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2016年3月16日水曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌の様子とその後の勝正の動き)

織田信長は、阿波・讃岐国の大名三好氏の勢力が西から迫る事は早くから想定しており、金ヶ崎城から京都へ戻った時には、暫くとどまって、その動きを観察していたらしい。
 しかし、信長にとっての最大の誤算は、近江国の姉川方面での決戦が見え始めた重要な時に、摂津国池田家中で内訌が起きた事であった。この事により瀬戸内海と京都が寸断され、逆に京都へ三好勢が直接進攻できる状況となった。また、この池田家内訌に影響を受けた原田家など近隣諸家も、池田家に同調する動きが見られた。

池田家内訌の原因は何であったのか。金ヶ崎城から京都へ戻った信長は、不穏な状況と向き合うにあたり、万一の場合に備えて、主立った国衆や勢力から人質を取った。
 しかし、これが感情的な反発の引き金となり、池田家中に鬱積した不満に火をつけたのではないかとも考えられる。将軍義昭に対して、「無理を重ねて尽くしても、信用されていない。」と、池田の多くの人々が考えたのかもしれない。また、誰を人質に出すかで議論が紛糾した可能性もある。
 そして池田家当主である勝正は、家中の不満を鎮める事ができず、勝正親派であった家老2人を失い、城を出る事となった。勝正は、その後も幕府方として行動し、間もなく豊嶋郡内の原田城を攻撃するなどして、幕府方に身を寄せつつ、池田家惣領復帰を目指して活動したと考えられる。

<参考史料>
1569年(永禄12)------------

11月21日 堺商人今井宗久、三好三人衆勢の動きを将軍義昭側近細川藤孝などへ通報
       ※堺市史5(続編)918頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
5月     幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
       ※大日本史料10・4・556頁(毛利家文書)、信長公記(新人物往来社)103頁など
6月2日   阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)189頁など
6月18日  将軍義昭側近細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・525頁(武徳編年集成)など
6月18日  摂津池田城内で内訌が起こる
       ※言継卿記4・424頁、多聞院日記2(増補 続史料大成)194頁など
6月26日  摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
       ※言継卿記4・425頁など
7月6日   幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
       ※言継卿記4・428頁など
8月10日  流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
       ※近世公家社会の研究22頁など
8月25日  摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
       ※言継卿記4・440頁など
8月27日  摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
       ※池田市史(史料編1)81頁、ビブリア52号155頁(二條宴乗記)など
1571年(元亀2)------------
8月2日   摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
       ※池田市史(史料編1)82頁など
1572年(元亀3)------------
1月4日   本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺衆中へ宛てて畿内の様子を音信
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁など
4月16日  摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁、信長公記(新人物往来社)125頁など
11月6日  将軍義昭、側近上野秀政へ池田家の扱いについて内書を下す
       ※戦国期三好政権の研究98頁、高知県史(古代中世史料)652頁など
1574年(天正2)------------
4月2日   足利義昭方池田勝正、本願寺勢に加わる
       ※続群書類従29下(永禄以来年代記)270頁など






2016年2月11日木曜日

1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。

これまでにご紹介した「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)」にも自分が書いた事なのですが、将軍義昭政権の初期の段階で、織田信長は経済政策に失敗しています。
 日本の歴史としては、織田信長の執った政策は、日本の政治史発展に大きな貢献をした事は明かですが、しかし、当時を生きる人にとっては、大波乱の時代でもあった訳です。

写真1:池田市細川地域から出土した古銭
詳しくは、上記のページをご覧いただければと思いますが、言いたい事の核として部分的に取り上げると、「それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した。」と記述しているところがあります。
 池田家の内訌は、この翌年の6月ですから、加担する政権の経済的な失敗が見えてくる時期でもあったと思います。もちろん、池田家内訌の理由がこの一つの要素だけでは無く、他にも色々あるのですが、経済的な要因は、今も昔も変わらず、判断するための大きな要素になります。

こう言う背景要素もあって、先鋭的で、性急な判断に迫られるような事が起きた場合、議論は紛糾し、刃傷沙汰に至りやすくなるものと思われます。そういった中で、1570年(元亀元)6月の池田家内訌に至ったのでは無いかと、ふと、思いつきました。

写真2:出土した古銭の代表例
この、気づきというか、ヒントはまた広い視点持をちつつ、深く掘り下げてみたいと思います。

【写真1】昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に出土した古銭で、写真のような状態で発見された。古銭は、年号による種類では48種類、書体による選別では93種類で、分類不能なものは555枚。総合計18,317枚。発見された古銭の年代の開きは約800年。
※出典はグラフいけだNo.18 (1972年2月) より。
【写真2】開元通宝は、西暦621年に初鋳された唐銭で、この発見の中では最も古い。永楽通宝は、西暦1411年に鋳造され始めた明銭で、室町時代の日明貿易によって大量に入り始め、江戸時代初頭まで流通した。織田信長はこの永楽通宝を旗印にもしている。
※出典は同上。



2015年2月20日金曜日

荒木村重も関わった、当主池田筑後守勝正追放のクーデター(その7.1:池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」)

同テーマ内のその7「池田勝正追放後に別の当主を立てたか」でも提起した概念ですが、その続報です。
 その7での記事中でご紹介しました、史料3から5までの署名者である民部丞某は、同一人物である事が、判明しました。それら全ての花押が一致しました。再度、以下にその史料を掲示します。

-(参考史料1)-------------------------
◎史料3:元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てた禁制
※島本町史(史料編)P443など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料4:元亀元年9月付けで、民部丞某が摂津国多田院へ宛てた禁制
※川西市史4(資料編1)P456など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料5:元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てた禁制
※箕面市史(資料編2)P414
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
-------------------------

それで、同じく、その7の記事でご紹介しました史料1に登場する民部丞ですが、この人物と既出の参考史料3から5で署名している民部丞なる人物とは、同一ではないかとの可能性は高くなるように思います。

-(参考史料2)-------------------------
◎史料1:元亀3年らしき11月6日付け、将軍義昭の上野中務大輔秀政へ宛てた御内書
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
-------------------------

ただ、それらの史料の人物を、同一として完全一致させる断定的証拠も今のところ無いため、慎重に扱う必要はありますが、史料3から5の民部丞の署名が一致した事で、その可能性としては極めて高くなったといえます。
 それからちなみに、この民部丞の禁制に関する副状も見当たらない事から、自立的な強い権力保持者だったかもしれません。

元亀3年冬の時点で、池田一族衆が民部丞を当主に再び立て、将軍義昭へ加担する事を申し出たとすれば、その後の池田衆としての動きは、民部丞に焦点をあてて行く事になります。
 将軍義昭と織田信長が不和となり、双方は京都で争います。この時の記録に摂津池田衆の動きが様々な史料に頻出します。これについては、追々詳しくご紹介するつもりです。
 史料上で、民部丞のある程度の行動が明らかになった事で、それまでバラバラに存在していた要素が繋がって、道筋がつけられるようになったのは、一歩前進です。
 
ただ、克服すべき課題もまだあります。以下に箇条書きにしてみます。

◎民部丞の元亀2〜3年夏までの史料上の動きが見られない。
◎池田一族が、上記参考史料2の中で将軍義昭に伝えた民部丞なる人物と同参考史料1の資料群に署名している民部丞なる人物との一致は、完全に結びつける史料は今のところ無い。
◎民部丞の池田家中での地位や活動が不明である。
◎民部丞と池田知正との関係が、否定も肯定もできない。

これらの課題を抱えていますので、花押の一致が先入観にならないよう、慎重に民部丞の行動をこれからも史料で追いたいと思います。
 一方で、民部丞が池田家に関連すると見られる状況証拠もあります。禁制の内容を見比べてみます。池田家と関係の深い箕面寺に対して下した、歴代池田当主とその後に摂津守護格となった荒木村重の禁制を見てみます。
 先ずは、天文20年5月付け、池田(右)兵衛尉長正が下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411

