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2022年6月5日日曜日

摂津池田家の政治体制の考察

応仁・文明頃の勢力図

池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近くなり、重臣的な扱いを受けるようになります。
 また一方で、信正は幕府(将軍義晴)に「毛氈・鞍覆」使用の許可を申請し、間もなくこれを認められると、幕府とも直接的な関係を結びました。池田家は、御家人のような関係と、晴元の重臣としての立場を持ち、それらの関係性を一種の自衛策としても機能させていたらしい事が窺えます。これは管領・将軍職共に、政治的変転多く、安定しなかったからでもあります。
 こういった池田家当主の社会的地位の上昇で、支配領域の拡大と共に、経済的にも富む事となりました。それに相対して、政治的な必要用件も増大するのは当然で、京都に屋敷を持ったり、池田以外の場所にも屋敷を置く必要もあったようです。
 それに伴って、家中の政治が、当主だけでは対応できない状況ともなって、いわゆる近世時代の家老のような「池田四人衆」制度が創出されたと考えられます。
 池田四人衆は、当時の史料でもその呼称が確認できる事から、外部組織からも認識されていた事が解ります。池田家の国内有力者としての急成長は、社会的地位の上昇による、家政機関の創出と役割分担組織を作ったことが、成長の源となったと考えられます。


天文17年(1548)5月、しかしその信正が、晴元から突然に切腹を命じられます。これが余りにも急であったため、池田家中は混乱し、次の当主選定を巡って対立が起きました。
 この時に、当主を支える補助機構であったはずの四人衆が、独自の当主候補を立てた形跡があり、当主とは別の権力機関としての側面も見せるようになります。
 しかし、この時の対立には理由があり、信正の舅であった三好政長が、信正亡き後の池田家に介入し、財産を我が物のようにしようとしたため、これに反発する動きが池田家中に起こったためです。
 四人衆側は、「孫八郎」なる人物を立て、それに対する当主と目される人物は長正(太松は多分、長正の子)でした。この両頭は数年間、対立、または併存していた可能性があります。
 
弘治3年(1557)5月、孫八郎は何らかの理由で死亡します。これを機に、池田家中は対立を止め、長正を当主として一本化したようです。最終的に長正は「筑後守」を名乗り、正統な池田家当主として内外に公言しています。
 この四人衆と長正の対立の過程で、長正は四人衆と同目的で独自に人材登用を行ったと見られ、この時に荒木氏が池田家に深く関わるようになります。四人衆と長正が和解した後も荒木氏は、長正の重臣としての地位を失う事無く、いわば四人衆と並列するカタチで四人衆制度が拡大さました。
 その後しばらくは家中の政治が安定し、信正時代には見られなかった、広範囲に禁制を下す行動や文書が見られ、池田家の活動範囲が大きく拡がっています。近畿地域で拡大する三好政権の下で、安定的な地域権力の確保に成功したと言えるでしょう。

山田彦太夫宛の池田筑後守長正書状

長正の死後、勝正の時代となりますが、この重臣集団は整理される事無く受け継がれ、その代替わりの時に、村重もその集団の中に組み込まれていったようです。
 また、いわゆる「池田二十一人衆」という多数の重臣集団も存在したと思われますが、その後直ぐに、意思決定の早さを重視した少人数制へと変化しているようです。
 この時、それまでの四人衆体制に戻らずに三人制、いわば「池田三人衆」という新しい体制を打ち出したと考えられ、それを示す史料も実在しています。
 多分これは、旧誼であり、永らく上位権威として、また一族として行動を共にしていた三好三人衆を手本として創出されたと考えられますが、間もなく、それがうまく機能しなくなり、家中対立が再び起きてしまいます。やはり池田家の社会的な位置づけからも、集団の代表は必要だったのです。
 そしてそれは、織田信長と将軍義昭の対立の時期であり、元亀3年(1572)冬頃には、池田一族が幕府方へ加担し、一方の村重は信長方へ加担する事となりました。
 この時、池田一族は、代表者を立てる必要性に迫られ、池田民部丞擁立を将軍義昭に通知し、受入られています。これが知正にあたるのかどうか、今のところは不明。


