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2016年4月13日水曜日

戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社

現代社会のように、個人の生命と財産を守る権利や義務が客観的には遠く、多分に主観的であった時代には、個人の基本的人権を守るためには集団に属する外無く、そういう社会単位の中で、精神的な欲求を満たす様々な要素が存在します。それは、現在社会よりも深くて広く、それを求める苦しい時代だったためとも感じます。あらゆる階層でそれらは求められ、全国に通じるブランド力を持つ要素から、土着の要素まで、様々な宗教的要素が摂津池田家の支配地域内にあります。当時の社会を理解する上でも、宗教的要素を考察することは欠かせないと思います。
 その領域には非常に古い歴史を持つ遺物が多く残りますので、それらを当時、どのように感じ、利用していたかも理解できたらと思います。
 また、池田家との関係を持つ宗教施設には、当然密接な関係にもありますので、情報網としての役割や同時に有事には軍事施設(拠点)としても機能した事でしょう。現に江戸時代には、そのような役割を寺は持っています。
 それぞれの成り立ちや経緯から、その可能性について考えてみたいと思います。ここでは、細郷の外側の地域の要素を取り上げます。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎曹洞宗 塩増山 大広寺(池田市綾羽)
  • 五月山の中腹にある。曹洞宗。塩増山と号し本尊は釈迦如来。大広寺略記(寺蔵)によると、応永2年(1395)のちに総持寺(現石川県鳳至郡門前町)の住持となった天厳宗越の開山という。文明年間(1469-87)池田城主池田充正は当時の住持祥山に帰依、諸堂宇を再建し、さらに五月山上に望海亭を建て修禅の場とした。当寺の創建を充正と伝えるのは、その遺徳をたたえ開基として奉祀してきたことによる。山号について「摂津名所図会」は「むかし此山中に池あり。潮の満干あして海水の如し。当寺を創建の時池を埋み、其旧蹟を遺して山号を塩増山という」と記す。
     天正3年(1575)池田知正(重成)は織田信長の石山本願寺(跡地は現中央区)攻めに出陣したが、その留守中に家臣の荒木村重に池田城を支配され、当寺は伊丹(現兵庫県伊丹市)に移転させられた。その地は後に大広寺町となったという(大広寺略記)。慶長の初め知正により旧地の現在地に復興された。同9年(1604)に知正、翌10年に甥で養子の三九郎が没し、当山に葬られた。知正の弟で三九郎の父池田光重は同年両人の画像を寺に納め、さらに同14年には追善菩提のため梵鐘を寄進している。
     塔頭に泉福院・明悟院・陽春庵があったが、明治8年(1875)泉福院は大阪に、同11年明悟院は豊中(現豊中市)に移転、陽春庵は陽春寺と改称し独立した(大阪府全志)。墓地上段の歴代住持の墓塔の傍らに知正と三九郎の墓である五輪塔が2基ある。それに並んで天文・慶長年号の一石五輪塔が多数あり、墓地の西口には「乾逆修永禄7年甲子3月15日」の刻銘のある花崗岩製地蔵石仏が立つ。本堂玄関前の血天井は前掲略記によると、永正5年(1508)池田落城の際、池田家菩提寺である当山に城主貞正以下が逃げ込み、自刃した血の痕の縁板を天井に用いたものという。
     なお当山は古くから文人墨客とのかかわりがあり、文明12年には京都南禅寺僧で詩人としても有名な景三が祥山の依頼で望海亭記(寺蔵)を著し、永正頃連歌師牡丹花肖柏が止宿、池田氏一族に連歌の愛好者を生んだ。下って文化元年(1804)田中桐江撰文の牡丹花隠君遺愛碑が建てられ、文政9年(1826)の肖柏の300年忌には山川正宣によって牡丹花翁三百年忌懐旧和歌一巻(寺蔵)が当寺に納められた。【地名:大広寺】