-(史料1)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の河持ち制するの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩於者、制す物取られるべく候。尚以て是非及はば、成敗加え罪科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
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続いて池田八郎三郎勝正が、永禄7年2月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P413

-(史料2)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨背き輩あ、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
-------------------------

時代が代わって、ここから以下は荒木摂津守村重が、天正3年11月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料3)-------------------------
一、山林竹木剪り取り事付き所々散在盗み剪り事、一、寺家寺領於新儀非例申し懸け事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若しこの旨相背き輩在り之於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

上記史料3についての副状です。荒木村重一族同苗平大夫重堅が、天正3年11月26日付けで当郡中所々散在に宛てた音信(折紙)です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料4)-------------------------
箕面寺山林盗み取りの者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以って彼の寺へ村重御制札出し置かれの間、堅く停止為すべくの旨候。万一異儀於者成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
-------------------------

同じく村重の、天正3年11月26日付け音信です。
※箕面市史(資料編2)P414、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料5)-------------------------
一、当寺両座の間、先規の如く仰せ付けられるべく事、一、寺役等同前為すべく事、一、諸事寺法堅固に仰せ付けられるべき事、右条々寺家法度に任せ申し付けられるべく候。若し、相背かれ族之在る於者、堅く寺中仰せ付け為されるべく候。仍て件の如し。
-------------------------

上記史料5についての副状です。荒木重堅が、天正3年11月26日付けで箕面寺年預御坊参御同宿中に宛てた音信です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料6)-------------------------
御寺家御法度儀に付きて摂津守一書相調え入れせしめ候。各有様為に仰せ付けられるべく候。万一異儀申され仁之在り於者、この方へ仰せ越されるべく候。堅く申すべく候。恐々謹言。
-------------------------

この箕面寺は、池田家とも縁の深い寺で、政治的な画期では必ず音信し、確認事項を交わすなどしています。また、禁制は全て直状形式です。直状は、当主自らが発行する形式で、文末が「仍て件の如し」となっています。
 池田一族が没落すると、代わって台頭してきた荒木村重が音信しています。村重と箕面寺は村重の池田家中時代から既知の仲でしたので、再確認とった音信といえます。基本的な事は踏襲し、もし不都合があれば調整するともいっています。
 それから内容では、箕面寺の自治権も認めているようです。それ以前と少し違う感じがするのは、「摂津守(村重)統治下での」といったところが明らかにされているところです。
 
さて、話しを池田家統治下に戻します。

そのように箕面寺へ宛てて下された禁制の内容は、前例を踏襲されていて、それを発行できる事自体が、権限の継承と考えられますので、長正から民部丞までは、そういった流れがあったと考えられます。
 そこで視点を少し変えて、江戸時代に書かれた『荒木略記』という伝承資料を見てみます。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P2

-(伝承資料1)-------------------------
「荒木略記」荒木信濃守条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させ、その子息直正と申し候を取り立て、大将に仕るべくとて、勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
-------------------------

続いて、『陰徳太平記』という伝承資料を見てみます。
※陰徳太平記4-P53 (米原正義校注)

-(伝承資料2)-------------------------
「陰徳太平記」三好勢摂州渡海之事:
(前略)。かかりける所に、池田勝正は、元亀元年6月18日、同名豊後守、同周防守2人を生害させて、其の身は何国(いずくに)共なく出奔せり。さるに因りて跡に残る池田の一門、並びに家老諸士等十方(とほう)に暗(く)れて居たりければ、為方(せんかた)なうして頓(やが)て阿波国へ使いを遣わし、御味方に参るべく候間、不日に御渡海候へと云い送る。(後略)。
-------------------------

こういった伝承にも元亀元年6月の池田家内訌の事が取り上げられているのですが、『荒木略記』には、勝正を追放した後に、別の当主を立てたとあります。
 これまで(というか今でも)、伝承資料は信用性が低いとして、始めから相手にされない傾向にありますが、その割には都合よく引用される事が多々あります。
 しかし、平成の世である今、そんな事をいつまでも続けてよいとは、個人的には考えていません。どの程度正確に伝えているのかも測るべきだと思います。自分で調べてみて感じる事は、何よりも、現に、ある程度の方向性は正しい場合が多いです。これらの事を現代風に例えるなら、伝承資料とは「証言」と捉えてもいいのではないかと思います。

この元亀元年6月の池田家内訌について、上記の2つの伝承資料は、正確に伝えています。細部に若干の「狂い」はありますが、現存している他の史料を丹念に見れば、それらしき動きをしている人物が確認できました。それが「民部丞」に関する史料群です。

今のところ、完全一致という訳ではありませんが、手掛かりとするには非常に有力な要素と思います。ですので、始めに少し触れました、元亀4年の将軍義昭と織田信長の京都での闘争について、池田衆の動きの輪郭を示す事ができるようになります。
 私自身も、その頃の池田家中の核がどこにあるのかが掴めなかった事から、理解が混乱していたのですが、上記の想定の下で、再度見直していきたいと思います。
 
結論としては、元亀元年6月の池田家内訌で、勝正を追放した直後、伝承資料通りに池田家中は、一旦、新たな当主を立てたと考えられます。



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2014年12月11日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その7:池田勝正追放後に別の当主を立てたか)

池田勝正とその時代の池田家について見ていくと、気になる事(人物)があります。後世に創作(全くの事実無根と考えている訳では無い)された家伝で、『陰徳太平記』や『中川家記』などには、元亀元年6月の池田家内訌で勝正を追った後に、別の当主を立てたかのような記述があります。これが、事実かどうか、すごく気になっていました。
 ところが、実際の当時の史料を丹念に見ていくと、どうもそれらしい人物がいる事に気がつきました。

元亀元年夏に勝正を追放後、白井河原合戦(元亀2年8月)の大勝利を経て、一時は順風が吹いたかと思われましたが、再び家中で対立が起きます。池田一族と荒木村重などのいわゆる、外様の対立となります。
 この時、池田一族は当主として民部丞なる人物を立てる、と、将軍義昭に伝えて、その支援を約したようです。その動きを伝える史料があります。また、同史料では年記を欠きますが、内容から見て元亀3年頃の事と思われます。将軍義昭が上野中務大輔秀政へ御内書を下しました。
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98

-(史料1)-------------------------
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
-------------------------

ご存じのように、これはこの頃の中央政権(京都)内部で、将軍義昭と織田信長が対立した事と相対した動きです。
 やはりこの時も、池田家は頼りにされおり、双方から誘いがあったようで、池田家が分裂して、池田一族は将軍義昭に、荒木村重が織田方に味方する事がわかると、それぞれの勢力から大変喜ばれています。
 織田信長に関する史料をご紹介します。元亀4年2月23日付けで織田信長が、細川兵部大輔藤孝へ音信したものです。
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432など

-(史料2)-------------------------
前置き:
公儀後逆心に就き、重ねて条目祝着浅からず候、
本文:
一、塙九郎左衛門尉直政差し上せ御理り申し上げ候処、上意の趣き、条々下し成され候。(中略)一、摂津国辺の事、荒木信濃守村重信長に対し無二の忠節、相励まれるべく旨尤も候。(後略)。
-------------------------

この中央政権内の対立の結果は、皆さんがご存じの結果に終わり、織田方が将軍義昭に競り勝ち、独自の政権を樹立する事となります。
 池田家も将軍義昭政権の機能停止をもって、それまでの主従の力関係、権力構成が変わります。ただそれは、急に入れ替わった訳では無く、天正2年いっぱいまでは、池田衆ブランドも侮りがたく、荒木方との競り合いはあったようです。

