和田方が糠塚に陣を取った事で、「馬は糠を食うから我らの勝利だ」と縁起を担いだ逸話は、事実とは違うような感じが強くなってしまうように思います。
 池田衆は、郡村の北を流れる勝尾寺川を越えておらず、制圧地域は宿久庄城を制圧し、福井村あたりの平地が最前線になった可能性が高くなります。

高山右近と中川清秀が対立していたとの説を打ち出す (出典:図録)
 中々複雑な経緯がありますので、詳しくは『高山右近の生涯』をご覧いただければと思います。同書の研究発表では、(前略) 高山氏と中川氏との間には上郡西部の山間〜千里丘陵〜淀川沿岸地域にかけての緊張が継続し、右近の地域支配にも影響が及んだと考えられる。(後略) 、としています。
 中々興味深い論考だと思います。それが賤ヶ岳の合戦の行動に繋がるのかもしれませんね。この観点でも自分自身の研究ノートをじっくり見てみたいと思います。

松永久秀の出身地の一つとして、五百住説が浮上 (出典:たより第5号)
学芸員の中西裕樹氏が、松永久秀の出自について小考をまとめられています。久秀の出自は不明な事が今も多いのですが、高槻市の東五百住にその言い伝えがある事を資料と共に紹介されています。こちらも興味深い視点です。

白井河原合戦の時にも、松永久秀が高槻方面へ頻繁に出陣していますし、気になる動きをしています。三好義継も関係して動いています。また、戦後の高槻城を巡る交渉では、高槻城に義継が入るといった条件も出されていた程です。
 一連の資料には、ちょっと不自然に思えるような動きもあったので、この五百住に久秀が縁を持つとの説は、大変注目しています。

合戦以前に、中川清秀が新庄城に入っていたとの説を採用 (出典:たより第7号)
元亀2年5月に、池田方で三好三人衆に加担していた吹田城が和田惟政によって落とされた頃、中川清秀は神崎川対岸の新庄城に入っていたとする説を採用して取り上げています。この出典は、日本城郭体系・中川氏御年譜のようですが、これはどうも今のところ信じがたい説です。
 私の研究ノートではこの頃、池田衆は分が悪く、防戦姿勢で、池田から勢力を伸張させる余裕は無かったように思います。ですので、池田衆が元亀元年から翌年夏にかけて、新庄方面へ勢力を伸張・維持できるような動きを示す資料も見たことはありません。 またもし、元亀2年時点で、新庄城を確保していたのなら、吹田が攻撃されている時点やその後に反撃するなり、和田方の交戦地域が吹田から南へ広がっていくなり、何かとその痕跡は見られるはずですが、それはありません。

中川清秀が、池田から出て利益の一端を守っていたとするなら、それなりの立場を得ていたでしょうし、と言うことは、それなりの署名資料があっても良いと思いますが見られません。
 年記未詳で、池田二十一人衆の署名とされる史料『中之坊文書』には、中川清秀が署名していますが、今のところ天正以前ではその一通のみ見られます。

池田衆は、白井河原合戦後に支配地域が過去最大となりますが、それ以前は神崎川など、川を越えない範囲での豊嶋郡を中心とする支配地域(川辺郡・豊能郡など越境していく部分もあった)だったと思われます。






2013年12月13日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))

白井河原合戦で和田惟政が池田衆の鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近かもしれません。

先日、高槻市しろあと歴史館で開催された「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」を見てきました。最近は、毎年のように高山右近を取り上げた企画展を開催してもらえるので、その度に足を運んでいます。

それまでは、正直、真新しさはあまり無かったのですが、今回は素晴らしかったです。様々な可能性、角度から検討が加えられ、資料の少ない高山右近を何とか具現化しようという姿勢が伝わる企画展示になっていたと思います。ですので、図録も素晴らしいです。

その中で、白井河原合戦の折、和田惟政の重臣として参加した郡兵太夫正信についての資料群(肖像画・甲冑・陣羽織など)も公開されていました。また、同氏の家系に伝わる由緒書きも公開され、それには白井河原合戦の様子が詳しく書かれています。

図録にも収められていますが、由緒書の釈文の気になる部分を見てみますと、

-史料(1)------------------------------------------------------------
(前略)
和田伊賀守も郡山より三町(約330メートル)計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町(約550メートル)計り堤此有り。是者、中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共、和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故、郡兵太夫も陣場より二町(約220メートル)程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候。其の時の馬者、黒馬の名馬たる由にて、彼の馬に向かい乍ら玄星も能く働き候事と申され候。馬もうな垂れ、終いに落ち申し候に付き、所々者、此の所に埋め、印に松を植え置き申し候。其の時、討ち死に申し武士の死骸共集め、埋め候所、臼の様に二つかつぎ、是を哉、茶臼塚と申し候。兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候。
(後略)
-------------------------------------------------------------
とあります。

少し細かく見てみましょう。

和田伊賀守も郡山より三町計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。
 若干距離感は違いますが、「糠塚と云う所」とは、幣久良山に陣を置いた事を指していると思われます。郡兵太夫は、郡村から出て幣久良山の陣へ入っていたと伝えています。

