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2022年8月13日土曜日

摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)

16世紀後半の推定復元図
16世紀後半の推定復元図
摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。
 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に、簡潔にまとめられて分かりやすいので、こちらから抜粋してご紹介できればと思います。

摂津原田氏とその城について考える」という、特集も中途半端に終わっており、これを機に、完成させたいと思います。

原田氏は、能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場するのが、1279年(弘安元)のようで、池田氏とほぼ同時期に頭角を表して来るようです。原田氏は北から南下、池田氏は南から北上して、最終地に定着するという、イメージです。また、応仁の乱を経て、次第に経済・軍事力の差がつき、池田勝正が池田家の惣領となる1563年(永禄6)頃には、池田家の被官的情況に変化しています。また、池田勝正も原田城に度々入っていて、池田とは一心同体の存在であったようです。姻戚関係なども持っていていたのかもしれません。非常に親密な行動を互いに取っており、池田城が攻められたり、落城する時には、運命を共にすることも多くありました。

個人的に思うのは、推定復元図は印象的ですが、私が史料を見ていく中では、若干違和感も感じなくは無いです。しかし、どこかの情況で、このような視覚化は必要ですから、その均衡を保つのは至難とも言えますね。それもこれも、科学の継続が答えを出してくれることでしょう。兎に角、今後に期待です。

さて、そんな原田城について、以下、案内パンフレットの内容です。
※文章・絵・写真の全ては、案内パンフレットからです。

◎はじめに
原田城跡(北城)は、1963年(昭和38)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、1987年(昭和62)の豊中市文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世城館です。
 「城」というと、天守閣がそびえ立つ江戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージすることでしょう。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭ではなく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものです。


◎北城と南城

原田村には、北城と南城という二つの城がありました。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれています。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認され、その範囲と位置が推定されています。
 一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれています。北城についても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきました。

◎北城の構造

北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地します。その丘陵の東側には、南北140m・東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされています。丘陵先端にある約50m四方の主郭部は、荒木村重の乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行って守りを固めています。
出土した巨大な堀跡
 主郭部の内側には、現在でも高さ1.5m〜2.8m・幅5〜10mの土塁が残っているほか、東側と南側にもその痕跡が確認されています。
 主郭内部の発掘調査では、数多くの柱穴や疎石痕が確認されており、土豪の居宅に相応しい家屋が建てられていた可能性があります。また、焼けた壁土や廃棄された土坑、3層にわたる焼土層があることから、数回の火災があったと考えられます。
16世紀後半:荒木村重の乱の頃

◎北城の築城と原田氏

原田氏は、1279年(弘安元)に能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場します。一方、北城は13世紀後半から14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。
 1344年(康永3)に、原田氏は大炊寮(おおいりょう)の所領である六車御稲(むぐるまみいな)の年貢を押領するなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長すると共に、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれていくことになります。
16世紀中葉から後半頃の勢力図

◎北城の廃城とその後の原田氏

1547年(天文16)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は、その敵である細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は廃城し、興廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。
 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。1994年(平成6)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。
 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後国直入(なおいり:大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。

◎原田城跡のもつ意義
戦国時代には、織田信長のように華々しい活躍が伝えられる武将が多くいます。それら戦国武将の活躍を支えた人々の中には、中世の村を基盤に活動する土豪たちがいました。原田氏も、戦乱の世に生きた土豪の一人でした。
 このような土豪たちは記録の中に数多く見出され、豊中市内では芝原(柴原)・熊田(熊野田)・利倉など、村の名前を冠した土豪が知られています。彼らが活動の拠点とした城館で、堀の配置が復元できる事例は、大阪府内では原田城跡以外にはあまりなく、さらに城主である土豪とともに城館の変遷がわかるものは、今のところ他に見られないことから、原田城跡は非常に貴重な史跡であると言えます。


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2014年3月15日土曜日

摂津原田氏とその城について考える(その1:元亀4年以前の摂津国原田城について)

原田城は池田氏の本拠地である摂津国豊嶋郡の中南部にあって、非常に重要な地域でした。そしてここには重要な街道も多くあり、また、その西側には猪名川、南側には神崎川も流れていて、それらの川は郡境で、原田は「境」に囲まれた地域でもありました。

さて、少し史料上に出てくる原田城を見てみましょう。年代順に並べてみます。

天文10年(1541)11月4日、細川晴元の重臣であった木沢長政が敵対するようになり、晴元方池田信正の関連地域を攻めます。この時に原田城を攻めたようです。ちなみにこれが、豊中市教育委員会によるところの原田城の記述に関する初見です。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P605