さて、元亀元年6月の池田家内訌直後に視点を戻します。先述の(史料1)に登場する人物と同じかどうかは現在のところ調査中ですが、民部丞某が、元亀元年7月から11月までの間に、3ヶ所に禁制を下しています。それらは何れも、池田家当主が音信したり、禁制を下したりしている実績のあるところです。
 ちなみに、文末は「仍て件の如し」で、これは直状形式といわれるもので、本人自らが書いた命令書という概念で分類されています。

先ず1つ目の史料です。この頃は、6月28日に吹田へ三好三人衆勢力が上陸する状況で、大山崎方面もこれに関連する対応を講じていたようです。 史料は元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。
※島本町史(史料編)P443など
 
-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事並びに放火事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、国質・所質に付き沙汰之事、一、非分申し懸け族(候?)事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩に於て者、速やかに厳科に処すべき者也。仍て件の如し。
-------------------------

続いて2つ目。摂津国川辺郡の多田院へ宛てて禁制を下します。この頃は、本願寺宗が反幕府方へ付き、大きく環境が変わる時期です。また、同月8日には伊丹・和田勢が、池田領内の市場などを放火したりして打ち回ります。
※川西市史4(資料編1)P456など

-(史料4)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

3つ目です。同国豊嶋郡箕面寺に宛てて禁制を下します。この頃は、幕府方の劣勢が誰の目から見ても判る時期で、同月には、南山城地域でも土一揆が活発化したりしています。 元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料5)-------------------------
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
-------------------------

上記の禁制が発行された時期は、反幕府勢力の三好三人衆勢力が五畿内地域で勢いを盛り返し、大規模に軍事行動を起こしていました。
 そして、これらの地域や組織に禁制を下した民部丞なる人物が、全て同一人物となれば、池田勝正追放後に当主として立てた人物である可能性は非常に高くなると考えています。同時に、伝承記録は正確な部分もあるという事も判明します。

この人物比定については、近日に明らかにする予定ですのでご期待下さい。この人物は、これまでに誰も特定していませんので、同一人物か否かがハッキリすれば、次の可能性に移る事ができ、摂津池田家についての研究は、更に一歩進む事と期待しています。



※ただいま記事(5・6・8分)を執筆中




2014年2月15日土曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その4:三好三人衆の勢力は、依然侮れない影響力があった事)

第十四代室町将軍義栄を支えた三好三人衆は、足利義昭が第十五代将軍になって京都に入っても、依然侮れない影響力を五畿内地域とその周辺に及ぼしていました。

三好長慶など、三好氏の京都での実績は天文年間以前から半世紀にも渡り、広く深く、様々な分野に関係を持っていました。
 義昭が将軍職を任された永禄11年(1568)秋から、摂津国池田家の内訌が起きた元亀元年(1570)6月までの約2年間について、下野した三好三人衆の動きと、その影響力について、考えてみたいと思います。
 
京都の宗教界の視点で、斎藤夏来氏による興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』をご紹介します。
 永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている高僧江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

これは非常に興味深い事です。

公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる公文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
 ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが、将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
 
そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。
 何らかの事情があったのだろうと思いますが、興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超は、その時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。
 その後、将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示していているようです。
  この出来事は、政治的なターニングポイントを示しているといえます。

一方、軍事面での三好三人衆の動きを見てみます。

永禄11年秋、足利義昭が将軍に就き、政権が始動します。しかし、この時の軍事侵攻は、京都を中心として、摂津国東部・河内国・大和国北部を主に制圧したのみで、圧倒的な安定政権とするには程遠い状態でもありました。
 近畿地域では、和泉国は殆ど手をつけていませんでしたし、山城国北部・大和国・丹波国は、敵味方が混在していました。伊勢国もそうです。更に近江国も六角氏などの抵抗があり、完全に制圧はできていませんでした。
 京都に隣接する国でも、また、京都を内包する山城国も完全に制圧できていないのですから、畿内周辺の国になると、権威は及んでいませんでした。将軍義昭政権に対抗する最有力勢力である三好三人衆は、一旦京都を落ちて後退したものの、永禄11年暮れには再び京都への返り咲きを企図して、大規模な行動を開始します。
 12月28日、三好三人衆勢が、和泉国家原城を攻め、数日でこれを落とします。この行動について、三好三人衆方の某が、和泉国人多賀左近大夫に音信しています。
※新修 泉佐野市史4(古代・中世1) P710

-史料(1)--------------------------------------------
前置き:
尚々来る13日(1月13日)御礼参るを以て申し入れるべく候。
本文:
先度は、鯛御意に懸けられ候。一段祝着の至り候。尤も御礼参るを以て申すべく候へ共、今夜堺より罷り越し、くたびれ申し候まま、其の儀無く候。昨日三人衆出られ候を見物申し候つる、人数5,000計りと申し候。させる(さ程?)儀は有間敷く候。将亦紀伊国根来寺辺の儀は、如何候や、承り度く存じ候。恐々謹言。
---------------------------------------------

この三好三人衆の行動には、堺の商人も協力していた事は有名で、様々な便宜を図っていたようです。
 また、三好三人衆方の軍事行動は広域活動で、播磨国方面でも諸勢力が活動していた事がわかります。有馬街道によってつながる、摂津国池田衆がこの方面に対応しています。この時、幕府方摂津国守護池田勝正が、永禄12年正月付けで、播磨国鶴林寺並びに境内へ宛てて禁制を下しています。なお、文体は直状形式といわれるもので、上意(将軍義昭)の下達の役割を務めている事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世2)P432

-史料(2)--------------------------------------------
一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取之事付き放火之事、一、竹木剪り採り堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
---------------------------------------------

同月2日、三好三人衆勢は、河内国出口・中振方面まで北上し、陣を置きます。各所の協力もあって、この軍勢は進軍が早く、同月5日に将軍義昭居所である、京都本圀寺を攻めます。手薄な将軍居所を多数の軍勢で襲われたため、幕府方は苦戦を強いられましたが、急遽支援に駆けつけた池田勝正など京都周辺の幕府勢により、この難を逃れました。
 これが「本圀寺・桂川合戦」といわれる戦いで、将軍義昭は危うく殺害されるところでした。この時、三好三人衆方へ、山城国八幡神宮寺も加担しており、この合戦の後で幕府方に攻められています。同じく摂津国尼崎・兵庫も同様に攻められ、京都近郊であっても、永禄12年春までは三好三人衆へ加担する勢力が非常に多かった事が判ります。

また幕府は、大山崎周辺に徳政令を発し、旧政権との経済的な関係を絶つための政策を施しています。ただ、地域の有力者が貸し付けた金品が、幕府の発した徳政令で損害を受けないように、幕府は抜け目なく保護政策を打ち出しています。大山崎の八幡神人などに対して、2月23日付けで奉書を下し、免除を行っています。
※島本町史(史料編)P443

-史料(3)--------------------------------------------
大山崎八幡神人等、方々輩口に対する入米銭・質物以下事、神物為に依り、徳政法の段に准えるべからず。先(前)御代に任せ御下知の旨に任せ、弥動(働)き之由改めるべからず、所仰せ下され候。仍て下知件の如し。
---------------------------------------------

それから、有力寺院が幕府方に属す見込みが立てば、矢銭賦課の免除も行っています。こういった行動も、三好三人衆時代の関係を整理するための行動です。
 3月2日付けで、佐久間信盛・坂井正尚・森可成・蜂屋頼隆・柴田勝家、野間長前(三好義継重臣)・竹内秀勝・結城忠正・和田惟政が、摂津国多田院彼者に宛てて音信しています。
※川西市史4(史料編)P460

-史料(4)--------------------------------------------
当院の御事、自余混じえず候て、今度の御用之相除き候。違儀有るべからず候。恐々頓首。
---------------------------------------------

