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2022年9月24日土曜日

山城国西岡地域にあった勝龍寺城について、その地域公共性、公権の城としての研究

 京都府長岡京市は、歴史的遺物、事柄の保存活用に非常に熱心な地域の一つで、様々な取組を行っており、それを市民へ還元しつつ、活力ある地域活動に活かそうとされています。

その中の一つが、毎年11月に行われる「ガラシャ祭」です。1ヶ月程の期間を設けて、様々なイベントが行われ、中でもこのガラシャ祭は、そのファイナル的な大規模イベントです。長岡京の時代祭的要素もあり、長岡京市に所在した勝龍寺城の城主でもあった細川藤孝の息子、忠興とその妻のガラシャ(明智光秀の娘)を主人公に立てて行われます。それぞれの時代の一団が、市内のメインストリートを練り歩きます。

その勝龍寺城を地域の活性化拠点ともすべく、研究が続けられており、その成果を折々に還元して、城の復元施設や書籍などにまとめられています。
 近年、世界中を騒がせたコロナ禍により、このガラシャ祭も中止されており、本年(2022)は、3年ぶりの開催となり、長岡京市民も楽しみにされているようです。

その中止の期間の間、歴史分野では、イベントの代替企画として、研究者のリレートークや研究成果の講演が行われ、中止期間中も非常に有効的に対処されたと思います。出来ることを考えて、活力の縁が切れないようにうまく企画されたと思います。

 さて、その中止期間中に行われた講演で、非常に興味深い研究発表がありましたので、このブログでも紹介しておきたいと思います。
 中世から近世への移行期、また、これまで考えられていた幕府と地域住民の関係性、遠く離れて暮らす血族と地元の絆が、時代によって、どのように維持されてきたかを一次史料から明らかにされています。
 熊本へ国替えとなった細川家と、その細川家を支える、山城国西岡地域に縁を持つ家臣の関係を解かれています。素晴らしい成果で、これまでの大名像が一変する程です。

これは、私の研究対象である摂津国豊嶋郡池田にも近く、地域性の乖離も左ほど無いと思われますし、通念的には日本全体の文化だったのではないかと思われます。江戸時代の大名は、幕府によって、地縁を切られた、いわゆる「鉢植え大名」と考えられていたことが、大きく変わる事実だと思います。

繰り返しになりますが、摂津池田でも同様の事があったでしょうから、そういった視野も以て、今後は私の研究に活かせるようになり、大変勉強になりました。以下は、その講演の模様です。2時間弱ありますが、非常に有意義な研究成果ですので、是非ご覧下さい。

◎戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~
 熊本大学永青文庫研究センター長・教授の稲葉継陽氏
【概要】
戦国時代の乙訓・西岡には、現在につながる集落ごとに国衆(地侍)たちが割拠し、向日宮や勝龍寺城を核にして、ときに「惣国」と呼ばれる自治的組織を創出しました。そこに乗り込んできた細川藤孝は、西岡の国衆、そして地域社会とどう向き合ったのでしょうか。熊本藩主細川家や西岡国衆出身の細川家臣のもとに伝えられた貴重な古文書をもとにお話します。また、西岡時代の藤孝・光秀コンビの活躍についても紹介します。

(公式ユーチューブコンテンツより)




2019年6月5日水曜日

天正6年(1578)秋、摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと

明治期の地図(+-+-+線が県境であり旧国境)
1576年(天正4)初頭、丹波国内の最大勢力であった波多野秀治の、織田信長政権離叛により明智光秀は、丹波国平定を目前にして、敗走します。この時、光秀は、現兵庫県三田(さんだ)市を通り、池田を経て、京都へ戻ったようです。
 この当時、摂津国内をほぼ掌握して、大名(守護)となっていたのは、荒木村重で、村重は、光秀の丹波平定戦を支援する役割りも担っていました。現在の三田市は当時、摂津国に属していましたが、播磨・丹波とも国境を接しており、要衝でした。多数の重要な街道を通し、いわば「ロータリー」のようになっていて、三田からはどこへでも進むことができました。
 江戸時代には、そういう立地から物資の集散地となり、特に米については、三田での値が、摂津国内の米価を決めたともいわれます。

さて、戦国時代、天正頃の三田へ話しを戻します。天正4年の光秀の、丹波国撤退から、その後は再入国の機会無く、時を待つことになりましたが、再びその機運が高まったのは、荒木村重が織田政権を離叛した1578年(天正6)でした。
 天正4年初頭以降、摂津国を領していた村重が、一族であった荒木重堅を三田へ入れ、領国統治を進めており、着実な成果を上げていました。光秀が丹波から撤退した同年2月、村重は、丹波・摂津の国境の村、「母子(もし)」に禁制を下し、素早く国境対応を行ったりしています。ここは、波多野氏の居城「八上」の後背地にあたり、通路でもある重要なところです。
 国境というのは、時の勢力により、実効支配が出たり、引っ込んだりしますので、境目自体は変わりませんが、実質的な状況変化があります。また、八上城の防衛を考えるなら「後背地」は確保しておかねば城が孤立し、脅かされ、物資補給もできません。