此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町計り堤此有り。
これも幣久良山の要害性を示すものです。和田惟政は、そういう場所を選んで陣を置いていた事が判ります。

中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共
記述によると、和田惟政は郡兵太夫などを率いて幣久良山の陣を出て、茨木川を渡って西進したようです。そして早朝、この付近で『フロイス日本史』 にある、
-史料(2)------------------------------------------------------------
(前略)
そして彼ら(和田方)は見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました池田衆の更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、池田方は真ん中に捉えた和田方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(後略)
-------------------------------------------------------------
交戦となったのでしょう。「そして彼らは見つかると...」とは、和田惟政も何かを目的として、密かに行動していたらしい様子が描かれています。しかし、池田衆は既に、宿久庄村の東側あたりの山裾に隠れていたのでしょう。

和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故
宿久庄村の南東側あたりで交戦となり、ここで和田惟政は討ち死にしたのでしょうか。

郡兵太夫も陣場より二町程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候
和田惟政が戦死したため、重臣であった郡兵太夫はその場から、更に220メートル程移動しているようです。郡村の内にまで入っていたようですので、勝尾寺川を渡って南に移動していたようです。郡村へ帰ろうとしていたようです。郡村には城があったと伝えていますので、そこに戻ろうとしていたのかもしれません。
 そしてその時に郡兵太夫の乗り馬も倒れ、それが塚として残されたとの事です。それは今も伝わる馬塚なのでしょう。また、ここには戦死者も集められて埋葬されたとの事です。
 ちなみに、城はその後、池にしたと伝わっています。

埋め候所、(中略)、兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候
また、馬を埋めた所は、兵糧を炊く場所だったとの事です。 その時だけの事なのか、そういう固定的な場所だったのか、これについてはよく判らないのですが、他との関連性も掴めない場所です。郡村からは少し離れているような場所ですし、郡城と関係する施設なのかどうか、ちょっと今のところ判りません。

白井河原合戦で戦死した和田惟政も郡兵太夫も勝尾寺川を越えて、南へ逃れようとしているようですので、その方向には敵が居なかったと考える方が自然なのかもしれません。
 という事は、郡村や郡山村の辺りは、合戦当日にはまだ池田衆の手に落ちていたとは考え難いのかもしれません。池田衆は宿久庄城を落とし、そこから幣久良山方面に対峙しようとしていましたが、郡方面が確保できていないために池田衆は、前進方向の右手に不安を抱えながらも決戦を挑み、和田方に打ち勝ったといえるのかもしれません。

更に考えてみると、和田惟政は宿久庄村の山際の縁を回り込み、郡村方面からの挟撃を考えていたのかもしれません。200の手勢で強行したのは、こういった作戦と、前後の判断があっての事ではなかったでしょうか。また、宿久庄方面の残党など遊軍と何らかの呼応を行おうと、惟政は考えていたのかもしれません。
 何れにしても、買って知ったる自領ですから、多少の無理は利きますし、当然ながら、発想もそうなるでしょう。それが逆に、詰めの甘さとなり、池田衆にその辺りをつけ込まれたものと思われます。

これらの伝承が、ある程度正確なものだとすると、ちょっと白井河原合戦の詳細検討で修正する部分が出てきそうです。辻褄の一致するところは多く感じます。検討し、随時行いたいと思います。

この後もちょっと白井河原合戦について、書いてみたいと思います。






2013年10月25日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)

高山右近の参加した白井河原合戦について、筆者記述の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦」その1〜3をまとめてみたいと思います。
 まとめ方をどうするか、悩んだのですが、少し趣向を凝らして、『スロイス日本史』を当時の事実に沿うように書き直してみたいと思います。
 原文は『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』の抜粋部分を使用します。


--------------------------------
(前略)
私(ルイス・フロイス)が、最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る邦暦7月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、高槻城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして和田殿にこう申させました。
(中略)
和田殿は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城などから届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
(中略)
此れ以前、和田殿は攻撃の足がかりとするために、多数の甚だ好戦的な家臣を有する池田殿の領地との境に近いところで、新たに2つの城を築いていました。池田殿はそれらの城が築かれた事にひどく激昂していました。和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、その機も利用して、決着をつけようと考えていました。
 和田殿はその後、都の公方様とも相談を重ね、池田殿を攻める体制を整え、細川殿や三淵殿の援助を得て、池田領へ攻め入りました。
 邦暦の6月10日、和田殿は池田方の吹田城を攻めて、これを落城させました。吹田は水陸の要衝で、ここを手に入れた和田殿は、その後の戦いを有利に導きました。それから更に和田殿は、細川・三淵殿の助けを借りて、池田領内深く進み、原田城をも手に入れました。そしてここに、今は幕府に身を寄せている、旧領主であった池田勝正殿が入城しました。彼は、池田の元の領主に戻るために、和田殿に力を貸していました。
 また、この辺り一帯は、敵である池田殿の主たる収入源でもある土地で、またそれは百年以上に渡り続けられていた、非常に重要な場所でした。これに対する池田殿は、この事態を大いに嘆き、これらを取り戻すため、和田殿に反撃する機会を窺い、準備を進めました。