更に、紀伊国高野山も三好三人衆方に加担する動きがあり、その関連史料があります。織田信長が金剛峯寺惣分沙汰中に宛てて、4月7日付けで音信しています。
※五條市史(史料)P314

-史料(5)--------------------------------------------
当山衆僧連判以って御敵一味せしめ、度々行(てだて:軍事行動)に及び、剰(あまつさ)え要害構え、大和国宇智郡押妨言語道断の次第候。早々開け渡すべく候。然ず者急度御成敗なられるべく候。
---------------------------------------------

それから物理的に、将軍居所としての施設を京都に造る対応も行います。京都は永年の混乱と政治的な不安定さで、将軍の相応しい居場所がありませんでした。本圀寺・桂川合戦に危うく勝った現実を重く見て、将軍の居城として、急遽二条城を造営する事を決します。
 いざと言う時には城が必要です。京都に将軍が居てこそ、禁裏守護という本来の任務が果たされるというわけです。織田信長は、その事にこだわり続けたようです。
 この工事は2ヶ月程で主要部分は完成し、永禄12年4月14日に将軍義昭は、その新城に入っています。
 
さて、三好三人衆の動きです。

永禄12年10月頃、三好三人衆方の調略で河内国高屋城内で騒動が起きているようですが、この年は、幕府方が優勢で、五畿内で三好三人衆方の目立った動きは見られません。播磨・淡路国などでの動きが主でした。
 11月21日、堺商人今井宗久が細川藤孝や織田方佐久間信盛に、三好三人衆方の軍勢が阿波国から淡路国へ渡ったと伝えており、その数は3,000と報告しています。

年が明けて永禄13年、前年末に動きのあった三好三人衆勢力は動きを活発にします。三人衆方の重要人物である、加地権介久勝が大阪辺に居ると、今井(納屋)宗久が、2月19日付けで、将軍義昭側近の祐阿弥陀仏へ報告しています。
※堺市史5(続編)P927

-史料(6)--------------------------------------------
御折紙畏みて拝見致し候。仍て諸牢人当津(堺)に至り、相集まり由、何れ共只今迄者事ならず候。従何方申し上げられ候哉。(三好三人衆方)加地権介委細摂津国大坂辺之在る由、大略実儀候。其の外の儀者取り沙汰無く候。猶々承り儀候者、御注進申すべく候。今朝、淡路国表の儀申し上げ候。漸く為すべく。恐惶。
---------------------------------------------

それから間もなく、奈良興福寺一乗院の坊官二條宴乗が、元亀元年6月1日付けで、堺へ牢人衆が集まっている旨を日記に書き留めています。この牢人衆とは三好三人衆の軍勢です。
 また、同じ興福寺の多聞院坊官英俊も、同月2日付けで、その旨を日記に書き留めています。
※ビブリア53号-P148(二條宴乗記)、多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

-史料(7)--------------------------------------------
『二條宴乗記』6月1日条:
進左(近衛前久諸大夫、進藤左衛門大夫長治)、大坂より帰。三人衆・足軽衆在津由。
『多聞院日記 』6月2日条:
牢人衆堺へ着き歟の由沙汰之在り。指したる儀有るべからず歟。
---------------------------------------------

6月28日の姉川合戦に先立って、近江守護の六角承禎父子の勢力が近江国野洲方面へ出陣。同月4日に、織田信長方の軍勢と合戦となりますが、六角方は破れて敗走します。この六角方は、三好三人衆と連絡を取り合っており、且つ、朝倉・浅井方とも連動していました。
※言継卿記4-P420、信長公記(新人物往来社)P105

-史料(8)--------------------------------------------
『言継卿記』6月4日条:
近江国小浜於合戦午時(午前11〜午後1時)に之有り云々。近江守護六角入道承禎(義賢)・嫡子義治以上2,000〜3,000人討死、敗軍云々。申刻(午後3時〜5時)武家へ方々自り注進之有り云々。織田信長内佐久間信盛・同柴田勝家・近江国衆進藤・同永原等勝軍云々。珍重珍重。
『信長公記』落窪合戦の事条:
6月4日、佐々木承禎父子、近江国南郡所々に一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田勝家・佐久間信盛懸け合い、野洲川にて足軽に引き付け、落窪の郷にて取合い、一戦に及び、切り崩し、討ち取りし首の注文。三雲父子、高野瀬、永原、伊賀・甲賀衆究竟の侍780討ち取り、近江国過半相静まる。
---------------------------------------------

永禄11年秋、稔りの時期を狙って、電撃的に上洛戦を展開し、足利義昭の将軍就任となったものの、その政権の課題は山積で、不安定なものでした。
 京都の周辺でさえ、有力勢力が反幕府的な動きを見せる中で、三好三人衆勢力も中央政権復帰に向けての軍事行動を盛んに行っていました。決して、織田信長が支える将軍義昭政権が、圧倒的であった訳ではありません。
 更に、将軍義昭政権発足から間もなく、その両者の不和も表沙汰となる程で、禁裏や諸権門などから見れば、この政権も何とも不安定な要素を孕んでいました。

次回は、三好三人衆に加担する、反幕府勢力を束ねる人物について、見て行きたいと思います。


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2014年1月29日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その3:幕府(織田信長)が五畿内など諸勢力に対して人質を出すよう命じた事について)

将軍義昭を中心とする幕府は、信用できるに足る実力があるのかどうか、京都周辺の大名や権門など、諸勢力が注意深く見、観察していました。
 一方で、その幕府に敵対する勢力、三好三人衆などを中心とする反幕府勢力の動きも侮れないものがありました。諸勢力は家名を保つために、どちらに加担すべきかを非常に慎重に見極めていました。

その事は織田信長もよくわかっていたはずで、その行動結果は信用されるに足る安定した政権を作るために腐心した歴史だったとも思えます。

さて、その信長の、慎重で確実な方法を選ぶ性格が裏目に出た失敗は、元亀元年5月頃の、畿内など諸勢力への「人質差し出し」命令でした。先ず、その関連史料をご紹介します。
※大日本史料10-4-P556、織田信長文書の研究-上-P409、信長公記(新人物往来社刊)P102

-史料(1)-------------------------------------
『織田信長文書の研究』織田信長が、吉田(毛利家一族)へ宛てた、7月10日付けの音信:
(前略)、一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条、(後略)。
『信長公記』越前手筒山攻め落とさるるの事条:
(前略)。4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)。
--------------------------------------

史料では、そのはっきりとした時期は判らないものの、信長が4月30日に京都へ戻ってから、翌月9日に京都を発つまでに実行されたものと思われます。
 他方、五畿内やその西側の地域では、三好三人衆方への繋がりを断ち切れず、不穏な動きも見られていました。
 例えば、同年2月の時点で堺商人今井宗久は、幕府衆(将軍義昭の側近)上野秀政・一色藤長・玄浄院・金山信貞・河内国高屋・和田惟政・朝山日乗・明智光秀・野村越中守・御局様・木下秀吉・森可成・松永久秀・畠山高政・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・蜂屋頼隆・丹羽長秀・金森長近・河尻秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞へ宛てて、三好三人衆方の動きを報告しています。
※堺市史5(続編)P927

-史料(2)-------------------------------------
急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
--------------------------------------

それから、越前国敦賀から京都へ戻り、京都周辺の動向を見ていた信長は、河内守護畠山左衛門督昭高へ音信し、5月4日付けで、敵への対応について、指示を与えています。
※寝屋川市史3(古代・中世史料)P950

-史料(3)-------------------------------------
其の表の雑説の儀、未だ休み之由候。治定の所実らず候歟。紀伊国・同根来寺馳走申しの旨然るべく候。旧(もと)から申し如く候。信長毛頭疎意無き於候。御手前の儀、堅固に仰せ付けられるべく事肝要候。恐々謹言。
--------------------------------------