◎大広寺村(伊丹市宮ノ前)
  • 伊丹郷町を形成する15ヵ村の一村。郷町から中山寺(現宝塚市)へ向かう街道に位置する。地名の由来は摂津池田村の大広寺を荒木村重の時代に移転させたことにちなむ。有岡落城後に寺は池田に戻った(「穴織宮拾要記」伊居太神社蔵)。文禄伊丹之図に村名がみえ、寛文9年(1669)の伊丹郷町絵図には村はなく、大広寺畠が載る。村高は天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では伊丹内大広寺畑として高40石余。元禄郷町でも伊丹町(村)と一括だが、享保20年(1735)の摂河泉石高調や天保郷帳では伊丹町から分離されて高44石余。ただし天保郷帳には「伊丹町之内」と注記されている。領主の変遷は初め幕府領、寛文元年近衛家領、延宝3年(1675)に幕府領に戻り、天和元年京都所司代稲葉正通領になるが同3年再び幕府領に戻り、貞享3年(1686)武蔵忍藩領、文政6年(1823)幕府領に戻り、明治維新を迎えた(伊丹市史)。宝暦5年(1755)の付込帳(伊丹市立図書館蔵)では家数は百姓7・水呑8・店借45。(後略)。【地名:大広寺村】

◎大広寺末 曹洞宗 向泉山 自性院(池田市渋谷)
  • 池田村の東に位置し、北東は畑村に接する。渋谷村は五月山から南に連なる大地上にあり、村の南西端を能勢街道が通る。上渋谷村と称したこともある(元禄郷帳)。慶長10年(1605)の摂津国絵図に村名がみえ、高247石余。元和初年の摂津一国高御改帳では、幕府領村上孫左衛門預であるが、その後麻田藩領となり幕末に至る。(中略)。ところで、上渋谷村は古くは南畑村と称し畑村と一村であったという伝承があること(大阪府全志)、産土神は畑村の天満神社であること、上渋谷村集落が畑村の西畑集落と連なり一村の観を呈することから、南畑の地が畑村から分立して成立した村と推定されている。当村は台地上村落であることから、農耕には溜池灌漑が重要な役割を果たした。年不詳の増補御領地雑事記(森本家蔵)には多くの池が記される。天文元年(1532)大広寺の六世雪岫の創立と伝える曹洞宗自性院がある。【地名:渋谷村】
  • 創建は天文元年。大広寺六世雪岫大和尚禅師(せっしゅうだいおしょうぜんじ)の開山と伝えられています。始祖は玄那莫道大和尚禅師(げんなばくどうだいおしょう)で、本堂裏に昭和6年六世建立の歴代住職墓碑があります。村寺として、上渋谷の人々の篤い信仰からの寄進による建立であったと思います。
     現在の本堂は阪神大震災で全壊に近い被害を受け、平成15年12月に再建されたものです。この時に古い遺物が大分散逸したようです。もとは東側の墓地の場所に本堂・庫裏があって、西側は雑木林が鬱蒼と茂っていました。南側に以前の三門が残されていて往時が偲ばれます。現在の境内は広く明るく、新しい「観音石像」で摂北第25番札所となっています。両脇は達磨大師・天元大師木像が安置されています。
     ひと際目立つ巨木が有名な「カイズカイブキ」で池田市の史跡・名勝・天然記念物の指定を受けています。創建の頃、当時珍しかったこの木が植えられました。寺と共に500年近く経て来た生命力に感動します。説明板には350年と書かれています。幹の太さは根元が約4メートル、高さは約13メートル、枝は14メートル程も茂っています。春には花を咲かせ実をつけます。
     関西では生垣や庭木に良く使われる樹木です。自然環境が変化する中で、巨木の今後の生育が心配されます。無住の時代があって、現在の住職は10世に当たります。【改訂版 池田歴史探訪:自性院】
  • 渋谷村は、経緯があってその村名に落ち着いたらしいが、「渋谷」と名付ける理由もまたあったはずで、それが何であるのかは解らない。同村は、その経緯からすると、南畑村から上渋谷村の名を名乗る事を経ていたらしいが、戦国時代の年記未詳であるが、永禄11年と推定される2月3日付の史料に、渋谷対馬守なる人物が確認できる。これは池田城主の池田勝正が、摂津国垂水庄南郷目代今西宮内少輔への音信で、「渋対(渋谷対馬守某)」が使者に立っている。渋谷姓は、幕府関係社にも居るため、その系統の人物の可能性もあるがしかし、可能性としては畑村の渋谷氏の可能性が高いように思える。
     畑村の中に「渋谷」にゆかりを持つ何かがあって、それが村の名前に変わっていったのではないかとも思われる。渋谷対馬守という有力者にちなむものかもしれないが、詳しくはわからない。渋谷氏については、この1点の史料しか、今のところ見出せていない。後に台頭する荒木村重は、基本的に前政権の人材を登用しない傾向であり、村重の活動で見られないという事は、池田氏政権で用いられた土着の人物であったのかもしれない。
     また一方で、畑村には、荒木姓も多い。これも何か気になるところでもある。もしかすると、鉱物の採掘などの関係があったかもしれない。
     畑や渋谷は、五月山からの古道が通じていて、高山方面などの奥地へ繫がっており、南北に通じる近世の巡礼道と呼ばれる道と交差する。山と里との結節点ともなっている。この道は、人の行き来も多かったらしく、その要素もあって人が集まり、村が大きくなったようである。他方、その事は戦国時代においては、要所であり、有力者が輩出される素地もあり得たと考えられる。【俺】