しかし一方で和田殿は、五畿内での幕府方の不利を補うために東奔西走しなければなりませんでした。また、彼は京都の防衛も受け持ち、非常に苦しい状態が続いてもいました。
 そして7月には、山城国南部や大和国へも出陣し、筒井殿の支援も行いました。兵や物資の調達も困難を極めました。そのため和田殿は、姻戚関係でもある友軍の伊丹殿を頼み、池田殿を攻める事を計画し、準備を進めました。

一方の池田殿も、領内を和田殿など幕府方に激しく攻められながらも、反撃の体制を整えました。池田殿の友軍である三好三人衆や大坂本願寺の援護も受けつつ、邦暦8月には準備を整えたようです。
 邦暦8月18日、和田殿は伊丹殿と連合して、池田領を攻めましたが、池田殿の反撃激しく失敗し、200名もの戦死者を出して後退しました。池田殿は、和田殿への反撃を始めました。
 和田殿は、戦の経験も豊富であり、予め要所に家臣を置き、予期せぬ敵の動きを掴むために工夫をしていましたが、もしも池田殿が多数の兵で攻撃してくるような事になれば、それを防ぐのは難しい状態でした。

先の合戦で勝利していた池田方は、活気に満ちていました。邦暦8月21日、池田殿は全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、池田殿は和田殿との決戦のために、精選した兵士3,000を、3名の高位の武士が3隊に分ち、出陣しました。

高山ダリオ殿は、子息を戦死させた後、元に居た場所から移り、別の任務に就いていました。彼は、和田殿の築いた萱野の城に城主として入っており、彼の息子ジュスト右近殿と共に、幾ばくかの家臣と共に居ました。そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報しました。
 和田殿の懸念は現実となりました。和田殿は、池田殿との合戦に敗退し、次なる前進のために態勢を立て直す協議を行っていた時、高山ダリオからの通報が届きました。和田殿は急いで吹田を経て高槻城に戻り、敵の軍勢を防ぐ手楯を考えました。敵は西国街道といくつかの街道を使い、一計を案じて東進していました。

和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢な武将でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な士官級の戦士達でありました。
 しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に残しておいた控えや予備の兵卒700名あるかなしかを率いて、兎に角も出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たため、直ぐには兵を増やす事ができない状態でした。和田殿は、増援の通知をするため、遣いを急派させました。

幣久良山
高山ダリオ殿に通報を受けてから、刻々と入る戦況は、和田殿にとって、思わしくありませんでした。宿久・里など、いくつかの城は落ちたり、敵に包囲される等していました。敵の動きが思いの外早かったため、また、詳しくも判らず、和田殿はその対応に苦慮しました。
 和田殿は準備が整わない中でも、手持ちの兵数を以て領地を守るには、どの場所が適しているかを考えました。間もなく和田殿は、去る邦暦5月に落した安威城の近くにある幣久良山に陣を置き、ここで敵を防ぐ事に決しました。ここなら複数の川もあり、天然の要害性もあって、更に背後を憂える事も無く戦えると考えたからでした。
 和田殿は、城内の高位の貴人へ通達した後、先駆けとして手筈を整え、高槻城を出陣しました。
(中略)
幣久良山から南を望む
彼は先ず前記の200名の貴人だけを伴って幣久良山に入りました。他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続く手筈になっていました。
 和田殿は1,500名の兵を用意できる見通しを立てていましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。和田殿は、これまでの状況を見て、池田殿は多数の兵を用意する事はできないと考えていました。
 和田殿は池田殿との決戦を予定し、幣久良山の城で敵を迎え撃つ準備を整えました。また、夜襲に備えて兵卒に注意を促していましたが、何事もなく夜が明け始めました。
 しかし夜が明けると、その準備が整わない間に、その城から半里ばかりのところに敵勢を認めました。こちらへ対陣する敵方は、1,000名の兵の外は目視できなかった事から、和田殿は一計を案じ、間もなく息子と共にやって来る軍勢を待つ事なく、その敵に攻撃する事を決しました。和田殿は武術に長じた自分の家臣を大いに信用して、勇敢に戦おうとしました。
 そして出陣した和田殿は、前衛として先頭を騎行し、間もなく彼は一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
 しかし、彼らはある丘の麓で待ち伏せて、隠れていました更に2,000名もの敵兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた和田殿の軍勢に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(中略)

イメージ写真:鉄砲隊
しかし、和田殿と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、和田殿の予想に反して、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。また、敵は秘密裏に行動し、和田殿に悟られないようにも注意を払っていました。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、和田殿並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。また、幣久良山の城で決戦を迎えるために、各地からそこへ向かっていた和田殿の家臣達も同様に、それぞれの場所に戻ってしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。
 そしてその朝方、家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、和田殿から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、長い間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところが、午後に前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、和田殿が戦死し、彼と共に五畿内の彼の全く高貴な武士達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。

後になって判明した事ですが、この合戦にあたって、新城に籠っていた高山ダリオ殿とその息子ジュスト達は逃げ延び、共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。 
(後略)
--------------------------------

いかがでしょうか。こういった感じになろうかと思います。白井河原合戦についての実際の時間の区切り、要素の連続性と切れ目が判り易くなったのではないかと思います。






2013年10月24日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)