そのような不安定な状況でもあり、信長は来る朝倉・浅井方との決戦を目前にして、主立った勢力から人質を取りました。それには当然、池田家も含まれていたと考えられます。

そして5月中旬、越前国朝倉義景は、近江国へ向け、20,000の軍勢を出陣させ、これに呼応して同じ頃、浪人中の近江守護六角氏は、5月12日付けで近江国長命寺へ宛てて禁制を下す等して、活動を活発化させています。
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P315

-史料(4)-------------------------------------
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、一、放火並びに竹木伐採、田畠苅り執り事、一、兵糧米・矢銭等相懸け一切非分課役事、右条々、堅く停止され了ぬ。若し違犯輩は厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
--------------------------------------

近江国での決戦の機運は高まり、反幕府方諸勢力は申し合わせた動きを見せます。信長はその最中に六角方と和睦の交渉を行いましたが、5月19日に破談となり、鈴鹿山脈の千草越えで岐阜への帰途につきました。その途上、信長は鉄砲で狙撃されましたが、危うく難を逃れました。
 一方、京都とその周辺の幕府衆も作戦通りの準備を急いでいました。そして朝倉氏は近江国へ向けて出陣しています。浅井氏領で合戦が行われるとの目算を立て、概ね双方は手筈を整えていたのでしょう。

この軍事衝突は、浅井氏への報復を目指しながらも先ず、東海道の自由をどちらが取るか。その目的しかありません。

この頃、近江国の北半分は浅井氏が優勢で、その浅井氏領内を攻めるには、東西両方から攻める必要がありました。東側は信長を中心とする、美濃・尾張・三河・伊勢国を中心とする勢力で構成されていました。
 そしてもう一方の西側は、幕府勢が高島郡に進む予定で、それは後巻きを兼ねて、朝倉・浅井方を攻める事になっていたようです。これに将軍も出陣する予定で、池田衆が再びそれに供奉する予定だったようです。その関連史料をいくつかご紹介します。
 信長が高島郡への参陣について、若狭守護武田氏一族同名彦五郎信方へ、6月6日付けで音信しています。
※福井県史(資料編2)P722

-史料(5)-------------------------------------
前置き部分:
委曲嶋田但馬守秀満に相含め候。定め申し届けるべく候。
本文:
来る28日(6月28日)江北(近江国北郡)へ至り行及ぶべく候。其れに就き高嶋郡御動座為すべくの旨候。此の時候条参陣遂げられ、御馳走肝要候。恐々謹言。
--------------------------------------

また、その近江国高島郡への出陣について、将軍義昭が、近江国人佐々木(田中)下野守へ、6月17日付けで御内書を下しています。
※大日本史料10-4-P526

-史料(6)-------------------------------------
今度其の表に至り進発せしめ候。然らば此の節軍忠抽ぜられるべく也。近年不(無)沙汰の段、是非無き次第に候。先々如く其の覚悟すべく事肝要也。奉公浅深に依り、恩賞有るべく候。委細御走衆三上兵庫頭輝房申し含め差し下し候。尚細川兵部大輔藤孝申すべく也。
--------------------------------------

更に、同日付けで同じ宛て所への奉書を幕府奉公衆細川兵部大輔藤孝が下しています。
※大日本史料10-4-P526

-史料(7)-------------------------------------
本文:
浅井御退治為、其の国へ至り御動座成られ候。以前の御奉公の筋目に軍忠抽ぜられるべく旨、御内書成られ候。御恩賞の儀は、随分馳走せしむべく候。委しくは、御走衆三上兵庫頭輝房申されるべく候。恐々謹言。
注釈:
是れ如く佐々木・京極・朽木を始め、三上兵庫頭軍勢を催し、御進発有るべくの処、近江国の軍散し■■は、其の事止む。
--------------------------------------

この準備の最中、頼りにしていた摂津守護池田家中で内訌が発生します。6月18日の事です。

これについて幕府は、直ちに反応・対応し、細川藤孝は、畿内御家人中へ宛てて音信します。この日付は、6月18日です。
※大日本史料10-4-P525

-史料(8)-------------------------------------
今18日御動座の旨、先度仰せ出されと雖も候。調略の子細有るに依り、来る20日に御進発候。其れ以前参陣肝要の由仰せ出され候。御油断有るべからず候。恐々謹言。
--------------------------------------

奉書では、20日に京都を発つから、それ以前に京都に入れと言っています。28日に決戦を行うには、これがギリギリのリミットです。

ちなみにこの動きは『言継卿記』にも記録されています。この事は、同日記だけを見ていては状況が判りませんが、その関連史料を併せ読むと状況が判明します。
 さて、18日付けで発した藤孝名の奉書は、出陣の延期を伝えており、その時点では事態の沈静化を期待していたようです。決戦の日は28日と決まっており、幕府は何とか間に合わせたいと考えていたのでしょう。

将軍の高島郡への出陣は、勝敗を決すると目される重要な役割だったためです。

しかし、翌日になっても池田家中の騒動は収まる気配は無く、しかも悪化。池田家当主の勝正が城を追われて京都へ報告に上ります。
 これを受けて幕府は、将軍出陣を更に延期する事を決め、その反勢力鎮圧のために、翌20日、摂津国方面へ軍勢を出します。言継卿記を見てみます。
※言継卿記4-P424

-史料(9)-------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。御前へ参り様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務大輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。(後略)。
--------------------------------------

この間、信長は何とか近江国北部に味方を作ろうと腐心し、要港の一つである菅浦へ禁制を下します。ここは、禁裏とも浅くない関係を持つ集落です。また、浅井氏配下でもあった地域でした。
※大日本史料10-4-P532

-史料(10)-------------------------------------
一、甲乙人乱妨狼藉の事、一、陣取り放火の事、一、竹木伐り採りの事、右違犯の輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
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そして6月26日、再び池田勝正は京都へ入り、将軍義昭に面会しました。この時、もう一人の河内守護三好左京大夫義継を伴っていました。
※言継卿記4-P425

-史料(11)-------------------------------------
(前略)。摂津国池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。(後略)。
--------------------------------------

勝正のこの時の入京の目的は不明ですが、その翌日に決定された将軍出陣の事実上の中止を勘案すると、それは詳しい状況報告を将軍に行い、全体の行動の協議を行ったものと見られます。河内守護である三好義継を伴っていたのは、同国の動きと同時に松永山城守久秀から入る大和国方面の情報も併せて聞くためだったのではないかと思われます。
 ちなみに、この頃奈良では地震が頻発しており、かなり大きな揺れもあったようです。この会議で奈良の地震についての話題も出たのかもしれません。

将軍義昭が出陣を再び延期した事について、『言継卿記』に記述がありますので、ご紹介します。言継は同じ日に同じ項目を重ねて書いてしまい、それについて「按ズルニ、此ノ項重出」と注釈を付けています。
※言継卿記4-P425

-史料(12)-------------------------------------
6月27日条:
(前略)。今日武家御動座延引云々。(按ズルニ、此ノ項重出)。(中略)。今日武家御動座延引云々。近江国北部に軍之有り云々。(後略)。
--------------------------------------

もう将軍の高嶋郡出陣は間に合いません。これについて、都の人々や関係者は、非常に危機感を持っていたと思われます。また、官軍に弓引く者が続出した事も。
 この翌日、日本史上あまりにまも有名な「姉川の合戦」が予定通りに行われました。しかし、織田・徳川勢が勝利しました。後巻きの無い戦いは非常に厳しかったと思われますが、重要な合戦で負けなかったのは、それ以上の誤算を引き起こさない為にも重要な事でした。