それからまた、元亀元年(1570)の勝正追放後に「民部丞」なる人物が、山城国大山崎惣中、摂津国多田院、同国箕面寺へ宛てて禁制を下しています。これらは何れも池田氏と浅からぬ関係を持っている場所です。この後に民部丞の禁制や文書は見られませんが、それが元亀3年の池田一族の文書に現れる「民部丞」と同一人物かどうか、完全に一致させる史料は今のところ見つかっていません。
 しかし、それは同一人物である可能性は極めて高いように思われます。特に箕面寺に宛てた禁制は、勝正が下した内容と同様である事から、その権力を継ぐ法則を実行できる人物である事は確実です。
 
元亀4年(1573)7月の室町幕府機能停止をもって、新たな時代を迎える事となり、元号は天正となります。しかし、その後も翌2年頃まで組織のカタチを維持できたかは不明ですが、池田衆は存続を維持していたと見られ、史料にも池田一族の行動が見られます。
 しかし、伊丹城の落城をもって京都周辺地域の拠点が消滅すると、史料上では池田衆の活動は見られなくなっています。翌3年には、完全に新たな時代を迎える事になったと思われます。

2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


2016年7月8日金曜日

摂津池田家が滅びた理由

池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。
 詳しい分析は、また後日に「摂津池田家の支配体制」などの研究を通じてご紹介したいと思いますが、ここではその前哨としての記事にしておきたいと思います。

摂津国内において、最も大きな勢力として成長した池田家が、実質的に当主勝正を最後に、伝統的独自文化を保持した組織としては、終焉を迎えます。
 室町将軍第十四代義栄や同十五代義昭政権の樹立と運営に大きく貢献し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの報告書にも「(池田)家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内において、もっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた。」などとも、紹介される程でした。
 
それ程までの組織が、なぜ崩れ、滅びたか。少し時間を巻き戻して、簡単に経過を見てみます。

勝正の先々代の当主は信正で、この人物が他の国人衆に先がけて、今でいう官僚制、江戸時代でいう家老制を採り入れます。これは、信正が将軍の宰相であった管領の細川晴元重臣として、京都に居ることが多かったための措置だったようですが、この制度が池田家の活動のスピードを早め、その範囲を拡げる事に寄与して、急速に成長していきます。
 その証左として、池田家は代を重ねる毎に成長し、勝正の代には、前記の如く、五畿内の誰もが認める大勢力に成長していました。フロイスの記述に現れる池田家が、勝正の代の様子です。

しかし、これが活力でありながら、池田家にとっての最大の課題であった訳です。

つまり、活動するために関わる人数が増えるのですが、組織の柱となる人々(一族)と、外来の勢力との差を池田家主導部が、上手く制御できなかった事に、組織崩壊の最大の理由があったと見られます。家の存在意義の核を見失ったと言えるのかもしれません。
 近年まで日本の伝統的習慣であった、一族結合(家制度)ですが、室町時代にも当然この感覚を中心に組織が作られています。
 しかし、組織が大きくなれば一族だけでは人数が足りず、有能な人材登用を継続していく事になりますが、この過程での人間関係と組織体制作りに失敗した事が、池田家の滅んだ原因だと思われます。加えて、家老組織(四人衆と呼んでいた)が、別の権力体となり、代替わりの度に当主との関係が難しくなります。
 こういった背景もあり、内輪もめの回数も増え、またその間隔も狭くなり、元亀元年(1570)6月に大きな内訌を発生させ、当主勝正は、池田家を追われる事となりました。これが池田家崩壊の始まりとなりました。その3年後、更に四人衆と荒木村重が内訌を起こし、組織が二分され、元亀4年夏、将軍義昭政権と共に池田家も機能停止し、実質的な組織の解体となりました。その後は主従が逆転します。ご存知の通り、荒木村重が摂津国を制圧して、守護格の扱いを受けるに至ります。
※個人的にはこの時村重は、摂津国の他、河内国中北部も領地を任されたと考えています。詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。
 