戦国時代、現在の三田市北部地域は、そういった重要な地域でした。

1578年(天正6)秋。荒木村重は、織田政権から離叛します。これは信長にとって、非常に深刻な事態となり、状況を悪化させないために、信長自らが出陣して、「初動全力」で鎮静にあたります。結果は歴史が示す通りですが、この頃の三田市北部の様子を少し詳しくご紹介します。

村重の離叛で、波多野氏勢力とは一体化します。この時両者(先に波多野氏は毛利方に)は、織田政権と敵対していた毛利輝元方となります。元々摂津の荒木氏は、丹波国が起源とみられますので、そういう接点も何らかの働きがあったかもしれません。
 さて、毛利方からすると、村重が味方に加わったことで、軍事的には一気に京都間際まで、友軍勢力が拡がり、将軍義昭再入洛が現実味を帯びるようになります。また、織田方へ頑強に抵抗していた、本願寺宗とも地続きの協力関係となります。
 一方の織田方にとっては、天下を平定するための終盤の安定感さえも出始めていた頃ですから、村重の政権離叛は、大きな危機を迎えたわけです。
 信長は、丹波国内とその周辺の事情をよく知る光秀を、再び同方面へ入れ、優先して敵勢力の分断を行いました。今度は光秀がそれらを首尾良く進め、村重勢力の弱体化に貢献します。村重方は、三田、花隈、有岡、尼崎などに追い籠められて、点の勢力維持となってしまいます。

小柿周辺の城館配置(三田市史より)
さて、この頃、村重のかつての主君であった池田勝正も三田市北部に入って活動していたようです。時期としては天正6年(天正5年も余地はある)に入ってからかもしれません。勝正は、1570年(元亀元)6月の家中内訌以来、将軍義昭方として行動していたようです。中央政権の権力が複雑に作用して、勢力が離合集散していましたので、勝正の行動の詳しくはまた後日としますが、備後国鞆に居所を構え、鞆幕府ともいわれる権力体を保持しており、それに従って勝正は、行動していたようです。鞆に近い場所に居た可能性もあり、言い伝えや遺物があります。
 摂津池田家に関する系図に、勝正は「天正6年歿」とあります。また、その他いくつかの史料や遺物があります。そして、勝正の墓と伝わる五輪塔が、三田市北部の小柿という地域にあります。
先に説明したように、この地域は、戦国時代当時は非常に重要な地域です。ここに勝正が入っていたならば、しかも墓があるなら、「戦死」ではないでしょうか。勝正の行動は、一貫性が見られるため、多分、将軍義昭方勢力として、この小柿地域に入り、同じ友軍勢力であった波多野氏と呼応して行動していたのではないかと思います。

伝館跡の石垣(2001年頃撮影)
地元の方に話しを聞いたことがあります。それによると、勝正の縁故地は、この地域に2箇所あり、(1)は、墓のあるところ。ここは、道の分岐を押さえるような立地です。かつて、墓のあるところの直ぐ上に寺があったとのこと。墓はその寺にあったが、廃寺となったために、現在地に移したとのこと。
 (2)は、(1)からすると、対角線上の北東側、小柿三舟会館のある方面にも勝正の墓(三右衛門墓とも)伝わる五輪塔があり、この周辺に勝正に従って移ってきた武士の方々が定着したとのことです。(2)の場所には、その館跡と言われる石垣も残っています。その侍(伝勝正らしき)が没してからは、同地に慈徳寺が建てられ、更に後、山王神社となり、1910年、同村内の天満神社と合祀するため移転しました。山王神社は勝正公が崇拝していたとも伝わっています。
 ちなみに、館跡があったとされる場所は、後背は山ですし、通路もあり出入りは可能です。また川も流れ出ていて水の心配もありません。館を構えるには適した地形です。
侍が没してから山王神社となった経緯はどんな感じなんでしょうね。気になります。また、この慈徳寺というのは、勝正の墓と関係するのでしょうかね
摂津池田氏の菩提寺である大広寺には、勝正が死亡したことは把握されていたようです。法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か。詳しくは、以下の参考ページをご覧下さい

(1)の伝池田勝正墓方面を望む(右の山裾あたり)
これら2箇所の縁故地は、互いに見通しが利き、重要な通路上にあります。そしてまた、それらの真ん中に、高平田中城館(城館配置図中の(11))という推定地もあって、この三点で、通路は完全に管理できる相関にあります。小柿のこの地域からは、丹波(篠山・亀岡)方面と摂津能勢方面へ繋がる道があり、非常に重要な地でした。
他方、1578年(天正6)では、特にこの地域は最前線であり、非常に緊迫した状態の地域でした。そういう地域で、明智光秀、池田勝正、荒木村重(重堅)は、再び接点を持ち、刃を交えたのです。彼らは、かつて、非常に関係の深い仲であったにも関わらず...。
※村重は、天正6年秋には動けずに、三田方面へは入れなかったかもしれませんが、何らかの情報を得ていたに留まるかもしれません。