宣教師ルイス・フロイスの残した白井河原合戦についての記録を補足・補正し、その合戦とそれに至る状況を復元してみたいと思います。
 前回の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)」の記事を元に、以下説明していきたいと思います。マーキング及び下線部分を文章の前から順に説明したいと思います。なお、『耶蘇会士日本通信』は「日本通信」、『フロイス日本史』は、「日本史」と略し、以下に論を進めます。また、基本的には『日本通信』のフレーズに対比させて、双方の訳の違いを見たいと思います。

◎フロイスが最後に和田惟政に面会したのは去る8月
これは『日本通信』の解釈が正しいように思います。フロイスの表記は基本的に洋暦で、邦暦では7月の事としています。もしかすると邦暦の6月にかかる頃かもしれませんが、いずれにしても和田・池田方との交戦は始まっていました。この一連の交戦で、高山右近の兄弟が戦死しています。

◎総督は戦争の噂ありしを以て
『日本通信』では、「戦争の噂ありしを以て」とあり、『日本史』では、「戦の最中ではありましたが」とあります。この7月頃、既に惟政は、池田方と交戦及び南山城・大和国方面へも出陣するなどしており、正に「戦の最中」でしたので、『日本史』の訳が実情に合います。

◎池田の主将は大いに此の築城を憤り
この時、荒木村重は池田家中の全権を握る立場にはありませんでした。惣領の池田勝正を逐い、村重は官僚集団である池田四人衆を再編した、池田三人衆ともいえる家政機関の一人となっていました。
 白井河原合戦ではその3名が各々1,000名ずつを受け持っていましたので、『日本史』の訳にある「荒木」は、当時の実態に沿わず、『日本通信』の訳の方が正しいと言えます。
 それに関する参考史料をご紹介します。年記未詳11月8日付けで、池田勘右衛門尉正村などが、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てた禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

--(参考史料)----------------------------
本文:摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍て件の如し。
署名部分:(池田勘右衛門尉)正村・(荒木信濃守)村重・(池田紀伊守清貧斎)正秀
※実際は諱のみが記されている。
-------------------------------------------
 
◎池田殿は9月7日
この池田殿が領内に通知を発した日付について、『日本通信』では、9月7日であり、『日本史』では9月10日となっています。もちろん表記は洋暦です。3日間の差がありますが、前者のこれを邦暦の8月18日とした場合には、池田衆が和田・伊丹勢に大規模な反撃を行い、和田・伊丹勢に200名もの戦死者を出させる会戦があったのですが、この日が18日です。
 ですので、18日に池田衆が領内に出陣の「触れ」を兼ねた通知を行うのは不可能と思われますので、『日本史』の解釈が実態に沿っていたと思われます。
 ただ、18日から28日までを一連の出来事とも考える事は不自然ではありませんが、今のところ、そう考える根拠がありませんので、フロイスの記述と18日の会戦は別のものと考えています。
 
◎領内の高貴なる大身一同に(中略)自署の書簡を送る
この要素の訳は『日本史』では、「自分(荒木)の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し」とあり、この訳し方が実態に合います。但し、その主体は「荒木」では無く、「池田の主将」です。主体の理解については『日本通信』の訳が正しいと言えます。このような状況ですので、原文に「荒木」とは無いのかもしれません。
 また、これに関する史料があります。年記未詳6月24日付けで池田衆が、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てた音信(『中之坊文書』)を見ると、池田家中は実際にそのような体制の時期があった事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180

--(参考史料)----------------------------
本文:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、萱野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
--------------------------------------

◎同所(ダリオが守りし城)より約3里の高槻に在りし和田に報告
この状況の理解は若干困難を来たしますが、高槻から3里の距離となれば、当然その西側で、萱野のあたりになろうかと思われます。上記署名中にも「萱野助大夫宗清」なる人物が確認でき、池田方であった事が判ります。
 和田の居た場所が高槻と言っているのは『日本通信』ですが、『日本史』では、高槻とは言っていません。原文を見る必要がありそうですが、具体的に地名を原文に書いているなら、このような訳の違いは出ない筈で、この部分は次の文脈を考えて、意訳されているように思えます。
 ですので個人的には、高山飛騨守ダリオ(右近の父)が、和田に通報した居場所は高槻では無く、別のところだった可能性を考えています。前述の合戦、和田・伊丹勢が200名もの戦死者を出す会戦をしている事から、惟政は猪名川の西側や吹田などのあたりで、態勢を立て直すための準備を行っていたのではないかと考えています。
 高山ダリオはその場所に居た惟政に、池田衆の動きを急報したと考えられます。高槻城には700程の僅かな控えの兵を残して惟政が出陣していたため、惟政は池田方のこの動きに至急の対応を迫られたのでしょう。惟政はギリギリの人数で、池田城攻略を行っていたと見られます。というのは、大和国方面の筒井順慶支援のために、細川藤孝など幕府勢は、そちらへの対応を行っていたからです。ですので、伊丹衆と連合で池田を攻めていたのです。
 池田衆が出陣したのは8月22日早朝で、白井河原合戦の同月28日までには実際のところ、6日間あったわけですから、惟政は急遽1,500程は掻き集める事ができると考え、手配を行っていたのでしょう。元数は700ですので、それに800の加勢です。
 その状況が『日本史』にある、「武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき」で、また、「なぜならば他の家臣はすべて、そこから、3〜5、乃至8里も遠く離れたところに居たからでした」との記述要素は、兵の招集に関する事を示すものだろうと思われます。