これらは何も池田家の事、室町時代の事として終わる話しでは無いと思います。今でも同じですよね。会社や地域自治、国のあり方など、全く同じ事が今でも起きています。
 義務と権利をうまく使い分け、運命共同体の向かう方向をしっかりと指し示し、主導的人物と支援組織を有機的に組み上げられるかどうかが理想だと思いますが、これが一番難しいですよね。
 
そういう意味では、江戸時代というのは、凄い社会だったのでは無いかと思います。善悪を法によって規定し、これに社会が収まって、内乱を起こさずに何百年も社会として機能していたのですから。


2013年6月24日月曜日

池田四人衆から三人衆へ

<概要>
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
 そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。

その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
 この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
 池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
 朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
 そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
 出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。

その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。

家政機関の変遷
<(a)後任当主擁立時代>
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。

<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
 それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
 ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。

<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
 3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
 もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
 伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
 池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。

<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
 「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
 ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
 ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
 池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
 一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。

元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
 これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。

同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。

<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
 しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。




2013年6月16日日曜日

池田四人衆について

<概要>
池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。
 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。
 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編されます。その後もその機構を受け継いだ状態で三人衆体制と集約されますが、その時には時代の要請に応えられない状態となってしまい、機能不全に陥ります。
 そうなると、家政運営もうまくいかなくなり、結局は血(血統や家系)の争いとなって自滅してしまう事となりました。ですので、四人衆制度の誕生から終焉までを見た時、勝正追放事件を以て、四人衆制度は一旦閉じたカタチとなります。

各時代の体制
<(1)信正時代>
当主信正が、池田家を発展させる過程で当主を補佐する目的で、一族の中から池田勘右衛門尉正村・同苗十郎次郎正朝・同苗山城守基好・同苗紀伊守正秀の4名がその任にあたったと考えられます。
 多分、信正は京都に居た管領の側に仕えるために常駐する必要が出たためで、国元での池田に当主と同等の家政執行機関が必要になって編成されたのでしょう。
 その後、信正が不本意に管領細川晴元に切腹させられると、次の後継問題で家中が分裂してしまいます。
 
<(2)対立時代>
この時、四人衆が擁立する当主候補である孫八郎と、別の当主候補である長正が対立します。その過程で、それぞれが別々の運営体制を持つ事となり、それが暫く続きます。その時間が、立場の固定化を招きました。
 それから、この長正の代で荒木氏の登用があったようで、長正の重臣として書状などの公文書も発行しています。この荒木氏の何れかの家系が、荒木村重につながると見られます。
 
<(3)長正時代>
しかしながら、四人衆が当主として推す孫八郎は、弘治3年に病気など、何らかの理由で死亡します。近世への幕開け的な時代でもあり、家中が分裂している場合でもなかった事から、それらを悟ったのか、四人衆と長正は和解したようです。
 これにより、当主は正式に長正となり、家政機関も再編されます。しかし、この時、長正の成長に功労のあった荒木氏を中枢機関から外す事はできなかったらしく、一族の外からの登用となって、四人衆と荒木氏が同じような立場での体制となったようです。
 これは近世に近づくにつれて、政治の要望が、「大量に」「迅速に」、移動や管理が求められるようになり、人員が不足していた事にもよるのかもしれません。
 何れにしても、池田家中の大きな問題が克服されるにあたっては、その取り巻く環境に対応させて解決を図ったのでしょう。この再編の過程で、人材の登用も積極化したのかもしれません。
 そんな矢先、当主の長正が死亡します。永禄6年2月頃のようです。
 