-史料(1)------------------------------
(前略)。同11月4日に打ち立て、池田城・原田城は三好方と一味なるにより、先原田城へ取り懸け責る所に、三宅出羽守、京の晴元へ帰参の噯い有るにより、木沢方聞き、原田城打ち置いて、一夜陣取りて河内へ帰られける。
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続いて、天文16年(1547)2月9日から細川晴元勢が原田城を攻め、同月20日に落しています。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P607

-史料(2)------------------------------
2月9日に四国衆、淡路衆、三好衆、畠山総衆、同遊佐、同木沢大和守、同弟都合30,000余騎にて摂津国原田城を取り巻ければ、則ち城内難儀なり。三好宗三(政長)を頼み噯いに成りて同20日に城を明け渡し也。
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それから近年、ちょっと興味深い戦国時代の人々の感覚的な要素が、研究で指摘されるようになっています。河内国守護畠山氏も含め、奈良・和歌山方面の研究を主にされている、田中慶治氏の著作の中で興味深い分析をされています。その興味深い一節を引用します。
※中世後期畿内近国の権力構造P282

-参考(1)------------------------------
中世後期の(大和国)宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。
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と見解が述べられています。これは、大変興味深い研究結果です。ただ、これが学会全体に認められた概念になっているのかどうかで、公的な認識は変わってくると思いますが、しかし、私も池田家の動きを見る中で、こういった気概が、その地域で活動する人々の中に無ければ、結束ができないと考えています。
 結束ができないと言うことは、集団での行動や経済活動、都市の形成と維持の全てができないと考えているからです。現代と違い、法律も行き届かず、個人の利益や自由、安全などを集団に委ねる必要があった室町時代では、現代よりもこういった結束意識は強かったと思います。また、そうでなければ、集団からはじき出された個人は、とうてい生きていけません。集団への帰属意識は半ば、生きるための基本的意識であったように思います。
 摂津池田家との意識の差がどのくらいあるのかという問題点があるのかもしれませんが、畿内地域での感覚は、それ程大差が無いように思います。田中慶治氏の研究は大変参考になりました。

さて、原田城に関する史料の紹介に戻ります。これは直接的な史料では無いのですが、天文18年(1549)1月24日に、細川晴元衆三好政長勢が、摂津国多田の陣から南下し、池田領内を放火するなどして打ち廻ります。市庭とは、池田城下の市場との見解もあるのですが、もう少し広範に打ち廻っていた可能性もあります。西国街道沿いの市場集落や原田方面にも及んでいたかもしれません。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P609

-史料(3)------------------------------
(前略) 一、同1月24日に三好入道宗三政長、摂津国多田衆引き催し候て、池田市庭放火する也。
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同年4月28日、細川晴元衆三好政長勢が、自分の息子が籠もる摂津国榎並の城の援護のために尼崎方面を放火などして打ち廻ったようです。この動きについては池田は重要な位置関係にありますので、何らかの役割を果たしていたのかもしれません。この時、晴元が一庫城に入り、後巻きに着いたのを確認して、政長は伊丹城から出陣しています。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P610

-史料(4)------------------------------
(前略)、同28日に取り出で打ち廻し、摂津国武庫郡中西宮まで放火させられたり。此の時淡路衆、尼崎に在陣候つれ共、無人数にて其の夜中に越水へ加わられけり。
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原田城跡の比高差の様子
同年8月24日から細川晴元に敵対する同族同苗の氏綱に与する三好筑前守長慶が、細川晴元方の拠点の一つになっている伊丹城を攻め始めます。この時、伊丹城の四方に向かい城を築いて持久戦体制を取ります。これに池田衆も参加していて、森本(現兵庫県伊丹市森本)に入ります。
 ちなみに、森本方面から真東に原田城があり、こことの距離は半里(約2キロメートル)程です。人間が歩いても30分程、馬なら10分足らずでしょう。また、視界も開けていて、ハッキリと見える距離で、手旗など信号も色々と送る事ができて、連絡が可能です。
 実際、戦前にこのあたりの平野で、度々陸軍の軍事演習が行われており、原田城跡あたりの高台の木に上って、伊丹方面の友軍に手旗信号で連絡を行っていた記録もあるようです。
 ですので、この一連の軍事行動でも原田城は、重要な役割を果たしていたいと考えられますが、直接的な史料は見当たりません。あくまで推測するしかないのですが、状況証拠を集めると、その推測の妥当性は高くなるように思います。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P611