個人的に思うのは、浅井長政の離反よりも、池田衆の離反の方が状況としては深刻で、信長にとっては窮地の度合いは深かったと感じています。
 「越前朝倉氏攻め」から「姉川の合戦」は、切離れた要素では無く、一体の事象であり、ある意味、この重要な軍事政策に池田衆は大きく関わって、政権の存続に非常な影響力を持っていたと感じています。それについて、その一連の史料群が事実を伝えてくれている訳です。

それから、池田家のこの時の内訌は、幕府を通じての人質差し出し命令について、もめ事があったのかもしれません。また、新政権に懸命に尽くしたとて、信用もされず、将来への希望が揺らぐ中での家中の鬱積が、この人質差し出し命令で爆発したのではないかと、私は感じています。
 
次回は、元亀年間初頭までは、五畿内を中心とした周辺地域で結構三好三人衆勢力が侮れない勢力であった事について考えてみたいと思います。







2014年1月22日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その2:越前国朝倉氏攻めについて)

越前国朝倉攻めは、将軍義昭・織田信長方にとって、当初から目的化されていた事です。有無を言わせず、潰す予定だった事が、当時の史料からも判ります。

一方、将軍義昭は、幼い頃に奈良興福寺一乗院に入り、僧として生活してきた人物であり、将軍としての帝王学を学んでいないばかりか、武家としての人脈もありませんでした。「将軍」といえば、武家の棟梁ですが、義昭については血のつながり以外に全うな要素はありませんでした。
 もちろん、第十三代室町将軍であった義輝は殺害されたために、禁裏の承認を経たとは言え、正式な家督の相続手続きも出来ていません。その後の第十四代将軍義栄との正邪たる競い合いは、感覚的な感情論で、本来の手続きが取られず、また、その環境も無いままに、将軍の座を取り合ったものでした。
 
ただ、この時代には、将軍とはいえ、制度もあまり機能しておらず、その権威もその職にある個人の能力次第で、厚くなったり、薄くなったりしていました。財政も同じくです。
 ですので、永禄11年秋に将軍義昭政権が始動した時には、その基礎作りからのスタートでした。摂津国池田家は何の縁も無い、そんな状況の政権に加担しましたので、東奔西走、苦心惨憺の棘の道へ踏み入れたに等しい選択となってしまいました。

さて、永禄11年以降の幕府・将軍義昭は、制圧すべき敵(地域)を早い段階から想定していたようです。まあ、将軍とはいえ、経済も含め、特に軍事では織田信長による考えで政策の立案がなされていたようです。
 朝倉攻めについても、早くから画策されていた事を示す史料がありますので、ご紹介します。長文なので、必要部分だけを抜粋して略します。
 幕府・織田信長方朝山日乗が、毛利元就・福原貞俊・児玉元就・井上春忠・小早川隆景・口羽通良・牛遠・山越・吉川元春・桂元重・井上就重・毛利輝元・熊谷高直・天野隆重へ宛てて、永禄12年8月19日付けで音信したものです。
※兵庫県史(史料編・中世3)P640

-史料(1)-----------------------------------------------
(前略)
一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の衆100,000計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。10日の内に一国平均たる由候間、直ちに伊賀・大和国打ち通し、九月十日比、直ぐに在京為すべく候。左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。なお、追々申し入れるべく候。また、切々御用仰せ上げられるべく候。御心に任せ馳走候。
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音信では、このように述べています。織田信長は早くから、京都を防衛し、且つ、政権の維持から発展をさせるために必要な策を立てていたようです。
 そしてそれらに優先順位を設けて、ひとつひとつ目標を達成しました。それが後世にも伝わる歴史として残っている訳です。永禄12年から元亀元年夏までの幕府軍(信長軍も含む)の動きは、以下のような計画があって、それに基づいていました。
※以下の要素は順不同です。
 
 (1)伊勢・志摩国制圧
 (2)伊賀国制圧
 (3)阿波国三好氏攻め
 (4)但馬・伯耆国山名氏攻め
 (5)播磨国攻め
 (6)河内・和泉国の制圧
 (7)近江国の制圧
 (8)越前国朝倉氏攻め
 (9)若狭国動乱正常化への介入
 (10)公家・権門への知行返還
 (11)特に首都経済に関わる要港・街道の掌握

ちなみに、上記の(1)(2)はさておき、永禄12年時点では、どうも阿波・讃岐国の三好氏攻めを優先して想定していたようです。敵対勢力の中で、特に大きな影響力を持ち、畿内地域での統治実績を持っていた事からも、早期に制圧する必要があると考えていたのでしょう。
 播磨国攻めは、そのための布石を兼ねていたと考えられます。もちろん、毛利氏への支援も兼ねていて、複合的な要素を意識した行動でした。

三好攻めの計画に関する史料をご覧下さい。永禄12年9月4日付けで、堺商人今井宗久が、淡路国人安宅信康衆同名石見守・菅平右衛門尉・庄久右衛門尉・梶原越前守景久宿所へ宛てて音信しています。今井宗久が阿波・讃岐方面へ攻めるための足がかりを作っていたようで、淡路国人安宅神太郎信康との調整を行っていました。
※堺市史(続編)P910

-史料(2)-----------------------------------------------
先便書状以て申し候。定めて参着為すべく候。差儀無くと雖も候。好便啓せしめ乍ら候。仍って御当家へ御忠節の段、今度美濃国於織田信長御感じ候。並びに御名誉是非無き題目候。殊更其の表の儀御調略比類無く、京都御沙汰迄候。随って当津南庄御存知、殊に珍重以て存じ候。我等儀も御存知如く、堺五ヶ庄御下知並びに御朱印を以て、拝領為され候。諸事猶以て御意覚悟を得るべく候。先度河尻与兵衛尉秀隆・坂井右近尉政尚懇ろに申し越され候間、先々宮半入(人物か?)へ当庄、将又吉日以て、相引き渡し申し候。政所の儀早々仰せ付けられ、支配等御収納之在るべく候。相応の儀於者、疎略存ぜずべからず通り、安宅神太朗信康殿へ御執り合い畏むべく候。恐々。
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しかし、永禄12年中頃に、信じがたい噂が出始めます。信長にとっては義理の弟である、浅井長政が幕府方勢力から離反するとの噂が出、大和国奈良にまで伝わっています。興福寺多聞院坊官の英俊の耳にまで達しており、その日記に記されています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P135

-史料(3)-----------------------------------------------
6月23日条:
近日江北(近江国北部)裏帰り、物騒の由沙汰在り之由とりとり沙汰云。
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更に同日記では9月に入って、伊賀・甲賀衆が近江国於蜂起するとの噂が流れている旨書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P146

-史料(4)-----------------------------------------------
9月7日条:
一、(前略)。昨日6日松永右衛門佐並びに竹内下総守同道、見舞い為伊勢国へ越すべくの由の処、合戦悪しくて、人数数多損じ、甲賀衆・伊賀惣国催して近江国一揆蜂起歟の由沙汰の間、10日迄延べ引き云々。
(後略)
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浅井氏の支配地域は、東海道・北国街道を含む近江国の北半分に及び、ここを脅かされると三河・尾張・美濃国と首都京都との交通が滞り、政権にとって様々な点で深刻な事態に陥ります。そのため、信長は浅井氏の離反が噂通りかどうか、急遽、確かめる必要に迫られて、その方策を考えます。
 これにより、公家や権門の領地も多い、近江国・若狭国への対応を行う事を決めたようです。上記の計画の内、(7)〜(11)までを一気に解決する策を考えたようです。その複数の要素が、越前朝倉氏攻めに集約されているという訳です。
 