◎大広寺末 曹洞宗 圓通山 吉祥寺(池田市畑)
  • 渋谷村の北東に広がる大村で南北に長い。北部は五月山から北東に連なる山地帯。集落はその南の山麓部に点在する。文禄3年(1594)9月浅野弾正の行った検地帳写(奥村家文書)によると、村高356石余で名請人は138人。同検地は畑村一村でなされているが、当時から集落は東西二つに分かれており、「在西」「在東」と記した記録もある(同文書)。慶長10年(1605)摂津国絵図には東畑村・西畑村合わせて356石余と記すが、江戸時代を通じ行政的には常に畑村一村で扱われている。しかし、実質的には東畑・西畑の区別があったことは奥村家文書などに明らかで、村域が広かったこともあってか庄屋2・年寄4・百姓代2という村役人構成をとっている(同文書)。
     元和初年の摂津一国高御改帳では幕府領村上孫左衛門預196石余、旗本山田清大夫知行160石となっているが、その後麻田藩領となり幕末に至る。(中略)。
     「摂津名所図絵」は村内名所として石積滝(石澄滝)、秦山の喬松三株をあげる。この喬松は衣懸松で、呉織(くれは)と穴織(あやは)の二女が絹をこの松にかけ、干したとの伝承をもつ。産土神は天満宮で、文禄4年に再建され、この時同社の宮座が結成された。この再建のため村の32軒の者が草山を財源にあて、その年貢代として永定米一軒2合1勺を弁納することにし、この子孫および分家が宮座株となった。(中略)。
     曹洞宗吉祥寺は、天文21年(1552)大広寺六世雪岫の弟子正治の創立。同宗西福寺は天正5年(1577)僧門仙の創立という。【地名:畑村】
  • 山手線バス停「畑」下車、少し東へ行くと山側に地蔵さんがあって、坂道を登ったところに吉祥寺があります。「西福寺」「自性院」と共に大広寺末の禅寺がまとまっています。「西畑」「東畑」「渋谷」それぞれ一村一寺となっています。昔は寺を通じて寺社奉行が寺の管理と村人の支配や訴訟を司っていました。
     吉祥寺も東畑の村寺として、村人によって維持されてきました。当寺の開山は室町時代後期、天文21年(1552)大広寺六世雪岫禅師の弟子、僧・正恰(せいこう)と伝えられています。ご本尊は阿弥陀仏坐像となっています。同じ禅寺でも釈迦牟尼仏(西福寺)や観世音菩薩(自性院)とご本尊が違います。
     本堂正面に掲げられている瑞光殿の額は当寺の古い歴史を語っています。戦国時代・江戸時代を経て、450年間戦乱や無住職の時代もあって現在に至っています。【改訂版 池田歴史探訪:吉祥寺】