◎徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず
『日本史』では、「息子と共にやって来る後衛を待つ事無く」とのみあります。「徒歩」の言葉が元々あるのか、無いのかは今のところ不明ですが、意訳かもしれません。「徒歩」なのかどうかで、ちょっと状況が変わってしまいます。
 惟政の嫡子惟長は、歩兵を連れて来る予定だったのか、馬の数が不足していたのかもしれません。はたまた、惟政が考えあって馬を使い、先に出たのでしょうか。

◎1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く
『日本史』の訳し方が、ちょっと実感の涌かないものですが、『日本通信』では、「対陣しし敵1,000名の外認めざりしが」とあるので、こちらの方が自然な訳で、実態に合います。
 池田勢の荒木村重は、囮となって1,000名を露出させ、他の兵は伏せていたのですから、惟政が敵数の目算を誤った事を表現するには何ら矛盾はありません。伝聞記録ですが、この時の村重について、新参だったために囮役を買って出たとするものがあります。また、池田三人衆の一人である、池田紀伊守清貧斎正秀は、織田信長にも賞された老練な武将です。よく練られた作戦を白井河原合戦でも実行したのでしょう。
 この作戦で惟政は「大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士」を選抜して先駆けていた事もあって、池田勢の思惑通りに功を奏しました。それからまた、惟政が「大胆勇猛」だったとしても、敵情の確認とこの先の予定等を考えて、何らかの勝機を見出したと思われます。
 一方で、惟政程の武将が、自分の率いる兵の数を勘違いする事は絶対に無いと思います。そんな基本的な事も出来ない様では、戦になりません。

◎同朝(8月28日)住院の一僕を
『日本史』では、「そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして」とあるのですが、これも当時の状況として首を傾げます。フロイスは、堺から京都に向かうために、その途上の河内国讃良郡三箇の教会に居り、そこで白井河原合戦を目撃しています。
 一行の目的地は京都ではありましたが、都(京都)の家僕が既に三箇へ来ていたのか、はたまた、そうでは無くて、三箇から京都へ遣いをやり、そこから高槻に向かわせたのでしょうか。しかしそれでは、時間も手間もかかり過ぎます。残念ながら、そこまでの事は『日本史』の訳からは読み取る事ができません。
 それに対して『日本通信』では、「住院(三箇)の一僕をダリオ(高槻方面)に遣わし」とあり、これならば状況は理解できます。三箇から高槻方面は4里(16キロメートル)ですから、徒歩では1里に1時間として、4時間程で高槻へ到着できます。馬ならもっと早く着けるでしょう。朝早く三箇を出て、午後4時頃には高槻方面から戻って来れるでしょう。
参考:河内国讃良郡にあった三箇城
参考:旧三箇村歴史案内ツアー
 
◎12時間小銃の音を聞き
『日本史』では、「私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ました」としています。これは訳のニュアンスの違いでしょう。実際には1ヶ月以上、高槻周辺で交戦が行われていましたので、そんなに短時間で銃声は止まなかったでしょう。同書では、「2日2晩」に渡って高槻周辺が燃え上がるのを見たと、言っています。

◎都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる
『日本史』では、「五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事」とあります。京都には様々な人材が近隣諸国から集まりますので、そういった人々が惟政に登用されたりしていたのでしょう。勿論、その中には土豪や身分のある人物も多く居たと思われます。また、茨木や郡などの国人とも結びつきを深くしていたようです。







2013年10月23日水曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)

キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を読み解くにあたり、何からご紹介すればいいのか、要素があり過ぎて悩むところがありますが、先ずは、各々の資料を上げておきたいと思います。
 双方は、概ね同じ流れと内容ですが、少し違いがあります。ポルトガル語ですが、原文を見ないと何とも言えないところがありますが、訳に微妙な差があります。その部分を淡赤色(アンダーライン)でマーキングしておきますので、読み比べてみて下さい。
 今回は、フロイスの記事中の白井河原合戦の部分だけを抜き出してあります。全文をご覧になりたい方は、出典を辿り、図書館などでご覧下さい。


『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』----------------
※この訳本は、初版が昭和3年に発行されたもので、口調も古語調になっています。