信長は、朝倉攻めを決し、慎重に策を講じます。浅井氏が離反するという噂が立つくらいですから、誰が敵で、味方かを戦いの前に見極めておく事が必要になる訳です。そのために、以下のような指示を出します。従うかどうかという動きの監察と、戦争のための口実作りです。注目すべきは、諸大名の召集に越前国守護で、しかも義昭の将軍職継承支持者であったはずの朝倉義景の名はありません。
 以下は触れ状の案文と宛先です。1月20日付けで、信長が発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア(二條宴乗記)53-P134

-史料(5)-----------------------------------------------
信長上洛に就き京衆中立ち有るべく事
北畠大納言(具教)殿並びに北伊勢諸侍中・徳川三河守(家康)殿並びに三河・遠江諸侍衆・姉小路中納言(嗣頼)殿並びに飛騨国衆・山名殿父子並びに分国衆・畠山(昭高)殿並びに■在■国衆・遊佐河内守(信教)・三好左京大夫(義継)殿・松永山城守(久秀)並びに大和諸侍衆・同右衛門佐(久通)・松浦総五郎・同和泉国衆・別所小三郎(長治)・同播磨国衆・同孫左衛門尉並びに同名衆・丹波国衆・一色左京大夫(義有・満信)殿・同丹後国衆・武田孫犬丸元明・同若狭国衆・京極(高吉)殿並びに浅井備前長政・同尼子・同佐々木(高島郡七党)・同木村源五父子・同江州南諸侍衆・紀伊国衆・越中神保名代・能州名代・甲州名代・濃州名代・因州武田名代・備前衆名代・池田(勝正)・伊丹(忠親)・塩川・有右馬(有馬則頼?)。
同触状案文
禁中御修理武家御用其の外天下弥■■為、来る中旬参洛すべく候条、各御上洛、御礼申し上げられ、馳走肝要、御延べ引き有るべからず候。恐々謹言。
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そして同時に諸大名の動きを見るのと並行して、信長は禁裏も動かします。押領されている知行の返還を目的化するなどして、反幕府・禁裏への勢力を討伐する名目を、公的な行動の目的として打ち出します。また、幕府の権威を喧伝するために、改元申請を行って、朝倉氏攻めの途中で「元亀」の改元を実現しました。
 
それからまた、義昭の朝倉義景に対する私怨もあったように思われます。というのは、永禄8年に将軍義輝の暗殺以降に義昭が、奈良の一乗院を脱出した後の事です。
 事件直後は将軍義輝への同情から、義昭への関心を諸大名は示しますが、実際に義昭が援助を依頼すると、どの大名も積極的な行動は取りませんでした。ご存じのように、最終的には織田信長がその依頼を引き受けて、義昭の悲願は達成されますが、その間に朝倉氏に関わる時間が非常に長かった訳です。
 時間がかかったのは、朝倉氏が義昭の実力を疑い、試そうとしたためです。義昭が朝倉氏を頼って領内に入ると、敦賀で足止めをし、一乗谷へ進んで来ると、城外の寺に留め置き、そこで義昭に一働きさせる要求をしています。
 朝倉氏がその時に手を焼いていた加賀・越前国との和睦調停です。義昭は入洛の支えになってもらおうと、懸命に努力した結果、それを見事に実現しますが、それでも朝倉氏は義昭の希望を聞き入れませんでした。
 義昭が、朝倉氏の元を去ったのは、怒って国を出たのだと思います。義景は義昭が国を出ると伝えた時には慰留しています。義景は結局、義昭を利用するだけに使ったのです。
 幕府の有無を言わせない朝倉氏攻めは、そういった態度が、感情的な要素も育てたのだろうと思います。朝倉氏にはその時の態度が、災いの元となりました。
 
永禄13年4月20日、朝倉討伐軍として30,000の軍勢が京都を発ちましたが、これには公家飛鳥井氏・日野氏などの姿もありました。幕府軍と同時に「官軍」でもあった訳です。しかも飛鳥井氏は、若狭国武田氏とは伝統的に親密な間柄で有り、人選も考え抜かれていました。
 また、日野氏は、本願寺宗主の家系と同門の家柄であり、近江国から北陸にかけて広く根付いた本願寺宗に対する役目を持っていたのではないかとも考えられます。

このように信長は、慎重には慎重を期し、また、二重三重に策を講じ、そして大軍を動員して朝倉氏攻めを行ったのです。ですので、定説となっている、「浅井長政の裏切りが発覚し、信長は数騎のみで朽木谷を経て、命からがら京都へ逃げ帰った」エピソードは事実では無く、噂通りに浅井氏の動向が確認できた時点で、安全に京都へ戻る事など、いくつもの手を打ってあったというのが実際のところです。
 ちなみに、朽木氏は幕府方の奉行人で、近江国北西部では有力な勢力の一つでした。その北側、若狭街道で通じた若狭国熊川は、幕府奉行人沼田氏の根拠地です。退却は、それらの地域を通って京都へ戻っていますので、追う朝倉氏側も簡単に手出しはできない状況もあった事でしょう。

さて、「金ケ崎の退き口」に象徴されるように、朝倉・浅井氏は幕府・官軍に弓を引いたことになりますので、信長は公戦として堂々とあらゆる手を使えるようになった訳です。その点では逆に、信長にとって好都合ともなったのです。
 実際のところ信長は、浅井氏の離反も想定しており、京都・美濃などに予備の兵も置き、次の手が繰り出せるように準備もしていました。
 
ただ、一方で、信長にとっては自分の義理の弟までもが離反したとなると、他にも離反者を出す可能性があるという緊張感は高まりました。信長は、次に必要な策を立てつつ、朝倉・浅井方に決戦を挑むべく、そちらの準備も急遽進めました。これがいわゆる「姉川の合戦」です。
 信長は、浅井氏離反が発覚すると、公家衆を守りながら4月末に京都へ戻り、そこで情報収集を行うと同時に、第二次攻撃のための指示を出していました。間もなく一定のメドが立った事から、信長は5月9日に京都を発って、岐阜へ向かいます。
 
最後に、摂津池田衆について少し触れておきたいと思います。池田衆は、永禄11年秋以降、特に但馬・伯耆国山名氏攻め、播磨国龍野赤松氏支援(毛利氏の要請も兼ねる)、越前国朝倉氏攻めの戦に、幕府勢力として多数の兵を出しています。その他にも、小さな要望にもその都度応えています。また、公家・権門・幕府などへの知行返還も余儀なくされています。
 朝倉氏攻めでは3,000もの兵を出し、これは幕府軍の中核的な勢力を成す規模です。また、「金ケ崎の退き口」では、明智光秀と共に幕府方の殿軍も努めました。史料は、元亀元年5月4日付けで、幕府奉行衆一色式部少輔藤長が、丹波国人波多野右衛門大夫信秀床下へ宛てて音信したものです。
※大日本史料10-4P358+401

-史料(6)-----------------------------------------------
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉・明智十兵衛尉光秀・池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。
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あまり語られる事はありませんが、事実は多数の史料が証明してくれています。

次回は、この過酷な池田衆の環境に追い打ちをかける、人質を差し出す命令が信長から下った事について考えてみたいと思います。






2013年11月23日土曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その1:内訌当日を分析する)

1570年(元亀元)6月の摂津国池田家中の騒動は、荒木村重にとっても、時の幕府にとっても大きな転機となった出来事でした。
 未だに謎の多い、荒木村重ですが、織田信長政権を支えた武将の一人として活躍し、それについては色々と知られつつあるようです。
 そんな村重について、情報を更に掘り下げようとすると、信長時代の数年間の事しかわからず、それ以前の池田家中での行動となると、ほとんど知られていません。ウィキペディアなど、村重について取り上げた記事を読んでみると、内容はほとんど同じで、村重の出世のエピソードとして、この池田家内訌から取り上げられている場合が多いようです。しかし、それらの内容も大体は正確ではありません。

