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2016年4月10日日曜日

戦国時代の摂津国池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々

戦国時代という、後世のその名付けの通り、日常的に武力行使の政治解決が行われていた時代には、政治的機構と設備、体制は軍事と一体化しているため、分けることが難しいのですが、かといって一緒にしてしまうと、膨大になってしまい、思考と理解の集中が効率的では無くなるので、一旦、分けて考えることにしたいと思います。
 以下、摂津池田氏に関わりの深い村々について、ご紹介して、考えていきたいと思います。理解が進む中で、これらの要素を一体化させて、当時の世界を理解できるようになればと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎宇保村:うほむら(池田市宇保町)
  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)。坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
     この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
     長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
     お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)。神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】
  • 中世後期に、摂津国内で大きな勢力に成長した池田家中で、「宇保」の名字を冠する人物が確認される事から、宇保を根拠地とする豪族が居たことは確実である。また、摂津国春日社領垂水西牧神供米方々算用帳には、池田氏から荒木村重に統治の実権が移っても宇保氏の給分が見えるし、村重が没落した後の村重の二男村基などの音信にもその名が見える事から、宇保氏は代々非常に信頼される関係を築いていたとも想像される。宇保対馬守某は、村重の使いとして先方を訪ねる程の信頼を受けている。村重は旧池田家体制の人材を基本的に用いない方針だったと思われる中で、珍しい例でもあろう。ただ、天正4年あたりからは、領土拡張の中で人材不足からか、徐々に登用の傾向にはあるようだ。
     さて、宇保氏の根拠地である宇保は、江戸時代にも池田郷と一体化したような感覚を持つ地域でもあり、いわば、池田郷の南の触覚のような存在とでもいえるだろう。南から北上してくると、宇保を経たり、至近の道を通って池田郷に入ることとなる。また、宇保は、少々小高くもあり、周囲への視界も開けている。そういう立地に城や館城のようなものを備えていた事と思われる。【俺】

◎栄根村と栄根寺跡:さかねむらとえいこんじあと(川西市栄根及び寺畑)
  • 小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺為奈山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為奈山と称するともいう。また昔、大神が土蜘蛛を討って坂の上に宿寝をしたので坂寝山と名付けたという。
     [中世]正中2年(1325)閏正月日の小戸庄地頭代覚円申状(武田健三氏所蔵文書)に「栄根村」とみえ、領家預所弁房と当庄名主源八らは弁房の兄多田院政所代土肥孫九郎や多田院御家人らと徒党を組み、小戸庄内の当村にある地頭居所を襲って刃傷・強盗に及んだと地頭代は訴えている。正平7年(1352)2月12日の後藤基景軍忠状(後藤文書)によると、赤松則祐について後藤基景が、同6年9月伊川城(神戸市西区)を出て須磨城(現同市須磨区)・神呪寺(現西宮市)の戦いを経て、29日坂根と稲野で南朝方と合戦している。なお稲野は古代にみえる為奈野の地名を継承するものであろう。
     永和元年(1375)多田加納村々として「丹後脇 栄根寺領 二十家・西畑 栄根寺領 五十六家」が多田院に棟別銭を納めており(同年7月25日「諸堂造営料棟別銭村注文」多田居神社文書)、地内の栄根寺が同院の勢力下にあったことが知られる。応永4年(1397)から同9年にかけて、栄根寺は多田院と借物・沽却田について争っているが、多田院の理が認められている(同5年6月13日「京極氏奉行人連署奉書」・同9年3月14日「左衛門尉某遵行状」同文書など)。文明18年(1486)の多田庄段銭結解状(同文書)によれば、多田庄新田分のなかに栄根寺領一二丁五反半(うち現作七丁五反半)がみえ、五貫八二文を納付。
     永正3年(1506)の多田庄段銭結解状(同文書)では田数の変化は無いが、一貫六七三文を納付している。この栄根寺領田が坂根にあったものか明らかではない。なお天文-弘治年間(1532-58)頃に丹波八上(現篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(後略)。【地名:栄根村】 
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作 らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。 本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』