(前略)
予が最後に面会したるは去る8月(註:元亀2年7月)、戦争に於て殺されたるダリヨ高山殿の一子埋葬の為、イルマン・ロレンソと共に当地より摂津国に赴きたる時にして、高槻の城より四分の一レグワの所に到りて、予はロレンソを総督(和田惟政)の許に遣わして、時既に遅く、当時此の道路に殺人及び掠奪多く行われ、我等は聖祭の器具を携帯せるを以て不幸に遭遇せんことを恐るるが故に、危険の場所を通過するまで兵士数人を我等と同行せしめん事を閣下(総督)に求むと云わしめたり。
 総督は戦争の噂ありしを以て、多数の武士と会議中にて非常に忙しく、書記2人は毎時間受領せし多数の書簡に対する返答を認めたるが、ロレンソの入るや、パードレは何処にあるやと尋ねたれば、
(中略)
総督は彼の敵にして、多数の甚だ戦を好める兵士を有する領主池田の領土に接して、今新たに2城を築造せり。池田の主将は大いに此の築城を憤り、之を囲みて陥落せしめ破壊せんと決心せり。
 而(しかり)して和田殿彼に対して直に出陣すべきを確信し、池田殿9月7日(註:元亀2年8月18日)領内の高貴なる大身一同に假令下賤なる者なりと雖も此の戦争に於いて和田殿の首を斬りたる者には1,500クルザードの収入を与うる事を約する自署の書簡を送りたり。
 翌日早朝此の敵は、3,000の兵士を3隊に分ち、新城のひとつを攻囲せん為出陣せり。該城はキリシタンなるダリオ其の一子及び少数の兵士と共に之を守りしが、敵の来るを聞き、急使を以て同所より約3レグワの高槻に在りし総督に報告せり。総督は大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。総督は(中略)、先頭に立ち、前に述べたる200の武士之に随い、500人は少しく後方に約18歳なる総督の一子(註:太郎惟長)と共に進みたり。
 総督は計数を誤り、1,500の兵士共に城を出ずべしと思いたれば、敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワの所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる(徒歩にて戦う日本の習慣なるが故に)其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。彼は此の時対陣しし敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏したる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、(中略)。
 彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。

此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。ダリオ高山殿及び其の子が、新城に籠り居て此の戦争に死せざりしは我等の主を称賛すべき事なり。
(後略)
---- (耶蘇会士日本通信 部分抜粋 終わり)----------------------


『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』----------------
(前略)
私が最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る8月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして奉行(和田殿)にこう申させました。
(中略)
奉行は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城から届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
 ロレンソが入って来ますと奉行は、伴天連はどこにおられるか、と彼に訊ねました。
(中略)
奉行は新たに、池田領との境に近いところに2つの城を築きました。同領は、和田殿の敵であり、多数の甚だ好戦的な家臣を有する荒木と称する殿に属していました荒木はそれらの城が築かれた事にひどく激昂し、和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、それらを包囲接収し、且つ、破壊しようと決心しました。
 当9月10日(邦暦8月21日)、荒木は自分の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、荒木は上記の城の一つを包囲するために、精選した自分の兵士3,000を3隊に分ち、これを率いて出陣しました。その一城には、城主として高山ダリオ殿と息子のジュスト右近殿が幾ばくかの家臣と共に居ましたが、そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報致しました。
 和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした
 奉行は、(中略)。前衛の先頭を騎行しました。(中略)。彼は前記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続きました。
 和田殿は計数を誤り、自分達は、城から1,500名の兵を率いて出陣したものと思い込んでいましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。それ故彼は敵勢を、城から半里ばかりのところで認めますと、息子と共にやって来る後衛を待つ事なく、一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。そして彼らは見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。(中略)。
 奉行と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、奉行から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、1・2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。ところが、やっと午後になって前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
 この合戦にあたって、新城に居た高山ダリオ殿とその息子ジュストが共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。
(後略)
---- (フロイス日本史 部分抜粋 終わり)----------------------


次回は、上記の資料を元に、訳の違いを含め、更に日本側の資料を併せ見て、当時の状況を復元してみたいと思います。






2013年10月17日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)

摂津国豊能郡高山村出身とされる高山右近は、非常に有名でありながら、謎の多い武将でもあります。
 荒木村重の家臣となり、有力な武将となる以前については、詳しく判っていません。そんな高山右近が、元亀2年8月28日に行われた白井河原合戦とそこに至る活動に関わっている事が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した報告書と、彼が後に編纂した『フロイス日本史』の中に記述されています。
 ただ、フロイスは外国人であるために、起きた出来事をその意味を含めて正確に把握しているとも言えず、また、敵味方の主観的な見方も極端なところがあって、この記述のみで全てを言い表しているとはいえないのも事実です。他の記録類も同様に、「真実とは何か」という、そもそもの価値をどう定義するかにもよるのですが、やはりそれは対象についての記録を全て見比べる事でのみ真実の描写が可能であり、本来、記録とは、自分(記録者)の目線以上でも、以下でも無いのです。
 特に合戦という出来事については、残った記録と地形・気象、それらを取り巻く背景(政治・経済・権力など)を総合的に見る事で、「その時」が見えて来るのだろうと思います。真実とは、それでなければ見えないものと感じます。調査不足、それから自分の対象への偏見、無学のある内は、いくらそれについて語ろうとも矛盾が多く、決して真実に至る事ができません。
 これは他のどんな分野でも同じ事が言えると思います。その探求が、いわゆる「科学」であり、歴史の分野は、その元は科学であって、私個人的には「歴史科学」と捉えています。

前置きが長くなりました。高山右近と白井河原合戦についての本題に移ります。

『フロイス日本史』などによると、高山右近には男子の兄弟があったようで、その一人が元亀2年(1571)7月頃に戦死しているようです。
 これについて『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』や『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』には、詳しく記述されています。
 先にも触れたように、フロイスは外国人であるために、民俗性や五畿内特有の習慣等を踏まえていない場合や記憶違いなども記述に多々見られます。ですので、他の日本側の史料(資料)と照らし合わせる事で、その間違いを補正する事ができます。
 それから更に、フロイスの元の記述は外国語です。それを訳してもらったものを私達は資料として読んでいるのですが、その訳の感覚も時代や担当者などの人によっての違いがあります。それらの要素も補正する必要があります。