-史料(5)------------------------------
一、伊丹城計り堅固也。同8月24日より対城拵え、東方は森本に池田衆、南は富松、前田城(場所不明)に淡路国衆、西は御願塚に三好方衆、乾は昆陽城に小河式部丞籠もられたり。此の分に候へども伊丹城より同郷へ夜々手遣いして百姓痛(?)と申し候也。とかく月日を送る也。(後略)。
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天文22年(1553)8月18日、丹波国に出陣中の池田衆の留守を衝いて、再度、細川晴元方である塩川国満勢が池田領内に入って打ち廻ります。この時は多分、池田城の周辺を打ち廻っただけで、それより南下する事はなかったと思われます。この頃には晴元方は、随分劣勢で、攻めたとしても大規模ではなかったようです。しかし、池田と一対の城である原田城も緊張感をもって備えていたことでしょう。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P613

-史料(6)------------------------------
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして、則ち明くる日帰る也。
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その後しばらくは、豊嶋郡の原田城下に差し迫った危機はないように思われ、あるにしても、その周縁部での事のように思われます。そのため、原田城に関連する項目は見当たらず、永禄9年(1566)まで時は下ります。
 5月28日、足利義昭擁立派であり、松永弾正少弼久秀与力である伊丹親興などの軍勢が、足利義栄擁立派三好三人衆方の池田勝正領内に攻め入ります。この時も池田勝正が軍勢を率いて堺へ出陣をしていた隙を突いての、池田領内の侵入で、陽動作戦のようでした。池田衆は敵の10分の1の300で反撃し、14名の武将を討ち取っています。
 多分、この時も池田衆の主力が堺へ出陣していたことから、その間の領内の防衛については、それぞれの城が連携していたいと思われます。概ね、池田城と連携する原田城も何らかの役割を果たしていた事でしょう。
※続群書類従29号 下 (雑部:永禄九年記)

-史料(7)------------------------------
6月9日条:
去月28日、伊丹・塩川・中島等人衆(数)3,000計り、池田押し寄せ、市場中付け散々相戦い、池田衆300計り切り出し、伊丹同道2人、塩川内衆彼是12人打ち取り云々。
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そしてその2年後の同11年9月30日、足利義昭擁立派である織田信長が、大挙して摂津国へ攻め入ります。池田衆は三好三人衆方として、城を頼みに唯一の籠城戦を展開し、敵に一矢を報います。
 しかし、大軍に囲まれ、救援の見込みもなく、勝正は奮戦したものの3日後には開城を余儀なくされます。
※言継卿記4-P273、多聞院日記2(増補 続史料大成)P91、群書類従20(合戦部:細川両家記)P629、信長公記(現代思潮社)P91

-史料(8)------------------------------
『言継卿記』9月30日条:
(前略)。今日武家摂津国芥川へ御座移され云々。勝竜寺・芥川の城などの城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調え之有り、池田へ取り懸け云々。(後略)。
『多聞院日記』9月30日条:
(前略)。一、摂州悉く焼き払い、河州高屋まで今日は焼き払い了ぬ。山城国稲八妻昨夜退城了ぬ。城州、摂州、河州、隙開け、急度当国(大和国)へ人数越すべく歟。(後略)。
『細川両家記』
一、同9月30日に織田上総介信長50,000人計りで池田城取り巻き。火水と攻められ候処、城の内より切り出で14人討ち取り、其の外に手負い数百人之有る由候。(後略)。
『信長公記』信長御入洛十余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)。10月2日に池田の城、筑後守居城へお取りかけ、信長は北の山に御人数を備えられ、御覧候。水野金吾内に隠れ無き勇士梶川平左衛門尉とてこれ在り。並びに御馬廻の内魚住隼人・山田半兵衛尉、是れも隠れ無き武篇者なり。両人先を争い、外構えに乗り込み、爰にて、押しつ押されつ、暫くの闘いに、梶川平左衛門、腰骨を突かれて罷り退き、討ち死に也。魚住隼人も爰にて手を負い、罷り退かる。ヶ様に厳しく候の間、互いに討ち死に数多これ在り。終に火をかけ、町を放火候也。 (後略)。
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この時、原田城も当然ながら、何らかの役割を果たしていた筈ですが、数万の軍勢ともなれば、到底手には負えません。友軍の三好三人衆勢も総崩れとなり、大混乱で、そんな中で池田衆・原田衆は、それぞれ城に籠もって身を守るのが精一杯だったろうと思われます。
 その後池田衆は、三好一族ではありながら、将軍となった足利義昭政権に取り立てられ、摂津の守護職を任される事となります。池田家は勝正の代で、歴代最高の社会的地位を得て、家中の人々もこの重責に応えようと懸命に働きますが、報わる事なく、次第に家中の思いの違いが、統制が乱れにつながっていきます。