◎大広寺末 曹洞宗 玉蔵山 西福寺(池田市畑)
  • 石垣のある高台に禅寺らしい飾りけのない簡素な佇まいに心が落ち着きます。西畑・東畑村の村寺として住民が長い間、親しみ守り立てて来た暖かさを感じます。境内に村の子ども達が集まって、鬼ごっこやチャンバラごっこなどをして騒ぐ様子が目に見えるようです。
     開山は天正5年(1577)、大広寺の明仙大和尚禅師と伝えられます。ご本尊は釈迦牟尼仏両脇に道元禅師・瑩山禅師(けいさんぜんじ)木像が安置されています。【改訂版 池田歴史探訪:吉祥寺】
  • 玉蔵山と号し、曹洞宗の総持寺末で、釈迦牟尼仏を本尊に天正5年(1577)の創立で、天保10年(1839)の再建であります。大正11年(1922)に火災に遭って焼失しましたが、同年に再建して今日に至っております。門前の枝垂れ桜は美しい花を咲かすと云われています。【池田市内の寺院・寺社摘記:西福寺】

◎真言宗 待兼山 高法寺(池田市綾羽)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

◎浄土真宗 本願寺派 大西山 弘誓寺:ぐぜいじ(池田市綾羽)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

◎日蓮宗 京都本満寺末 瑞光山 本養寺(池田市綾羽)
  • 日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒書によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には六代将軍徳川家宣の御台所熙子(天英院)が、近衛基熙の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また熙子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。元禄4年(1691)から同8年にかけて、壇越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があつかったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えたことにより呉春と改名したことに由来する。彼の襖絵が残る。【地名:本養寺】
  • 井戸の辻から「呉春酒造」の前を過ぎ、「稲束家」を左手に五月山の麓近く足下に「本養」の道標が地中に半分埋まっている細い路地を左へ入ると「本養寺」があります。
     当寺は酒造家「西大和屋」山川氏の菩提寺であると共に「呉春寺」とゆかりの深いお寺です。創建は室町初期、応永16年(1409)近衛前関白左大臣道嗣の末子「日秀上人」の開山とされる由緒ある古刹で、創建時は広大な敷地に多くの塔頭(庵)を有する池田屈指のお寺でした。しかし、荒木村重の伊丹「有岡城」築城に伴って伊丹へ移転させられ、天正7年(1579)有岡城落城で再び池田に還ったとの説もありますが、記録は残っていません。一説では9世が伊丹に「本泉寺」を建立した記録があります。いずれにしても天正年間の移り変わりを経て、次代の歴史を歩むことになりました。
     元禄7年(1694)には本堂が再建され、同14年(1701)には庫裡が再建されました。やがて天明2年(1782)京都から「川田田福」を頼って「松村月渓(呉春)」がやってきて、この本養寺に寄寓し7年間を過ごしました。
     その間の呉春の活躍と影響は、池田の文化に大きな花を咲かせました。本養寺には呉春の襖絵や屏風など数々の作品が残されています。呉春は、与謝蕪村、川田田福をはじめ、日初上人、荒木蘭皐、井関左言、稲束太忠、山川星府、桃田伊信、松村景文などと交際を広め多方面の文化を育みました。その後も西大和屋山川家は本養寺を檀那寺として尽くして第11代目中興の祖と云われる「山川正宣」は町の国学者として偉大な功績を池田に残しました。荒木梅閭、荒木李𧮾、阪上竹外、阪上呉老、井上遅春、山川星府、松下一扇などと交際し、リーダーとして影響を与えました。
     門脇の傍らに元禄12年(1699)建立の「南無妙法蓮華経」の名号法界塔があり、その横には「歯痛止地蔵堂」があります。書院の(宝永5年(1708)建立)呉春の襖絵「若松と鶴」。また松鶴の間、柴狩の間の「欄間」は貴重なものです。