先ず、日本側の当時の資料群を見、その時に何があったのか、フロイスの記述の空白と間違いを補う元にしたいと思います。それに並行し、『フロイス日本史』などにある関連部分を、それぞれ抜き出してみます。同じ部分を『耶蘇会士日本通信』から抜き出して比較してみたいと思います。
 
このテーマも結構長くなりそうなので、いくつかに分けて述べてみたいと思います。
 論点の主要素となる、ルイス・フロイスの記述の分析の前に、日本側の各資料から白井河原合戦に至る背景を見てみたいと思います。
 
日本側に残る資料では、元亀2年中の和田惟政・池田衆・高槻方面、その関連について時間経過を追ってみたいと思います。

--(元亀2年中の時間経過)---------------------------------

2/5   三好三人衆方本願寺光佐、和田惟政との誼について返信せず
2/5   三好三人衆方荒木村重など池田衆、堺商人の茶席へ出座
3/5   三好三人衆被官木村宗治、松永久秀などを訪ねる
3/19  三好三人衆方池田正秀など池田衆、堺商人天王寺屋の茶席へ出座
3/22  三好三人衆など、河内国若江城の松永久通を訪ねる
5     和田惟政、三好三人衆方安威城を落す
6/2   三好三人衆方細川晴元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
6/6   三好三人衆方松永久秀、「渡出」などへ音信
6/10  和田惟政、吹田城を落とす
6/中旬  和田惟政など、原田城を落とす
6/23  和田惟政、牛頭天王(現原田神社)へ禁制を下す
6/24  三好三人衆方池田衆、湯山年寄中へ宛てて音信
7/8   和田惟政、三淵藤英などとともに山城国木津へ出陣
7/11  和田惟政、大和国へ入る
7/12  和田惟政、奈良周辺で交戦
7/15  三好三人衆方松永久秀、高槻方面へ出陣
7/20  和田惟政、高槻城へ戻る?
7/21  和田惟政、京都へ入る
7/22  和田惟政、高槻城へ戻る
7/22  三好三人衆方松永久秀、高槻方面から撤退
7/23  三淵藤英・細川藤孝、高槻方面へ出陣
7/26  三淵藤英、南郷春日社に宛てて禁制を下す
7/26  三淵藤英、南郷春日社目代へ音信
7/下旬  細川藤孝・池田勝正など、池田城を攻める
8/1   三淵藤英、牛頭天王へ禁制を下す
8/2   池田勝正、原田城へ入る
8/3   三好三人衆方松永久秀、大和国辰市で大敗
8/7   細川藤孝など、筒井順慶の援軍として奈良へ出陣
8/18  和田・伊丹勢、池田周辺で交戦
8/21  三好三人衆方池田衆、出陣の触れを出す
8/22  三好三人衆方池田衆、東へ向けて出陣
8/27  和田惟政、幣久良山に陣を取る
8/28  白井河原合戦
8/28  三淵藤英、高槻城へ入る
8/29  三好三人衆方池田勢、白井河原周辺諸城を攻撃
9      総持寺が焼ける
9/4   三好三人衆方淡路衆、大坂周辺などへ上陸
9/6   三好三人衆方池田勢、幕府勢に局地的に敗北
9/9   交渉が成立し、池田・幕府勢と停戦となる
9/13  織田信長、京都へ入る
9/中旬  吹田城、三好三人衆方池田方に復帰か
9/18  織田方島田秀満勢、摂津国へ出陣
9/24  明智光秀、摂津国へ出陣
9/25  一色藤長など、摂津国へ出陣
9/30  三淵藤英、奈良へ出陣
10    三好三人衆方中川清秀、新庄城へ入る?
10/14 織田信長、細川藤孝へ勝竜寺城の普請について指示
11/1  織田信長、高槻城へ替番の兵を入れる事について指示
11/8  三好三人衆方池田三人衆、摂津国豊嶋郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
11/14 織田信長、伊丹忠親へ通路の封鎖を命じる
11/14 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
11/14 三好三人衆方松永久秀、河内国佐太・金田の陣にて公卿近衛前久をもてなす
11/24 三好三人衆方池田衆の池田正秀所有の茶器、堺商人の茶席で披露される
12/6  三好三人衆方松永久秀、河内国十七カ所内波志者に在陣
12/13 三好三人衆方池田正行、今西橘五郎へ音信
12/20 和田惟長、摂津国神峯山寺寺家中へ宛てて音信
12/20 和田惟長一族同名惟増、摂津国神峯山寺同宿中へ宛てて音信