◎参考:池田氏関係の図録「伝池田勝正墓塔」 (私の過去の記事より)
◎参考:池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か 

【ごあんない】
兵庫県三田市の状況をまとめた「荒木村重と摂津国有馬郡三田について」という研究発表のレジュメや荒木村重の領国支配についての論文(会報への原稿)「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」がありますので、ご希望される方には、実費にてお分けします。このブログの右帯下部にある「連絡フォーム」からお問い合わせ下さい。


※以下の360°写真は、伝池田勝正墓の今の様子(2019年撮影)です。



2019年1月5日土曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)

2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。

明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。
 義昭が将軍となった永禄11年(1568)秋からは側近として活動していたようです。初期の頃は、あまり当時の史料もありません。また、同じ側近でも、細川藤孝は領知を桂川西岸の山城国内に与えられ、幕府勢力の武将としても活動しますが、光秀は将軍義昭政権初期の頃は、文官のような活動を主に行っていたようです。

しかし、光秀はもちろん武士ですので、いざとなれば戦いにも動員されますが、領知もまとまったものはなかったようですので、武士と言っても、将軍の親衛隊のような状況だったようです。

一方、摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領池田筑後守勝正は、時の将軍(幕府)からも頼りにされる存在でしたが、当時の中央政治に家中政治も大きく影響を受け、不幸にも分裂の後、家制度の解体の憂き目に遭います。
 代わって、荒木村重が池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護格に成長します。そのタイミングで明智光秀も新境地を開き、戦国武将として立身出世します。光秀は織田信長政権内での新興勢力として、村重とも関係を深めていきます。両者の相性も良かったのか、縁組みをして絆を強くします。
 しかし、何の因果か、両者は遅いか、早いかの違いだけで、結局は織田政権から離れ、家は滅んでしまいます。
 
詳しくは、別立ての記事をご覧いただくとして、今のところ解っている光秀・勝正・村重、三者の接点(エピソード)を以下にあげてみます。

<明智光秀と池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)>
◎京都本圀寺の戦い(永禄12年正月)
越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」(元亀元年4月)
摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと(天正6年秋)



2018年10月17日水曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」)

元亀元年(1570)春、幕府・織田信長の軍勢は、天皇からも勅許をもらい、官軍(皇軍)として越前朝倉氏を攻めたのは、大変有名です。
 実際の攻める目的は、以下の複合的な要素を一気に解決する、非常に考え抜かれた行動でした。
 
 (1)若狭武藤氏討伐
 (2)若狭武田氏の守護家正常化支援
 (3)湖西地域の支配強化
 (4)比叡山に対する牽制
 (5)山陰地域の山名氏に対する示威行動
 (6)浅井氏の動向確認
 (7)天皇・公家領の回復
 
一応の表向きとしては、(1)(2)による、越前朝倉氏の討伐でしたが、実は、(6)の浅井氏の動向確認も大きな目的でした。
 この朝倉氏攻めの前年から、浅井氏が織田氏から離れた旨の噂(『多聞院日記』)が出ており、織田信長の義理の弟である浅井長政の行動が本当に噂通りなのか、確認する意味もあったようです。将軍義昭政権を支える織田家の身内から、そのような事が起きれば外聞も悪く、政権にも良い材料にはならないからです。

越前朝倉氏攻めは、そのような複合的な目的を一気に解決するため、大変用意周到に計画され、軍勢に公家も同行していました。行軍中に改元も行われています。また、予備の軍勢も用意し、京都にも準備(更に各地の武将にも準備をさせていた)していました。状況不利になった場合に、総崩れにならない工夫もされていました。
 現在の通説では、越前朝倉氏攻めと「姉川の合戦」は別々のものと考えられていますが、作戦からすれば、これは一体化したものです。作戦の筋書きとしては、
 
”浅井方に離叛の動きが見られる場合、戦況が悪ければ躊躇いなく撤退を行う。速やかに体制を立て直し、敵の本隊に決戦を挑み、殲滅する。”

といった流れであったと考えられます。そのための「姉川合戦」であり、そのための予備兵力の用意であった訳です。
 姉川合戦では、将軍義昭の出陣が計画されており、京都に集められた予備の軍勢を高嶋郡へ出し、決戦場(姉川)の「後詰め」を行う計画(将軍義昭御内書・細川藤孝奉書などにより)でした。
 それが、軍事行動の一連の計画であり、ストーリーでしたが、結果的にはその通りに進まず、誤算を生じてしまいます。それは歴史が示しているところです。