<(4)勝正時代>
この時は、後継者が予め決まっていたようで、スムーズに代替りが行われています。
 しかしながら、若干の波乱はあり、四人衆の内2名(池田勘右衛門尉正村・同苗山城守基好)が勝正により粛正され、新たに勝正親派の人材が2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)加わります。
 この2名を加える事で、その他の荒木氏とのバランスを変える意図があったのかもしれません。意思決定機関の多数派工作の可能性もあります。何れにしてもこの事で結果的に、荒木氏の池田家中での立場は更に強くなったといえます。
 勝正は、結束するための摂理の整理、つまり、人員の整備をする事無く、長正からの制度をそのまま引き継いでしまったために、議論の収拾ができなくなったのかもしれません。これは時代のセイかもしれませんが、勝正の当主時代に一度、大きな内訌が起きています。
 しかしながら、勝正の代では歴代の中で最大の版図を築くまでに成長します。河内・大和国など、近隣でも知られた存在になっています。
 そんな事もあり、問題の種は見えなくなり、うやむやになってしまいます。

そして間もなく、織田信長の入京という日本史の中でも画期の時代を迎え、その対応を迫られました。やはりそれは非常な難題で、結局は家中での議論が紛糾し、闘争となってしまいました。
 元亀元年6月、越前国朝倉氏討伐から戻ったところで、池田家中の内訌が起きてしまいました。この時、池田家は摂津守護職を任されていた事もあり、守護所での騒動発生は、室町幕府内でも動揺が広がったようです。
 問題の種は時間が成長させ、芽を出し、花を咲かせたのです。

京都奪還を目論む三好三人衆が勢いを増し、旧誼を通じて池田家の調略を行いました。大坂の本願寺には、同じ日野家の縁を通じて三好三人衆に加担する近衛前久が起居もしていました。近衛氏は藤原氏の筆頭で、同じ藤原家系の池田家はこれらの縁故に何らかの活路を見出したのかもしれません。

これらの詳しくは、また別の機会を設けたいと思いますが、この勝正の追放を以て、池田家の歴史は終焉に等しい状態に陥ります。良かれと思ってした事が、結局は混乱を招き、その後の池田家中は更に短い間隔で内訌を繰り返すようになります。

長くなりましたので、続きはまた後で。少々お待ち下さい。次は、元亀元年6月の内訌後から、池田家滅亡までのをご案内します。




2013年6月15日土曜日

荒木村重など、池田一族が署名した『中之坊文書』について

有馬城跡から有馬の町を見る
摂津国有馬郡湯山年寄中に宛てた、荒木村重など池田家中の諸侍が署名した『中之坊文書*』は、非常に重要な史料です。
 しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神戸市のとある個人さんの所蔵史料で、私も一度実物を拝見したいと思いつつ、未だ実現には至っていません。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180などにあります。
 
同史料は京都を含む、当時の首都の歴史、地域史にとっては非常に重要な史料です。特に、私の研究している池田勝正にとっては、言うまでもなく重要です。
 冷静に考えると、京都の政治にとっても重要なのですから、日本の歴史にとっても重要なはずですが、どうもそのあたりが、うまく連動していないようです。時代的には、京都で政権地盤を築く織田信長の黎明期の範囲に入ります。

現在の有馬城跡
ところで、湯山とは、今の神戸市北区有馬温泉町です。
 
さて、この『中之坊文書』については、若干の推定と通説、間違いが存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、それらをご紹介しておきたいと思います。

  1. この史料は兵庫県史などにより、元亀元年のものと管見の消極的な推定がされています。
  2. 元亀元年6月の池田家内訌時に、当主の勝正が追放された後に発行された、池田二十一人衆によるもの、との通説があります。
  3. 史料によっては翻刻に誤字があります。また、史料中の「卜」の文字が読めず、欠字扱いになっています。