元亀元年6月18日、遂に当主である池田勝正を追放するに至る内訌が発生します。この一連の騒動の記録に、原田城が登場します。
 この内訌で勝正は、池田城を追われるのですが、京都へ向かう途中に、原田城へ立ち寄った可能性が、記録から推察ができます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634
 
-史料(9)------------------------------
『言継卿記』6月19日条:
摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:
去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内2人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。(後略)。
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勝正は、能勢街道を大坂方面へ向かったとしていますが、この途中に原田城があります。多分勝正は、一旦、原田城に入ったのではないかと思われます。
原田城の土塁跡
また更に、能勢街道上には、刀根山(現豊中市刀根山)の寺内町もあり、ここには池田家の祈願所でもある高法寺がありました。ここにも、一旦、入ったかもしれません。
 『言継卿記』では、刀根山を経て大坂方面へ向かった、との記述があるのですが、多分、勝正はその伝聞記録の通りの動きをしただろうと考えています。
 というのは、池田衆は近江国での「姉川の合戦」のため、同国高島郡へ軍勢を率いて出陣する予定があった事から、不測の事態が生じた事を知らせる必要があったため、勝正は原田城へ入った可能性も低くは無いと考えています。身を守るためもあっただろうと思います。
 池田家中で内訌があった事が、京都に報じられると、すぐ様、幕府は反応しています。
※言継卿記4-P424

-史料(10)------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。(後略)。
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そして、同月28日、摂津守護であり、将軍義昭の側近である和田惟政が、敵となった池田領内に侵攻を始めます。原田城下といってもよい領域である小曽根春日社に宛てて、6月28日付けで惟政は、禁制を発行します。
 同日、三好三人衆勢は吹田へ上陸し、原田城下は戦闘地域となり、最前線となります。そして翌月6日、吹田城で交戦があり、幕府・織田信長方が勝って、吹田城は確保されました。
 しかし互いの勢力が、原田・吹田方面とその周辺地域に軍勢を繰り出すなど一進一退で、優劣の判断がつき難い状況でした。
 そのため、その去就を巡って、原田城内でも様々な話し合いが行われていたと想像されます。そんな中、原田の西方川辺郡の猪名寺付近で交戦が行われます。8月13日の事です。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-史料(11)------------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
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◎注意:『細川両家記』での「へ」は、「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があり、意味が通りやすいように、適宜書き換えています。

同月25日、遂に原田城内で動きが出ます。織田信長が、再び大軍を摂津国方面へ入れた事も原因かもしれません。
 原田家中の主要勢力が、原田城を焼いて、池田城へ入ったと記述があります。城を焼くくらいですから、大多数の総意だと思われますが、いずれにしても、この原田家の人々の動きは、三好三人衆方に加わる事を決し、見込みの無い籠城よりは、より展望の開ける方法を選んで行動したことは、間違いない事でしょう。
※言継卿記4-P440

-史料(12)------------------------------
8月25日条:
一、早旦飛鳥井中将、同烏丸弁、辰刻(午前7時〜9時)藤宰相等摂津国へ出陣云々。同織田弾正忠信長出陣。3,000計り之有り。両三日陣立ての衆40,000云々。一、摂津国原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
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これにより、三好三人衆方池田家の防衛戦は北側へ後退し、多分、瀬川あたりの川が境界になったのだろうと思われます。
 明けて9月8日、伊丹忠親・和田惟政連合勢は、共同して池田領内の市場などを放火したりして、打ち廻ります。これは状況からして、西国街道沿いの東・西市場村を指すのかもしれません。
※言継卿記4-P443

-史料(13)------------------------------
9月9日条:
(前略)。池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。(後略)。
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8月25日に原田城が放棄され、この後に幕府方が入って、拠点化目的で再利用したとも考えられます。原田城は、地政学的にも要地であり、また、天然の要害性も持っており、利用しないはずはありません。
 元亀元年9月13日、大坂本願寺が、幕府・織田信長方に対して、組織的に敵対する事を明らかにした事で、一気に形成は逆転してしまい、この年の暮れ、幕府・織田方は劣勢を解消するために、それら諸勢力と一時的に和睦を結びます。