池田勝正は、この動きの中心的人物でもありました。幕府方を支える中心勢力で、越前朝倉氏攻めでは、3,000の兵を出していました。
 当時の政治制度上、将軍(幕府)が天皇を護っていますので、幕府を支える一勢力であった織田家は、有力な支援者という立場ではあるものの、池田家と制度上は同列です。実際の当時の社会的な見方としては、少し違うと思いますが...。
 そして、その幕府組織の中心で活動していたのが明智光秀で、朝倉氏攻めでは将軍義昭の代わりに従軍していたのでした。その将軍が朝倉方に身を寄せていた時から随行して、事情をよく知っていたからでしょう。他にも何人かの同僚も出陣していましたが、一団を成す程の軍勢ではなく、小規模であり、政治的な立場での従軍だったと思われます。
 ですので、池田勝正と明智光秀は、同じ幕府方の人物として、意思疎通も蜜に行っていたと思われます。また、公家衆一行を警固するための厳重な手配もされていたことでしょう。
 
そんな中で起きた「金ケ崎の退き口」でした。警戒しながらの行軍でしたが、織田信長は、情報に接すると直ぐに、公家衆を警固しながら、京都へ向かいます。これも予定されていた道程を辿りましたが、有力幕臣の朽木氏の領内とはいえ、不測の事態に備える緊張感はあったと思います。
 撤退の追撃を阻むため、幕府勢の主力である池田衆が「殿軍」を努めることになったのは、自然な流れであったと思われます。光秀は幕府方、将軍義昭の側近としてこれに従い、また、織田方からは木下秀吉が手勢を率いてこれを支援しています。この数は、その時の秀吉の経済力からして、池田衆程では無いでしょう。

撤退戦は、緊張感が走ったようですが、実際はそれほど厳しい追撃は無く、被害事態は少なかったようです。5月の上旬までには京都を経て、池田衆は帰城したようですが、次の出陣に直ぐさま備えなければなりませんでした。

6月28日、姉川で合戦が行われ、織田・徳川連合軍は、朝倉・浅井連合軍に苦戦の末に勝利します。その苦戦の理由は、将軍義昭の高嶋郡への出陣ができず、後詰めを欠いたためです。幕府勢の主力であった池田衆が、出陣できなかったためです。
 三好三人衆が、池田家に調略を行い、池田家中で内紛が起きたことによるもので、当時の池田家は、それ程の影響力がありました。
 この時、一方の明智光秀は、将軍出陣のため、高嶋郡や若狭国方面への調整を行っていました。将軍が出陣した際には、再び池田勝正と明智光秀は、行動を共にしていたかもしれません。

池田家中は、6月18日に分裂し、勝正は居城である池田城を追われます。間もなく、一族的な存在であった原田氏の城、原田城も内紛が起きています。この頃、各地の勝正派は、勝正を頼って集まったと考えられ、この一団が京都などにしばらく留まって、幕府方として活動していたと考えられます。
 勝正と光秀も、元亀争乱の難局を乗り越えるため、互いに協力して、活動する場面もあったことでしょう。

越前朝倉氏攻めの詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)




2017年3月29日水曜日

天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重

四天王寺
独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。
 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦の明智光秀・佐久間信盛などを救援するためです。
 この時は本願寺方の勢い強く、天王寺砦の陥落が心配され、非常に切迫した状況でした。既に塙直政(原田備中守)一族など、名だたる武将が戦死し、この勝ちに乗じて、天王寺砦が多数の本願寺勢に攻囲されていました。

以下、その時の様子を『信長公記』から抜粋し、ご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料1)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
(前略)
5月3日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆。2段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄せのところ、大坂ろうの岸より罷り出で、10,000計りにて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て、散々に打ち立て、上方の人数崩れ、原田備中手前にて請止(うけとめ)、数刻相戦うと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討ち死になり。其の侭、一揆ども天王寺へ取り懸かり、佐久間甚九郎、惟任日向守、猪子兵介、大津伝十郎、江州衆、楯籠もり候を、取り巻き、攻め候なり。其の折節、信長、京都に御座の事にて候。則ち、国々へ御触れなさる。
----------------------------------(資料1 終わり)

これは本願寺方が瀬戸内海を通じて、毛利方から補給と支援を受けていた事から、このルートを断つために、織田信長がその封鎖を行う中で起きた闘争です。それについて、再び信長公記の抜粋をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料2)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
4月14日、荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中4人に仰せ付けられ、上方の御人数相加えられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出(砦、以下同じ。)を推し並べ、3つ申し付け、川手の通路を取り切る。惟任日向守・長岡兵部大輔両人は、大坂より東南守口・森河内両所に、取出申し付けられる。原田備中守は、天王寺に要害丈夫に相構えられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘(かか)え、難波(なにわ)口より海上通路仕り候。木津を取り候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の在所を取り候へと、仰せ出さる。天王寺取出には、佐久間甚九郎正勝、惟任日向守光秀おかれ、其の上、御検使として、猪子兵介、大津伝十郎差し遣わされ、則ち御請け申し候。
(後略)
----------------------------------(資料2 終わり)