(1)の推定は(2)の通説を含め、双方は発想の連動があるようですが、どちらも当時の史料を見比べると、完全に推定が一致するとは言い難いように思います。

というのは、以下の理由があります。
    (a)池田二十一人衆とは、当時の史料に出て来ない。出てくるのは伝聞史料で、二十一人衆として『言継卿記』に、三十六人衆として『多聞院日記』に、どちらも一度だけ確認できる。よって、家政機関として近隣に周知されておらず、機能もしていなかったと思われる。
    (b)署名人数は20人しかおらず、小河出羽守家綱は、池田家中とは別の人物の可能性がある。
    (c)荒木村重が「池田」姓を用い、信濃守の官途を名乗る理由を考える必要がある。
    (d)元亀元年の池田家内訌の直後には、勝正の後継者が立てられていたとの伝承があり、その確認が出来ていない。史料上ではそれらしき「民部丞」なる人物が確認できる。

      ところで、『中之坊文書』の内容をご紹介しておきます。
      --------------------------------
      本文:
      湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
      署名部分:
      小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、菅野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
      --------------------------------
      となっています。

      本文は、非常に短いですが、それについて20人もの人々が署名しています。また、湯山の集落政治のまとめ役の人々が、随分と馳走を申し出た事について、少しも疎かには扱わない。恐れ入り謹しんでお伝えします。と池田の人々は伝えています。

      こういった状況から、この時の池田家中は、突出した当主が居らず、合議的体制で一時的に運営されていたとも考えられます。当主の書状に添えて発行される副状にしては、人の数が多過ぎます。

      白井河原古戦場付近
      それを踏まえ、前記の(a)〜(d)を満たす時期を考えてみると、元亀2年ではないかと、個人的には考えています。ということは、そうです、白井河原合戦の直前になります。この史料は、同合戦に連なる動きから出た行動だったのではないでしょうか。場所としても「湯山」は、主要街道を通す要所で、池田ともつながりの浅く無い地域です。
       ここから協力(馳走)を取付ける事ができれば、池田衆は憂い無く大軍を東に投入できる環境が調います。

      6月下旬といえば、今の暦で言うと、8月上旬頃で、そろそろ稲の作況を見る時期です。そんな時期に池田衆は、何らかの交渉を行っているのです。
       また、ちなみに連署の顔ぶれは、白井河原合戦の様子を描いた伝記等でも見られます。

      郡山城跡付近から西国街道を見る
      そして見事に池田衆は、白井河原合戦に勝利し、支配地を東へ大きく拡大させる事となります。湯山の年寄衆も池田家へ加担した事を喜び、行く末に明るい未来を感じた事でしょう。

      『中之坊文書』について、個人的にはそのようなストーリーを組み立てています。同文書については、論文を書き、近い内に皆さんにもご覧いただければと考えていますので、ご興味をお持ちの方は、お楽しみにお待ち下さい。




      2012年10月14日日曜日

      白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について

      『陰徳太平記』の記述にも登場する藤井加賀守なる人物についてですが、直接的な史料はあまり無いものの、実在した人物であることは間違い無いようです。

      幸福山太春寺の山門
      いわゆる、池田二十一人衆の連署状とされる『中之坊文書』に、藤井権大夫数秀なる人物が署名をしています。また、荒木村重が高山右近など複数の人物宛てに発行した書状(『佐佐木信綱氏所蔵文書』)にも、藤井加賀守と思しき人物が見られます。

      また、藤井加賀守の領地の寄贈を受け創建された幸福山太春寺(たいしゅんじ)があり、また、箕面市外院に藤井加賀守と伝わる供養のための墓*があります。それに荒木一族の関係者の墓も連なっています。
      ※供養のための墓とは、埋葬した場所とは別の、拝むための墓塔があり、この地域の独特とも思える文化があります。