     墓地には「山川正宣」(1790 - 1863:74歳歿)の墓、俳人「山川星府」の墓、俳人「阪上呉老」の墓があります。現在の本堂は、平成7年に再建されました。【改訂版 池田歴史探訪:本養寺】
  • 綾羽町は、安永6年(1777)の池田村惣百姓連印證によりますれば、「寺垣内」と呼んでいました。地内町と呼ばれ綾羽町となっております。日蓮宗に属しておりまして「瑞光山」と号し、院を洞妙と呼んでいます。本尊は、一塔両尊四天日蓮上人であります。応永16年(1409)5月洛陽本圀寺第5世「日伝」の嫡弟玉洞院日秀(近衛前関白従一位左大臣道嗣の子)当地に来錫(?)の際、時の道俗(僧侶と普通の人)貴賤が一宇を創立しました。即ち日秀上人の開山であります。
     近衛家より天正10年(1582)に現境内及び寺内町の宅地7反歩(1反は約992平方メートルで、約300坪)余を、又閑院宮八百姫上田一反歩余を各霊牌に附して寄進しております。現在の境内は500坪余でありますが、本堂、庫裡、書院、玄関、鐘楼堂、四足門、薬医門、刹堂、祖師堂、妙見堂などがあります。
     元禄4年(1691)の檀頭の山川㽵右衛門など外一統が協力して本堂及諸堂内改築に着手し、同8年落成しておりますが、更に明治41年から大正2年までの間に大修理を施して、殆ど旧観をを呈するに至りました。開山より現在に至るまで、実に40数代であり、約500年を経て悠々ご隆昌と聞いております。
    ◎勝手門
    元和年間(1615 - 1623)に徳川家康の娘聟の松平忠明は、夏の陣の後の大坂再建を計画し、その内で寺院の整理を行いました。畢境(つまり)真宗寺のみを町中に止め、その他は周辺部に全部移して「寺のみの町」を造ろうとりました。こうして出来上がったその一つの寺町である谷町八丁目に日蓮宗の本長寺も含まれましたが、昭和40年に天王寺〜天満橋〜北大阪と続く新道路の拡張工事のために当初からの門が破棄されることとなりました。その寸前に当本養寺の難波瑞竜師が貰い受けて、勝手門にされたという経緯があります。
     即ち大阪から移建されて入れ替わっているのですが、従前より在ったものより却って古い建築物でありましたので、気付かれる人も少なく、上記の理由を知っている人も余り無いのではないでしょうか。そして形式は、薬医門で本瓦葺に板蛙股を置き、正面蛙股下には貫を突してありますが、その全てに桃山風が残っています。
    ◎当寺は酒造家で有名な東・西大和屋の菩提寺でありまして、境内の東書院は大和屋の一建立にかかります。寺域には大和屋一門の墓所があります。東大和屋の山川星府と西大和屋の第11代の主人公であった山川正宣については「人物」で記述します。
    ◎蕪村の門人で、月渓と号して絵画と俳句をよくしました。松村呉春が若かりし時、俳友井筒屋庄兵衛と称した呉服商の川田田福の世話で、西大和屋の食客となっていた頃、一時期この寺の東書院に寄寓して、天分の丹青を練り、後日四条派の揺籃をなしたと云う由縁の寺であります。
     呉春の在池田時代の号は、存白・存允白と称して、世人は、在池田時代の創作を「池田呉春」と呼んでおりました。そして当時には呉春の大作襖絵の「めくり」が保存されておりまして、過去に調査された結果が、池田市史に記載されております。「めくり」は非常に汚損されていて、墨絵の淡彩が赤黒く焼けていて、もはや紙そのものの「ゆう(本質)」を失っていて、触ると粉々となる仕末の模様が記されております。
     同寺には立派な涅槃図が保管されております。即ち、紙本着色、本紙の幅1メートル90センチ、天地2メートル64センチですから相当の大作です。裏には各時代の由来書が沢山あって、それを纏めますと大体下記の様になると記されています。
    1. 寛永20年(1643) 軸の損傷で表具のやり直し
    2. 元禄3年(1690) 要修理のため大和屋一門及び菊屋などの女性ばかりから募財して完了
    3. 天保8年(1837) 3度目の修理を山川屋などが費用を受け持って完了
    この絵は弘治元年(1555)に土蔵入道浄久(18才)によって描かれ、同人から寄進されたものです。 【池田市内の寺院・寺社摘記:本養寺】