楼の岸跡
そんな中での想定外の出来事が起き、織田信長はこれに緊急対応した訳です。信長はこういう時、対応が非常に迅速ですし、自ら先頭に立ち、戦死も厭わず行動します。
 対応が遅ければ相手が有利になりますし、第2・第3の被害が自軍に及び、益々状況が悪化します。心理的にも不利になり、戦意が萎えます。

信長は、原田備中守が戦死した事を知ると、直ぐさま陣触れを出し、京都を発ちます。河内国若江城に入り、ここで情報収集と準備を整えます。これは天王寺砦の後詰めの役割りも兼ねます。若江から天王寺までは、ほぼ直線に真西の方向で、距離も2里(8キロメートル)余りの至近距離です。この時の様子です。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料3)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
5月5日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔(わず)か100騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ候と雖も、俄懸の事に候間、相調わず、下々の者、人足以下、中々相続かず、首(かしら)々ばかり着陣に候。然りと雖も、5、3日の間をも拘(かか)えがたきの旨、度々注進候間、攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、
(後略)
----------------------------------(資料3 終わり)

公記にもあるように、出陣が急な事であり、人数が揃いません。現代の信長イメージとは少し違うような感じがしますね。
 この時期、信長は政治的にも優位に立ち、社会的地位も上昇させ、全体の戦況も余裕が無かった訳ではありません。それでもこのような状態ですし、信長といえどもいつでも行動の強制ができる訳でもなかったようです。
 信長は勝たなければならない「戦」には「必ず勝つ」という事を強く認識し、その通りの結果をもたらします。また、救わなければならない対象も同じで、見捨てる事もありません。
 この時も、その通りの行動を取り、味方を救援に成功します。そして、2次被害も何とか食い止める事ができました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料4)----------------------------------
清水坂(この付近では良質な水が湧く)
【御後巻再三御合戦の事】
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意に候。
 爰にて、各々御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く寄り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は二段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大阪城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の砦々に、10ヶ所の付城仰せつけらる。
 天王寺には佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
(後略)
----------------------------------(資料4 終わり)

しかし、こんな時に荒木村重は、軍議の席で織田信長の作戦構想に異儀を立て、独自の見知を述べて、信長に認めさせます。
 この時、村重にとっても当面の危急は脱した状態で、さ程の苦しさ(政治・軍事的に)は無かったと見られますが、なぜこのような態度になったのでしょうか。

この頃、村重はそれまでの「信濃守」から「摂津守」の官途を叙任しており、これは信長の計らいや尽力もあった筈ですが、「それとこれとは別」といった態度にも見えなくはありません。
 織田政権の緊急事態に応えてこそ、日頃の恩に報いる事だと一般的には感じますが、村重には村重の立場があり、視点と考えがあったのでしょう。また、敵の数が多く、苦戦が予想されるため、自分の側の被害を避けたりする事を考えたのかもしれません。
 村重はこの2年前、摂津国内の中嶋・崇禅寺付近で合戦を行い、大きな損害を出しています。同じ事を繰り返す訳にはいかないと、考えていたかもしれません。

いずれにしても、村重は信長の命令を断り、後詰に徹する旨を述べ、尼崎から北野田、木津方面にかけての北方向から本願寺に備え、西方向にも警戒する陣構えを担当することになりました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料5)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
5月7日、御馬を寄せられ、15,000ばかりの御敵に、纔(わず)か3,000ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備えなされ、住吉口より懸けらせられ候。
 御先一段 佐久間右衛門尉、松永弾正(山城守)、長岡兵部大輔、若江衆。
 爰にて、荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、我々は木津口の推へを仕り候はんと、申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はで御満足と仰せされ候へき。
(後略)
----------------------------------(資料5 終わり)

摂津国内での合戦ですし、役割りからして村重が主たる軍勢を担うのは、当然の事だったと思います。
 しかし、村重のこの時の行動が不自然にも感じられ、後に村重は信長に対する謀反を起こした事から、『信長公記』の作者である太田牛一は、対比的に扱い、その出来事を特記したのかもしれません。

とに角、信長はこの緊急事態を打開しなければならない事を強く意識していましたので、自ら先頭に立って指揮する事を決します。そして、何とか危急を脱する事はでき、明智光秀や佐久間正勝などの武将は討死を免れました。
※信長公記(新人物往来社)P195

(資料6)----------------------------------
安居神社から北方向を望む
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰(ここ)かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣き、上意に候。爰にて、各御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く取り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は2段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の塞々(とりでとりで)に、10ヶ所の付城仰せつけらる。天王寺には、佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定盤として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、まなべ七五三兵衛・沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
 6月5日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊まり、次の日、眞木嶋へお立ち寄り、井戸若狭守に下され、忝き次第なり。二条妙覚寺に御帰洛。翌日、安土に至りて御帰陣。
 (後略)
----------------------------------(資料6 終わり)