      史料としては数が少なく、判断に迷う所ですが、それにまつわる史跡も含めると、おぼろげながら推定もできそうです。
      伝藤井加賀守の供養墓
      藤井姓は、箕面市如意谷・外院地域には多くあり、戦国時代には藤井氏が、このあたりの豪族であったのではないかと思われます。
       藤井加賀守は荒木村重の重臣であったとも伝わっており、そういったところを考えると、それなりの統率者でもあった事が推測できます。豊島郡の東の端にあたり、今の箕面市如意谷や外院あたりに勢力を持つ豪族で、垂水牧であった萱野にも近く、箕面寺・勝尾寺、西国街道なども要素に持ち、荒木村重を支えた人物ではなかったかと思われます。

      墓の裏に「荒木摂津守■■」
      もちろん、池田勝正時代には、確実に池田家中の人物であったようですが、それ以前からも同様であったと考えられます。

      今のところ、藤井加賀守についてはそんな個人的見解を持っていますが、今後また、何か解ればこのブログでご紹介したいと思います。


      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)


      2012年8月17日金曜日

      元亀2年9月中頃、摂津国吹田へ吹田氏復帰か

      詳しい日時は不明ですが、白井河原合戦の戦況から見ると、元亀2年(1571)の9月中頃には摂津国吹田村を取り戻し、三好三人衆方池田氏に近しい吹田氏が入った(復帰した)と考えられます。

      千里丘陵の南側に位置する、水運・陸上交通の要衝である吹田は、同年6月に吹田城を落として制圧しています。 これには幕府方和田伊賀守惟政が担当し、三好三人衆方に加担する守備勢力の武将57名を討ち取ったと、『言継卿記』にあります。「親は遁(逃)げ」とあり、これは吹田氏ではないかとも考えられます。

      吹田を確保した事で、千里丘陵南から豊嶋郡へ入る事ができ、そのまま東進すれば友軍の摂津守護伊丹忠親とも勢力範囲を繋ぐ事ができるようになりました。また、神崎川を押さえる事ができ、京都への水運監視ができるようにもなります。

      和田惟政は、本拠の高槻から茨木を押さえとしつつ、南への連絡が確保できた事から、池田城への攻勢を強めました。6月23日には、和田惟政が摂津国豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現豊中市中桜塚の原田神社)へ宛てて禁制を下すようになっている事から、 原田城もこの頃には池田氏配下から離れていたと考えられます。

      「原田城について」のページ

      ちなみに、この一連の闘争で高山飛騨守長房の息子(3男:高山右近の弟)が戦死し、宣教師ルイス・フロイスが、その埋葬のために摂津国へ赴いています。

      吹田方面では闘争が続き、幕府方は吹田から江坂を経て原田方面、そのまま東進して利倉・椋橋方面へも進んでいたものと考えられます。

      しかし、三好三人衆方の池田勢も事態打開を画策しており、和田方と白井河原で決戦を行って勝利しました。
       和田方は元々勢力を分散してしまっていた事と、総大将である和田惟政をはじめ、主立った多くの人材を失うに至って、立て直しが不可能となって壊滅状態に陥っていました。

      池田衆は、和田方の拠点を一気に攻め、和田方の拠点の高槻をも取り囲んで落とす勢いを持っていました。また、茨木城などその他主立った拠点も2つ落としています。
       高槻は講和によって、辛くも守りきった和田氏でしたが、人材を失ったため、立て直しができず、その数年後には滅亡となります。
       一方の池田氏は一気に東へ勢力を拡大させ、吹田を取り戻し、茨木を新たに配下に収めたようです。 池田勢は千里丘陵の周縁部はほぼ勢力下に収めるに至り、西国街道・亀岡街道・吹田街道などなど、多くの地域や権益を支配するに至りました。

      「白井河原合戦について」のページ

      白井河原合戦は旧暦の8月下旬ですので、太陽暦ではもう秋で、収穫の頃です。池田勢が勝利した事により、これらの収穫も手に入れる事になりました。

      池田一族衆の池田正行は、こういった状況下で春日社南郷目代今西氏へ、吹田についての音信をしていたものと考えられます。

      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

      2012年8月4日土曜日

      摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将

      池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。

      正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容です。

      -------------------------------------------------------------

      尚々吹田寺内衆へも此由堅被仰付候て可出候。少取乱候之間閣筆候。重々対後日私曲之儀在之候ハバ、貴所可為疎意候。(悉無事之様御調専一候。)