◎浄土宗 不断山瑞雲院 西光寺(池田市新町)
  • 浄土宗。不断山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、天文15年(1546)京都知恩院の徳誉光然の嫡弟で、万里小路秀房の子息満誉祐円が諸国造化の途次当地に止宿、一宇を建立したのに始まる。元禄9年(1696)誠誉のとき諸堂の再建がなされたという。「蓮門精舎旧詞」には「不断山西光寺起立不知、開山善蓮社満誉上人和尚、生国姓氏等不知」とある。山号は、この地にもと一草堂があり、念仏を唱える者があとを絶たない事より不断堂と俗称されていたことによると伝える。本堂前には浄瑠璃「関取千両幟」で知られる力士猪名川政右衛門の墓碑があり、「旭誉円月岳映禅定門」と法名を刻す。また墓地には江戸時代の池田の文人墨客の墓が多数ある。境内に十王堂がある。【地名:西光寺】
  • 西光寺は旧「西国巡礼」に沿って、池田の名酒「緑一」吉田酒造の酒蔵と隣り合う主要街道にあって、道行く人の絶えないメインストリートでした。門前には「右能勢街道・左篠山道」(現在の位置は逆)の道標があって往時が偲ばれます。
     当寺は古くは「不断堂」と呼ばれていました。このお堂に念仏を唱え参るひとが絶えなかったという意味でしょう。
     西光寺となったのは天文15年(1546)京都総本山知恩院の第27世徳誉大僧正の弟祐圓和尚が信徒と共に再建されて名付けられました。現在の本堂は元禄10年(1697)に修理され、文政5年(1822)に再建されたものです。ご本尊は、阿弥陀如来立像でm鎌倉時代の運慶・快慶など慶派の作と伝えられています。脇侍に、姿勢菩薩・観音菩薩が安置される、いわゆる阿弥陀三尊です。
     庫裏は阪神大震災で被害を受けて再建されていますが、以前の建物は元禄12年(1699)のもので書院の「落とし掛け」や「欄間」は建築上傑出したものでした。現在の庫裏に当時の欄間が残されています。本堂の他に十王堂(地獄閻魔大王・十王信仰)、地蔵堂、八幡社、愛宕大権現などの建物がありましたが、その一部が残されています。
     西光寺は文人墨客の往来や町屋との繋がりが深く、墓地には著名人の墓碑が数多くあって、それを物語っています。酒造家の鍵屋・大和屋をはじめ、稲束家の菩提寺として寺は支えられてきました。表境内東側には名力士「猪名川政右衛門」、漢学者「樟蔭翁(山口正養)」、西側には俳人「阪上稲丸(呉服絹の編者)」と大和屋歴代の大きな五輪塔の墓碑があります。また、庫裏の裏側墓地の無縁仏塔群の中に、荒木蘭皐(あらきらんこう)、荒木李𧮾(りけい)、荒木梅閭(ばいろ)の墓があります
     荒木蘭皐は著名な仏教学者富永仲基(とみながなかもと)の弟で11歳の時、酒造家鍵屋の荒木平兵衛の養子となりました。その後、蘭皐は、儒学者田中桐江(たなかとうこう)の門人として学び、その子の李𧮾や梅閭という偉才を育て、池田の文化に多大の功績を残しました。それぞれの人物についての説明は、この頁では省きましたが、ぜひ名前だけは覚えていただきたいと思います。
     ちなみに荒木平兵衛は、荒木村重の直系5代目に当たる人です。墓地は大広寺にあります。【改訂版 池田歴史探訪:西光寺】

◎浄土宗 柳林山 栄根寺(川西市寺畑) ※今は栄根寺遺跡史跡公園になっている。
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 栄根寺の現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』
  • 西光寺は荒木村重の末裔である池田に戻った荒木氏が檀家となっている関係の深い寺でもある。その西光寺が、村重の家系の荒木氏の縁故地である栄根一帯の栄根寺を早い時期に関わりを持ったことは大変興味深い。全く縁も所縁もないはずはないだろう。この事は、伝承にある荒木村重と池田家の関係を実証する一つの証拠でもあるように思われる。【俺】

◎浄土宗 知恩院末 竹原山・玉蓮院 法園寺(池田市綾羽)
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◎あわん堂(池田市上池田)
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◎浄土宗 医王山 神願院 寿命寺(池田市西本町)
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◎真言宗 多羅山 若王寺 一乗院(池田市鉢塚)
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真言宗 鉢多羅山 若王寺 釈迦院(池田市鉢塚)
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◎真言宗 別格本山 清光山 常福寺(池田市神田)
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◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやじゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
  • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
     文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
     明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
     昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
  • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
  • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
     文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
     天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
  • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
  • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
     当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

◎五月山愛宕神社(池田市綾羽)
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◎天満宮(池田市畑)
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星の宮(池田市建石町)
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八坂神社(池田市神田)
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池田住吉神社(池田市住吉)
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◎五社神社(池田市鉢塚)
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