それからまた、「天王寺砦とはどこか」という事ですが、わかりやすくまとめられている資料がありますので、ご紹介します。
※大阪府の地名1-P681

(資料6)----------------------------------
勝鬘院の多宝塔
天王寺砦跡(天王寺区伶人町・逢阪1丁目)
織田信長が築かせた城。城跡については月江寺付近とする説(摂津志)があるが、四天王寺の西、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端に北ノ丸、中ノ丸、南ノ丸の小字が残り、この地は西が急崖で城地として最適の条件にある。江戸時代中頃とみられる石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)にも、四天王寺に西接して「サクマ玄蕃サカイノ道ヲフサク」と記されている。
 天正4年(1576)3月、本願寺顕如は織田信長に反旗を翻し、石山本願寺に籠もって抗戦を始めた。信長は明智光秀・細川藤孝・原田直政・荒木村重らに命じて攻撃態勢を整え、天王寺口の攻め手を原田直政として城砦を構えさせた。
 本願寺側が木津(現浪速区)と楼ノ岸(現中央区)に砦を築いて、木津川を通じて海上と連絡をとっているのを知った信長は、まず木津川口の占拠を命じ、同年5月3日、原田直政・筒井順慶らに攻撃させた。しかし本願寺門徒の勢力は強く、木津川口の戦で原田直政は敗死、直政にかわって天王寺には明智光秀が布陣した。
 敗戦の報を受けた織田信長は、京都を発って、若江城(跡地は現東大阪市)に入り、5月7日には若江を出て天王寺へ救援に向かった。『信長公記』には「天王寺砦」とあるので、まださほど堅固な城郭ではなかったとみられる。信長は激戦の後、天王寺砦に拠る明智光秀と合流することに成功、門徒勢を石山本願寺の木戸口まで追撃したが、その堅塁を抜くことはできず、長期包囲戦術をとることにした。
勝鬘院に隣接する大江神社の坂
天王寺砦の増強も図られ、早くも5月9日、信長は摂津国平野庄(現平野区)中に「天王寺取立之城普請」のため用材などについて奔走するよう指令している。
 天王寺砦には佐久間信盛・同正勝父子と松永久秀が定番として詰めたが、翌5年8月、松永久秀の背反後は佐久間父子がもっぱら当たることとなった。大軍による長期の攻撃にもかかわらず、信長はついに武力で石山本願寺を落とすことができず、正親町天皇の調停という形で前関白近衛前久らを勅使として本願寺に派遣、和議によって石山を退去させようとした。和議の約定が成立した天正8年3月17日付けで信長は血判した覚書七ヵ条(本願寺文書)を出したが、その第二条で、顕如らが石山本願寺から退去するに先立って、まず信長方の軍勢が「天王寺北城」(天王寺北方にある信長方の付城)から撤兵し、近衛前久らと入れ替わると誓っている。
 和議が成立し、顕如は4月9日、紀州鷺森へ去り、退去を拒んでいた教如らも、ついに8月2日、信長に石山本願寺を明け渡した。その直後の8月中旬、信長は天王寺城の定番である佐久間父子の罪状ををあげて剃髪させ、高野山に追放した。罪状の冒頭で、佐久間父子が天王寺城に在城した5年間になんの戦功もあげず、「取出」(天王寺城)を堅固にさえしておればやがて信長の威光で退散するだろうと考えていたのは、武士道にもとるものである、と叱責している点が注目される。佐久間父子の追放後、天王寺城は壊された。
----------------------------------(資料6 終わり)

若江城跡
村重は、天正4年4月までは、天王寺砦にも出入りしていた可能性もあっただろうと思いますが、5月の軍議は、河内国若江城で行われたようです。また、信長公記では「住吉口」から天王寺の本願寺勢を攻めたようです。軍議の後、配置につくために各所へ進んだと思われます。村重は、河内国内を北上し、摂津国内へ入って木津川口へ向かったと思われます。

この天王寺での合戦の約2ヶ月後、足利義昭を奉じた毛利輝元勢が大船団を組んで、大坂の本願寺方に物資を搬入。この時、木津川口にて大海戦があり、織田方は大敗を喫します。村重も水軍を率いてこれに参戦しているようです。
 詳しくはわかりませんが、村重は早い段階からこの毛利方の動きを掴んでいたため、天王寺砦の戦いでは、木津川口や北野田方面を固めることを具申したのかもしれません。
 上記で記述の、村重が信長の命令を請けなかった理由のもう一方の推測としては、これも成り立つかもしれません。本質的には、村重に下された官途である「摂津守」の意味は、やはり摂津国の知事ですから、その中で起きる事については、主体的に行動することが求められ、期待されることが一般的感覚だったと思います。その意味では、村重のこの行動が、少々の不審を買ったことも否めないのではないかと思います。