      南郷五ヶ村扱之儀、相調候由可然存候。就其寺内村之儀も軈而作環住可申候歟。如五ヶ村無別儀様御調所仰候。自然後日ニ申事於在之者、其曲在間敷候。為御案内如此候。恐々謹言。

      年欠 十二月十三日 池田紀伊守正行

      今西橘五郎殿 御宿所

      -------------------------------------------------------------

      吹田殿趾
      音信(『今西家文書』)は「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直後のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。白井河原合戦時の吹田村周辺の状況については、「白井河原合戦について」をご覧下さい。

      また、文書の内容は、最後に「恐々謹言」とはあるものの、大変高圧的で「慇懃無礼」でもあります。
       しかし、そういった態度を取る事ができる状況だった事がわかります。文書の宛先である今西氏は、奈良春日社の荘園(主に垂水西牧、次第に東牧の山田荘や菟原郡山路荘にも広がる。)を管理する神人(じにん)で、池田家にその荘園から上がる税金の徴収を部分的に任せていました。
       今西氏担当(支配)の地域は、最盛期で7万3千石に達していたそうです。詳しく書くと大変な文章量になるので割愛しますが、今西氏と池田家は重要な関係であり、こういった高圧的な態度で池田家が接していた事はあまり無いのですが、天正時代頃には次第にそういった傾向になっていたのかもしれません。しかしながら、これ程の内容は他にあまりありません。

      さて、池田紀伊守正行という人物ですが、「紀伊守」という官位を名乗る前は「勘介(かんすけ)」でした。なぜ同一人物である事が断定できるかというと、文書の最後に書く自分の名前の近くに「花押(かおう)」という手書き印を記します。これはその人だけが持つもので、公的な証明になります。
       この花押が、池田勘介の場合も池田紀伊守の場合も「正行」としての花押が一致します。ですので、地位が変わっていても同一とわかるのです。
       それから、勘介とか紀伊守というのは、社会的地位を示すものです。社会的な地位は伴いませんが、今でも歌舞伎役者などは、こういった伝統的なシキタリの名残がありますね。また、官位は会社でいうところの、係長や課長・部長といった組織内部と、社会通念としてのニュアンスもあります。

      正行が生きた時代は、それがそのまま社会的身分となります。また、一族内での順位にもなっていきます。

      そしてその地位ですが、下積みといいますか、最初は「勘介」という通称ですが、家中の政治で重きを成すようになると対外的な接触も増える為に官位を伴うようになっていくのが多くの場合です。
       正行の場合は、「勘介」から「紀伊守」となります。紀伊守の社会的身分は、国司という部類で、侍がよく名乗る位(くらい)です。国の名前に「守(かみ)」とつく呼称です。守が最高位で、その下に色々と位階があります。そして、その国にも上下の区別があり、大国・上国・中国・小国となっていて、大国の最高位は従五位(上)、上国は従五位下、中国は正六位下、小国は従六位下です。ですので、池田家の当主の筑後守は上国で従五位下ですので、その他の一族は社会的地位が並ぶ事はあっても越えない範囲で、地位が決まります。紀伊守は筑後守と同じ、上国で従五位下です。
       ちなみに、その他に池田家中で見られる官位は、池田播磨守(大国)、池田肥前守(上国)、池田周防守(上国)、池田遠江守(上国)、池田豊後守(上国)、池田伊賀守(下国)、池田和泉守(下国)、渋谷対馬守(下国)、池田伊豆守(下国)、荒木信濃守(上国)、荒木美作守(上国)、荒木美作守(上国) 、荒木若狭守(中国)、荒木志摩守(下国)、などがあります。