-----------------------------------

上記の出来事の意味を簡単にお伝えしておきたいと思います。

池田城を推定復元した模型
この年の初頭、三好三人衆が幕府・織田信長方に反撃するために調略を行っており、それが成功します。2/5と3/19の茶会、3/5と3/22の三好三人衆と同被官木村宗治の行動は、それによるものです。また、茶会も三好三人衆方と池田衆を更に深く結びつけるための会席です。この時、荒木村重が池田家政の中心に就いた事を三好三人衆へ紹介したものと思われます。いわば、出世の足がかりとなった会合でした。様々な打ち合わせも行われた事でしょう。
 その後、5月頃から目立った行動が起き始め、軍事衝突が再び起こります。特に6月からは和田惟政が積極的に三好三人衆方の池田衆を攻めます。これは京都とその西側地域、またそれに続く海への連絡路を塞ぐカタチとなっている池田を制圧する必要があっため、幕府・織田方の当面の集中攻撃対象になっていたものと思われます。
 一方、元亀2年は、近江国方面で、幕府・織田方は大規模な戦略行動(戦争)があって、京都周辺へ兵を割く余裕が無かったために、和田は伊丹衆と共に東奔西走します。
 池田衆を攻めつつも、奈良方面へも出陣し、松永久秀などの三好三人衆方勢力にも対応しなければなりませんでした。それが、7/8・7/11・7/12の行動です。

原田神社
さて、白井河原合戦に至る環境を見てみます。
 6月10日頃、和田は吹田城を落しているようで、千里丘陵の南側から西へ進み始めます。同月23日、和田は、牛頭天王社へ禁制を下します。これは三好三人衆方の池田衆にとって、非常に深刻な出来事で、池田氏と繋がりの深い(被官化していたいと考えられる)原田氏の拠点、原田村の祭神が牛頭天王です。ここに幕府方の禁制が下されたという事は、池田氏の主要支配地域が和田方に移った事を示します。

その後、史料は暫く途切れますが、7月23日にまた、現れ始めます。
 その前日、和田が京都から高槻城に戻ると、幕府は三淵大和守藤英・細川兵部大輔藤孝を出陣させて、増援を行います。この時に池田勝正もこれに従軍しています。幕府方は池田城を攻めるための決定がなされ、そういった作戦が立てられていてものと思われます。
春日社の南郷目代今西家屋敷
同月26日、三淵は南郷春日社に宛てて禁制を下し、今西家にも音信しています。この事もまた、池田城に居る池田衆にとっては深刻な出来事です。池田氏はこの今西家の代官請けを代々続けており、主要な収入源の一つです。この関係が絶たれたのですから、一大事です。
 また、池田家当主の復帰を目指す池田勝正にとっても、勝正の名で禁制を下す事ができず、一旦は幕府に接収されるカタチになっている事から、勝正もこの状況に将来を憂慮した事でしょう。
 同時にこの頃、池田城は攻撃されていた事と思われます。禁制が下されているという事は、その付近で戦闘等が行われるなどして、無政府状態になっていたりしたのでしょう。

翌月1日、更に三淵により、牛頭天王社に再度の禁制が下されています。
 7月下旬から8月上旬にかけて、池田領内に幕府勢力が大規模に入り、交戦が行われていたようです。結局のところ、池田城が落ちなかったため、幕府方の池田勝正は池田城の監視のために、付け城的役割を帯びた原田城へ入ります。
 他方、池田城の池田衆は激しく抵抗したものと思われます。内部の事と地形をよく知る池田勝正を付けて大規模に攻めても落ちなかったのですから、そのような状況が想像できます。
 
この一連の交戦の中で、高山右近の兄弟(高山飛騨守の子)が戦死したのではないかと思われます。
 池田衆は、6月から7月の時点では、東へ大規模に進む余裕は無かったと思われますので、高山右近の兄弟は、原田から吹田のあたりで戦死したものと思われます。

摂津原田城跡
8月2日、池田勝正が原田城に入ってからは、大きな戦闘行動は無かったようです。1週間から10日程でしょうか。また、三淵と細川は京都等へ戻ったようです。また、現在の太陽暦では、9月6日頃で、そろそろ収穫の頃です。
 それからまた和田は、伊丹衆とも連携を考え、作戦の練り直しを行っていたようです。どのような規模か、また攻め方などは詳しく判りませんが、和田は池田城を続けて攻めようとしていた事が判ります。
 これに対し、池田衆も反撃の準備を進めていたようです。同月18日、和田・伊丹勢は200名もの戦死者を出す損害を受けています。池田衆は、この時点で反撃の体制が整っていたようです。
 
今西屋敷付近の田んぼ
白井河原合戦は、この流れの中で起きたもので、より長い期間を通じてこの合戦を見れば、一連の闘争の「決戦」だったと、捉える事ができると思います。
 フロイスの記述にある和田は、優位性を急激に崩された後の立て直しに窮した姿だったのだろうと思います。個人的には、そのように分析しています。また、その記述は文字としては繋がっていますが、そこにある要素は、必ずしも連続した出来事ではありません。断片的なものが一つになっています。

それからまた、この時の当主は高山飛騨守ですが、高山父子はこの戦いの中で、「新たに築造した城に籠って生き延びた」とある事から、その頃から城造りの才能に長けた一面があり、それが幸運にも命を守ったのかもしれません。はたまた、この時の事も含め、後に城造りに関して世に名を知られるようになるための、才能を開花させるキッカケになった出来事だったのかもしれません。
 
次は、フロイスの記述をその視点で確認してみたいと思います。