しかし翌2年、6月頃から再び摂津国豊嶋郡方面では、交戦が活発に行われるようになります。6月10日、吹田城が再び和田惟政によって落とされます。
※言継卿記4-P502

-史料(14)------------------------------
6月11日条:
(前略)、昨日摂津国和田伊賀守惟政吹田へ取り懸かり打ち果たし云々。首57上げ云々。但し親は遁げ云々。
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更に同月23日には、豊嶋郡牛頭天王へ宛てて、惟政が禁制を発行します。また、翌月26日、翌8月1日には、幕府衆三淵藤英が、南郷目代今西家などに宛てて禁制を発行しています。当番制などで、和田惟政から三淵藤英へ担当の交代があったようです。
※豊中市史(史料編1)P122

-史料(15)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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この方面はまた、一進一退の戦闘の最前線になります。
 しかし、この時は幕府方が優勢だったようで、そしてまた、前年のように瀬川付近にまで攻め入っている様子が窺えます。7月下旬から翌月初旬にかけて、将軍義昭側近の細川藤孝が、池田勝正と共に池田城を攻めています。
 しかし、この時は池田城に打撃を与えることはできず、勝正は原田城に入って、その後の警戒を行う任務に就きます。藤孝は、居城の勝竜寺城に戻ります。記述からは、原田へ新たに付城を拵えたとも受け取れます。
※大日本史料第10編之6(元亀2年記)P701

-史料(16)------------------------------
8月2日条:
晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守入城。
-------------------------------

その後間もなくの8月28日、三好三人衆方の池田衆が反撃に出て、白井河原での決戦を行い、幕府方の和田惟政を打ち負かして大勝します。この合戦で、勢力図が大きく塗り変わり、池田家の歴代では最大の版図を獲得します。戦争で得た領土としては、これが最大だったのではないかと思います。また、惟政やその被官が多数死亡したした事により、池田衆は元の領地を取り戻しただろうと思われます。
 そういう状況になりましたので、勝正は原田城を退いて、必要な対策を講じる活動などをしつつ、最終的には京都へ戻るなどしたのだろうと思われます。

白井河原合戦後の原田城は、三好三人衆方池田家領に復し、最前線では無くなりましたので、元亀4年(1574)までの数年間は、短いながらも戦争の無い日が続きます。その事もあって、城に関する史料は見られなくなります。
 
次は、将軍義昭が京都から追放され、織田信長による新たな中央政治が始まった天正元年以降の摂津原田城について見ていきたいと思います。




2012年2月15日水曜日

摂津原田氏とその城について考える(はじめに)

摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の豪族原田氏、そして、その原田氏の居城であった原田城については、中々資料がありませんね。
 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているように思います。また、今西家文書などもしっかりと再検討の視角を設けて、新たな手法で提起したりするなど、大変すばらしい活動を続けていると私は感じています。また、発掘も地道に続けられ、成果も積み上げられています。

私は池田勝正との関係で、原田城と原田氏を見ているのですが、その時代の動向については、直接的な史料は、あまり多くはありません。しかし、その数少ない史料を見ると、興味深い事が判ります。
 勝正が当主となるころには、家格の差と共に経済的な差も開き、池田周辺の豪族はそこに引き寄せられるカタチで被官化していたようですので、原田氏もそういった関係となっていたのだろうと思います。

先に述べたように、原田城は原田氏の城ですので、その大きさやカタチは、原田氏の立場や役割に相対しています。ですので、物理的な発掘で判ることと、文献から見える原田氏の活動の両方を見る事で、正確にその事象や事柄(発掘された遺物も含め)の意味が捉えられるという訳です。

原田城と原田氏は、池田家との関係も深いため、その動きを追う中で、原田氏とその城の事も少し様子が判るようになると思います。
 それらを順に説明したいと思いますが、分かりやすくするために城と原田氏を分けて、私の調査結果(終わり無く進行中ですが...)をご紹介したいと思います。ご興味のある方はご覧下さい。

それらの説明を、以下の要素から説明したいと思います。
 
(1)摂津原田城について その1:元亀4年(1574)以前
(2)摂津原田城について その2:天正元年(1574)以降
(3)考古学・発掘調査から見た原田城
(4)摂津原田氏について
(5)戦国大名中川清秀に仕官した原田氏について