この後の約2年間は、織田方の瀬戸内海の制海権はやや不利となり、一方の本願寺方にとっては物資補給のメドも立ちました。両軍共に、作戦の再構築が必要になったようです。


2010年1月20日水曜日

明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

明治時代中頃の地図
東大阪市森河内(現西・東の長瀬川沿い)というところは、今や都会の一部ではありますが、このあたりは非常に昔の面影の残る貴重な地域です。
 この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本願寺(城)にも近く、本願寺宗の影響力の強いところでした。そんな立地から、戦国時代には度々この森河内が拠点として利用され、争奪戦も繰り広げられています。

摂津国の戦国大名荒木摂津守村重も三好義継が自刃した天正元年(1573)以降、中河内地域から北側を領有している事から、村重と森河内地域も村重と何らかの関連を持っているかもしれません。

さて、いつものように、先ずは、大阪府の地名2(平凡社)にある「東大阪市」の森河内村の記述を抜粋してみます。
※大阪府の地名2-P981

(資料1)-------------------------------
森河内村(現東大阪市森河内:本通1-3丁目、西1-2丁目、東1-2丁目、森河内、古川町、島町)
森河内村域東部に見られる旧家
河内国若江郡に属し、東は稲田村・川俣村。大和川付替えまでは、新開池から西流してきた流れに村の北東で楠根川が、北西部で長瀬川が各々合流していた。「私心記」の天文3年(1534)3月10日条に「御厨・杜河内セメ落候」とある。同年10月11日条には「河内(丹下備後)森河内へ陣取候」とみえ、同月20日条によると細川晴元方と石山本願寺(跡地は現中央区)との合戦が「森河内之南」で行われている
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣した(譜牒余録)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳・天和元年(1681)河州各郡御給人村高付帳いずれも高582石余で幕府領。
 宝永2年(1705)から、大和川付替えで水量の減少した長瀬川の川床に新喜多新田が開発され、村域が二分された。元文2年(1737)河内国高帳では高438石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)。幕末にも幕府領。
 楠根川の在郷剣先船を元禄5年(1692)には1艘所有していたが、享保5年(1720)には既に手放していた(布施市史)。産土神は八幡神社、真宗仏光寺派竜華山称光寺・同派宝樹山法林寺・融通念仏宗寿量山圓通寺がある。
-------------------------------(資料1おわり)

それから、森河内村の産土神は八幡神社のようですが、その社伝によると、本殿は室町時代末期まで遡るとの事で、村人は勿論、村に陣取った明智光秀など、武将も武運を祈願して詣でたかもしれません。
 また、上記(資料1)に見られる「私心記(ししんき)」とは、本願寺宗の中核的な寺であった順興寺(じゅんきょうじ:現枚方市)の実従(さねみち)の日記で、その実従は、蓮如上人の末子にあたる人物です。
この私心記に、森河内方面であった合戦の様子が記述されているのですが、天文年間(1532-55)の始めの頃は、時の管領(将軍の執政職)細川晴元が、法華宗徒や本願寺宗徒と戦いを繰り広げ、「天文法華の乱」などとも呼ばれる、京都とその周辺で政治と宗教の集団が武力で争い合うという、大変な混乱があった時期でした。
 軍事的劣勢を補うために、管領細川晴元が本願寺宗を味方につけて、敵を制圧したのですが、今度はその本願寺宗と晴元が対立し、それに対抗するために晴元は、法華宗と手を結んで制圧しようとします。
 そして何と、それから間もなく、その法華宗とも晴元は対立し、弾圧するという、もの凄い歴史です。

そんな中、森河内方面の記述が「私心記」に見られます。それらは天文3年(1534)の記事として記録してあります。
※石山本願寺日記-下-P227、232

(史料1)-------------------------------
3月10日:
御厨屋・森河内攻め落とし候。又、やがて摂津国天王寺へ廻り候。(同国)高津展渡辺焼き候。
10月11日:
河内(註:丹下備後守)森河内へ陣取り候。早々也。見物する也。
10月20日:
早々より河内国へ敵出張候。此の方より民部少輔打ち出し候。玄蕃頭同前。仍って森河内之南方於合戦。利運也。敵数輩打ち取り候也。(後略)。
-------------------------------(史料1おわり)

森河内村の東側に通る南北の道
また、同じ頃、森河内に接するようにある摂津国欠郡(東成郡)左専道村の記述も見られます。天文3年(1534)の10月13日の事として記録してあります。この時、左専道は河内国に属すような記述になっていますが、勘違いや書き間違いかもしれません。
 ただ、戦国時代は国境や郡境が、勢力の強弱などにより動きますので、もしかするとこの頃の左専道は河内国に含まれていたかもしれません。天王寺領新開庄に含まれ、一体化していれば、国境の判断は迷うところですね。
※石山本願寺日記-下-P232

(史料2)-------------------------------
上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
-------------------------------(史料2おわり)

左専道村を東西に走る道
実は、筆者はこの左専道村に生まれ育ち(父の代で移り住んだ)、母方の祖母が森河内の新地に住んでいましたので、このあたりの地理には詳しいのです。
 しかしながら、『地名』にある、詳しい歴史の流れについて、小さな頃から知っていた訳でもありませんので、近年になって知り得た事もあります。
 私が聞いた話しとして、両親が結婚した昭和39年(1964)頃、上記にある明治時代の地図のように、まだ多くが田畑だったようです。その後の経済成長で、この地域も急速に街の様子が変わった事が窺えます。

さて、上記の古地図からも判るように、森河内村と左専道村は接するように集落があるのですが、その間を割るように街道があり、それが中高野街道(放出街道)で、この道が摂津・河内の国境にあたります。
中高野街道(放出街道)
地図は北を上にして、西側が摂津国で、その東側が河内国です。大和川付替え以前は、長瀬川の水量が多く、森河内村の新地は大和川開削後の開発で開かれたりして、様子が変わったようです。

ちなみに、森河内村と関係が深い左専道村についても『大阪府の地名1(平凡社)』の「大阪市城東区」にある記述を紹介しておきます。
※大阪府の地名1-P630
 
(資料2)-------------------------------
左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目)
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
大阪市指定の保存樹
文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。
 元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された
 享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。
後藤山不動寺
後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。
不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。
 万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
-------------------------------(資料2おわり)

上記(資料2)の文中にある、「南方にある12間四方の墓地は」とある部分、左専道の旧村域の南側にはそのような墓地は見たことがなく、「北方」の間違いではないかと思います。明治時代の地図にも集落の北西端に墓地の地図記号が見られ、南にはありません。

そして、これら両村の歴史を見ると、重要な街道を接し、また、大河にも接していた事で、水路の利用もしていたとの事で、水陸の要衝であった事がわかります。また、江戸時代を通じてほぼ幕府領で、時代が変わっても要地として把握されていた事がわかります。

時代は降って、織田信長の時代。この時の本願寺宗は、自衛的戦争を織田方(室町幕府が機能していた頃に始まった。)に対して起こします。この戦争は、その勃発から10年の長期戦になりますが、その時も森河内は重要な拠点となり、両者の争奪戦となっています。
 ちなみに、森河内は本願寺宗の本拠である大坂を守るための支城としての機能を果していました。その時の史料を一部、ご紹介します。天正5年と考えられる、10月20日付けで、織田信長から筒井順慶に送った音信です。
※織田信長文書の研究-下-P324、(新)大阪市史5(史料編)P196
 
(史料3)-------------------------------
(明智)惟任日向守光秀用所申し付け、自余(他所、丹波国)へ差し遣わし候。一途(いちず:決着する)之間、森・河内城之方に自身相越し、用心等堅固に覚悟せしめ、摂津国大坂へ通路並びに夜待ち以下の事、聊かも油断あるべからず也。
-------------------------------(史料3おわり)

融通念仏宗寿量山圓通寺
(史料3)は、奈良興福寺の衆徒から戦国大名化した筒井順慶についての史料です。文中には、「森」「河内」と分けて記されているのですが、この頃、森口(現守口市)と森河内に陣を構築しており、両所の事を同時に言っているのかもしれませんが、単純に「森河内」かもしれません。いずれにしても森河内は、この頃までには織田方の配下ですので、そのように理解しても差し支えは無いと思います。

次ぎにまた、関連史料をご紹介します。天正6年(1576)と思われる11月3日付けで、明智光秀が、所属不明の佐竹出羽守某宿所へ宛てて出した音信です。
※亀岡市史(資料編2)P28

(史料4)-------------------------------
来る12日、南方に至り御出馬されるべく候由、仰せ出され候之間、丹波国亀山之普請相延べ候。然者油断無く陣用意専用候頃、鉄砲・楯・柵・縄・俵之儀、10日以前に河内国森河内に相着かれるべく候。我等は11日に彼の地へ罷り越すべく候条、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
-------------------------------(史料4おわり)

この頃には森河内に、更なる強固な陣を構築しようとしている様子がわかります。柵を巡らせ、俵や楯を並べた陣地を作ろうとしていた事がわかります。また、鉄砲も配備していたようです。
 光秀は、佐竹出羽守某にそれらを11月10日までに森河内に運び入れるよう指示し、光秀自身が翌11日に着いたら、作業を始められるように、段取りを組んでいたようです。

現在の長瀬川(東向)
戦国武将として有名な明智光秀や筒井順慶も森河内村に入っていたことは、これらの当時に書かれた手紙(史料)から確実です。やはり前述のように、ここは重要な街道を通し、水運も押さえる必要から、名だたる人物を入れて管理しています。
 また、私の研究の領域外ではありますが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣しているようですね。

この森河内・左専道あたりは最近、住宅の建設も盛んになりつつありますので、急速に町並みを変えつつあります。景色が一変する前に、ご興味のある方は、散策されてもそういう中世の面影を楽しめると思います。