◎久代庄と久代村:くしろのしょうとくしろむら(川西市久代)
  • 久代庄は、猪名川左岸にあった中世の庄園。庄名は近世の久代村に継承される。貞応2年(1223)3月日の蔵人所牒案(東洋文庫所蔵弁官補任裏文書)に「久□(代)庄内いまいち並豊島市」とみえ、当庄の市を含む摂津国・河内国の諸市・津などに対して、書物を入れる櫃を朝廷の納殿に年貢として造進させるため国司・領家・地頭・神人らの濫妨を停止し、檜物を扱う商人の往反の煩いをなくすよう命じている。
     弘安元年(1278)10-12月の勘仲記紙背文書中の某申状によれば、久代村で尚高入道が濫妨をなし、百姓を責めるので、もはや滅亡しつつあるという。先師・祖師宛置くところの仏事云々ともあるので、寺院の支配下にあったものか。南北朝内乱時、当地は南朝方が支配し、正平7年(1352)紀伊国を本拠とする小山隆長に「久志呂庄」が安堵されている(同年3月24日「後村上天皇綸旨」小山文書)。文明14年(1482)頃のものと思われる摂津国寺社本所領並奉公方知行等注文(蜷川家文書)によると、久代村は京都北山霊鷲寺領で、当知行の注記がある。室町末期も久代村は同寺の支配下であった(「久代村古記録」吉川家文書)。享徳2年(1453)の段銭配当田数は16町6反280歩、文明18年、明応3年(1494)はもとに24町5反で、文亀3年(1503)の即位、永正16年(1519)の公方御成、永禄2年(1559)の御殿修理など、しばしば課された段銭や棟別銭の配符や納切符が写されている。天文12年(1543)には「徳政之御礼不足」について3貫文を「追打」されている。
     また「久代村惣社」は春日社で、同3年3月21日に柱立棟上があり、願人は久代東大隅守平豊実・久代中加賀守平光家、地下老衆神主(4人)、御当若衆15人・東条老衆2人であった。久代東・久代中は地侍級の者かと思われるが、地下老衆などの信仰組織があったことが注目され、2町余の堂宮田、2町9反大の祭礼田もあり、所在地・面積・斗代と配分先・作人名などを記した記録もみられる。春日社の信仰組織は同時に惣の組織であったのかもしれない。これらの文書類は江戸時代に筆写・整理されて伝わっている。【地名:久代庄】
  • 久代村は、久代庄から近世には久代村として継承される。村は加茂村の南に位置し、上之台(台地)と里(平地)に分かれる。「摂津国風土記」逸文(中臣祓う気吹く抄)に「河辺の郡、山木の保。籤稲の村」とみえ、このクシシロは当地が遺称地とされる。仁徳天皇の代に津直沖名の田で、もとの名は柏葉田といったが、罪の代償に差出す田として田串を立てたので、籤稲の名がついたという。中世の久代庄の遺称地。
     天正8年(1580)8月、織田信長は当地を池田信輝の嫡子之助の所領として宛行っている(川西市史)。慶長絵図に「久我村」とみえ、高528石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「久代村」とあり、同4年の高528石余のうち永荒当川成48石余で、取箇307石余のうち36石余は神田村(現大阪府池田市)出作分で、また75石は大豆納とされている(「免状」「年貢皆済状」吉川家文書)。(中略)。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社(現春日神社)、法華宗真門院久成院・一向宗覚正寺(現浄土真宗本願寺派)・同宗徳通寺(現真宗大谷派)がみえる。【地名:久代村】
  • 久代村にある春日社の祭神は天児屋根命・天津児屋根命。旧村社。北東の低地にあったが、江戸時代に移したと伝える。本殿(寛政3年修理)は安土桃山時代の余風を残す江戸時代初 期の建築とみられ(川西市史)、県指定文化財。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社とみえ、除地は東西90間・南北60間 で、天文3年(1534)の勧請とし、神主は宮座大老(32人)より順に勤め祭祀をつかさどると記す。久代新田村は寛永4年(1627)当社の分霊を勧請しているが、神主は久代村宮座が支配していた(宝暦11年「久代新田氏神宮座氏子争論申合書」同文書)。【地名:(久代)春日神社】

◎久代新田村(川西市東久代)
  • 久代村の東、猪名川の右岸に位置する。天正年間(1573-92)猪名川左岸の神田村(現大阪府池田市)の多数の百姓と久代村の少数の百姓により開発されたことから、文禄3年(1594)の神田村検地帳では同村の新田高66石余と登録された(川西市史)。寛永2年(1625)の改で94石余。文禄3年の本田畑(久代)・新田畑(新田分)は寛永2年までは免状一紙の下札であったが、改以後は免状が分紙(久代村と久代新田分)で交付されたという(以上「久代村古記録」吉川家文書)。慶長国絵図では久代村に含まれるものと考えられる。正保郷帳では高94石余。延宝6年(1678)の検地高112石余。元禄3年(1690)に再び検地が行われ、高192石余で、本高94石余が158石余に引き上げられた(久代村古記録)。さらに新開が進み、天保郷帳では高354石余。領主の変遷は久代村(高3石余分)と同様。氏神春日大明神は久代村春日神社より勧請、久代村宮座17人が支配、境内の立木による小社の建立や勧進興行をめぐって久代新田の氏子と争論となるが、宝暦11年(1761)落着した(吉川家文書)。現在は廃社。【地名:久代新田村】
  •  池田家はこの久代庄の代官職を得て、久代村と深く関わっている。久代村の侍衆は、池田氏の被官となっているらしく、池田家中の「大西殿」や池田正弘が、久代村の侍分と思われる田舟備後守佐賀に久代村宮分などの儀について「申付」をしている事から、上下関係があった事がわかる。また、庄内の段銭徴収の明細に「城殿江御礼」「殿ヨリ御出シ分」とみえ、これらは池田氏を指すと考えられる。また、久代庄の給人・段銭徴収明細などの中に「飯尾分」「大広寺分」「刀根山江うけ取ノ礼」などとあり、池田氏に関すると思われる人物や組織、場所が見られる。
     池田氏・荒木氏の没落後、新たな社会秩序の中で近世時代に移るが、このように池田氏との関わりの深い土地柄でもあるために、久代村の開発が、「池田の人々」も関わって行われるようになる。【俺】

◎刀根山(豊中市刀根山)
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