      それからまた、この官位は、それを継ぐ家がだいたい決まっていたようです。養子縁組や活躍があって、上位の地位を持つ人物から官位が下される場合などがありますので、厳密には絶対ではない部分がありますが、概ね決まっていたようです。
       ですので、紀伊守を継ぐその先代は、池田正秀の可能性も高いというわけです。この人物は紀伊守から隠居するなどで、名を一狐としたり、斎号を清貧斎と名乗った人物です。どちらが斎号で入道号なのか今はまだ迷う所ですが、公文書にも使っています。清貧斎一狐と一緒に使ったりもしています。

      これが同一家系とすれば、親子となります。親子で公文書に署名した史料もあります。

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      湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
      年欠 六月廿四日

      小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正次(正行か)、宇保彦丞兼家

      湯山 年寄中参

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      この音信(『中之坊文書』)も「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直前のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。また、宛先の湯山とは、現在の有馬温泉の地域です。
       文中にある「池田勘介正次」は、活字にした際に「次」か「行」か判断がつかなかったため、「正行か」と注釈がつけてあります。これは正行です。ちなみに、読めない文字として他にも「荒木志摩守■清」があるのですが、この字は「■=卜(ボク)」です。この人物も地位の高い人物で、多くの書状に署名をしている人物です。それ以外にもここには重要な人物が名を連ねています。
       ちなみに、この文書は「池田二十一人衆」が署名したものとの通説があるのですが、実際には「池田二十一人衆」という集団の史料は存在せず、伝聞記録に現れるのみです。ですので、記録するため(理解)の便宜的な呼称で、その呼称も数回登場するのみです。中には「三十六人衆」とするものまであります。

      ◎呉江舎(池田氏関係):池田一族連署状のページ

      さて、この時の池田清貧斎一狐は、「紀伊守」を署名しておらず、池田正行は「勘介」のままです。書面は後の証拠になるので、その時の状況を反映したものになっていると考えられますが、既知の相手には一々正式な名前や地位を全て書かない事もあるように思います。現在でもあるような、未知の人には当然、正式な事を全て書くでしょう。
       この『中之坊文書』では、荒木村重が、池田姓を名乗り、信濃守の官名まで名乗っています。村重はそれまで、荒木弥介として史料に登場していましたので、この史料が村重の官位を名乗った初期にあたるのだろうと考えられます。同時に、家中での地位が向上していると言えます。
        その事を湯山年寄中に宛てて告げていたとも考えられます。それに加えて、顔ぶれも意味があったと考えられます。
       実は湯山地域へは、当時の主要道でもあった有馬街道があるのですが、京都や大坂からでは、池田を必ず泊地とする立地になっていました。 湯山の更に西には播磨国三木です。そのため池田と湯山地域は、交通・商業などで密接な関係を持っていました。

      こういった経緯を持つ、池田正行は、池田筑後守勝正を放逐した後の池田家政の中心的人物の一人となり、池田周辺地域などにも関わっていたようです。詳しくは今のところわかりませんが、冒頭の『今西家文書』を見ると、正行は吹田村方面の政治・軍事に関する何らかの役割を担っていたのかもしれません。

      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

      2012年3月23日金曜日

      永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事

      永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。
       翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。

      この事件で荒木弥助が手柄を立て、勝正に一目を置かれるようになったようです。この事件(内訌といえるかも)について、『言継卿記』『細川両家記』『足利季世紀』『陰徳太平記』に記述があります。

      こういった代替わりによる内紛は、先代の長正の時にもあり、時代が足早に進むようになると池田家中も相対的な影響を受けるようになって、内紛に至る間隔も狭くなっていきます。

      最終的に、元亀4年(天正元年は同年7月に改元)の将軍義昭の都落ちと同じくして、池田家は崩壊・解体してしまいますが、内紛の原因は多くの場合、官僚機構である四人衆が源泉となっていました。

      当主を補佐するべき官僚機構が、権力集団となってしまい、結局は当主と対立してしまう性格を持つようになります。

      今でも起きている事が、この時代にもハッキリと見られます。


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