池田城跡公園の大手門
実は織田信長、時の幕府の研究をする上でも、元亀元年のこの池田家の内訌については、非常に重要な要素を孕んでいるのですが、詳しく研究されたものは見た事がありません。
 そんな状況であり、自分で調べなければ何もわからないので、10年以上かかって池田勝正の事を調べる内に、この池田家内訌の事も色々と解ってきました。
 それからまた、来年の大河ドラマで荒木村重も取り上げられるようですので、そのお役に立てばと思い、村重も関わった池田家内訌について、いつものように、いくつかに分けて、ご紹介したいと思います。

さて、本題です。

元亀元年6月の池田家内訌は、18日から19日にかけて起きたようですが、当然ながら、その争いに至るまでには色々な要因が積み重なっています。様々な鬱積が重なり合って、内訌のカタチで爆発している訳です。
 それらの要素を含め、順に説明していきたいと思います。先ずは、その当時に記録された、池田家内訌についての史料をご紹介します。最初に、京都に居た公卿山科言継の記録を見てみましょう。池田家内訌については、19日〜26日までの条で見られます。
※言継卿記4-P424

-史料(1)---------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。武家へ参り、摂津国池田二十一人衆、四人衆の内同名豊後守(正泰)・同名周防守正詮両人昨日生害云々。惣領筑後守勝正刀根山へ落ち行き、次に大坂へ落ち行き、小姓両人、小者両人計り、観世三郎元久供云々。御前(将軍義昭)に参り、様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務太輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。
6月26日条:
(前略)。池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。池田の城へ三好日向守・石成主税助等之入り由風聞。
----------------------------------------

山科言継は、京都在住の公卿である事から、いち早く情報を掴み、関心を以て記録しています。また、彼は個人的にも池田家中の重要人物である池田紀伊守正秀とも面識があり、池田家の事はよく知っていたようです。池田氏は、幕府を支える摂津守護職を任される家であり、その意味でも重要な立場にあった事から、関心の高さは自然な事です。

それから、奈良興福寺多聞院の坊官である英俊が、この池田家内訌について、日記に残しています。この多聞院英俊は、永禄9年から同11年にかけて、三好三人衆と松永久秀が闘争を続けた際、奈良とその周辺に池田衆が度々出陣しており、摂津池田家については、その事を通して知るようになっていたようです。そのため、関心があったのか、日記にも池田家内訌についての情報を書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P194

-史料(2)---------------------------------------
6月22日条:
(前略)。去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
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更に『細川両家記』という、いわゆる軍記物にも、池田家内訌についての記述があります。ちなみに同書は、取扱いに注意を要する軍記物の中では、特別扱いされる資料で、内容が割と正確である事から一級資料と目されています。その資料の池田家内訌部分を見てみましょう。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-史料(3)---------------------------------------
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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最後に、伝承資料をご紹介します。『荒木略記』という系図中の代表的人物に説明を付けてある、家系図と伝記が一つになったような資料があります。その村重の項目には、元亀元年6月の池田家内訌の事が記述されています。ちなみに、村重以外にも色々と記述があるのですが、それらは誇張してある事に加えて、事実誤認が沢山あります。何百年も後になって書かれているものはこういった内容のものも多くあります。これは資料としては取扱いに注意が必要です。参考までにご紹介します。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P1

-史料(4)---------------------------------------
荒木村重条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させその子息直正と申し候を取り立て大将に仕るべくとて勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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これらの資料を考え併せると、以下のような状況が浮かんできます。先ずは箇条書きで要素を抜き出してみます。

  • 池田家内訌は1日間では無く、18日から19日にかけて起きた。
  • いわゆる池田四人衆という、池田家政機関の重臣4名の内、当主勝正親派の池田豊後守(正泰)・同名周防守正詮が、三好三人衆方に同調した池田家中の人々によって殺害された。
  • 当主勝正は、19日に一旦京都へ入り、状況を説明した後で、京都を離れ、再び三好義継を伴って入京している。
  • 三好三人衆方の動きが内訌の理由として、同時に噂されている。
  • 将軍義昭は近江国へ出陣する予定だった。

次に、それらの要素を踏まえ、詳しく状況を分析してみたいと思います。

池田城跡公園の櫓風展望休憩舎
内訌は、18日〜19日にかけて家中で内訌が起き、19日、その過程で重臣2名が殺害され、当主池田勝正は池田城を出ます。勝正は、小姓2名、小者2名程、観世三郎元久を連れて、一旦刀根山へ落ち、その後大坂へ向かったようです。勝正はその足で京都へ向かい、将軍義昭と面会し、状況説明を行っているようです。
 勝正のこの時の足取りですが、文面通り受け取って、大坂に一旦入ったと考えるには少々矛盾が起きるように思えます。この頃、大坂の本願寺方は既に三好三人衆方でもありましたし、その城内には三好三人衆方であった公卿近衛前久が身を寄せていましたので、そんなところをウロウロしていては、直ぐに通報もされますし、物騒です。
 勝正は池田城を出て、直ぐに将軍義昭へその状況を伝えています。速やかに報告しようとするのは、当然の事です。
 ですので、勝正は大坂に入らず、能勢街道を使い、刀根山から小曽根方面などへ出、吹田を経由して京都へ向かったと考えられます。その間にある原田城に一旦寄ったかどうかは、今のところ判りませんが、大坂まで南下すると時間が余計にかかります。
 
それから、勝正本人が将軍へ報告を直接行ったかどうか、厳密に見ると『言継卿記』から読み取れないところもありますが、この前後の環境や一次情報を重視する当時の環境からして、将軍義昭の近江国(高島郡)への動座を控えた重要な時期でもあり、摂津守護職たる勝正がその報告を直接行う必要性があったと考えられます。文中の「御前」に出たのは、供の小姓や観世三郎ではなく、勝正自身を指すと思われます。
 報告を受けた将軍義昭は、その事態の深刻さから、すぐ様、近江国出陣の延期を関係者に通知しています。ちなみに、池田家の内訌が伝わった18日にも将軍義昭は近江国出陣の延期を関係者に通知しており、この出陣でも池田家は幕府方の中心的な役割を果たす重要な位置付けであった事が窺えます。
 
次回は、池田家内訌に至った原因を考えてみたいと思います。






2013年11月21日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(はじめに)

元亀元年(1570)6月、荒木村重も加わった池田家内訌は、突然起きたように見えますが、そこに至るまでには原因があります。その出来事の前後を見れば、それはよくわかります。どんな事もそうですよね。

個人的に池田家の内訌については、朝倉・浅井攻めの最中に起きており、将軍義昭・織田信長政権の最初の大きな躓きだった、いわば失策が招いた事件であったと考えています。
 言い方を換えれば、三好三人衆が調略を成功させる隙を作ってしまう程、織田信長は五畿内社会の様相を変えてしまったのでは無いかと思います。

元亀元年4月の越前朝倉氏討伐を第一次とするならば、浅井氏の態度を見た幕府軍が態勢を立て直し、再び攻めようとした姉川の合戦を代表する軍事行動は、第二次朝倉・浅井討伐と位置づけられると思います。
 
その説明を、以下の要素からそれぞれ進めていきたいと思います。お楽しみに。

(1)6月18日に起きた池田家内訌当日を分析する
(2)元亀元年の越前国朝倉氏攻めについて
(3)5月、幕府は、五畿内の主立った家に対して人質を出すよう命令した
   ※高島郡への動座
(4)三好三人衆勢力は、依然侮れない影響力があった
(5)反幕府勢を束ねる人物 ←只今執筆中
(6)荒木村重の池田家中での地位(家中権力の多極化) ←只今執筆中
(7)池田勝正追放後に別の当主を立てたか
(7.1)池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」
(8)三好為三政勝の動き ←只今執筆中
(9)その他の要素(元亀元年6月の池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか