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2023年4月29日土曜日

『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える

 摂津佐保城と同佐保栗栖山城について詳しく見る中で、その調査報告書には、非常に気になる指摘がされていました。個人的にも永年興味を持っていた中世の民俗学的なところであり、発掘調査報告書にも述べられている「人質」や、14ある曲輪の内、主たる構成要素であるものの曲輪1のみが火災を被った跡が確認された事には、注目しています。この、全体ではなく、一部の火災であるという状況は、「自焼」では、ないでしょうか?

【過去記事】佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

これらについては、『戦国の作法』(藤木久志著:平凡社)に、興味深い研究成果がみられ、上記の調査報告書にある要素を補うものになるように感じています。
 例えば、「人質」について。織田信長に擁立された将軍義昭政権は、朝倉・浅井氏攻めから戻った後、事態の深刻度から、五畿内の主立った武家から人質を取っています。元亀元年5月上旬のことです。この時点に於いて発足して間もない将軍義昭政権は、なおの事、権威を基にした「人質」政策を打ち出す事が度々あったと思われます。
※信長公記(新人物往来社)P102

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◎越前手筒山攻め落とさるるの事
(前略)4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)さて、京表面々等の人質執り固め公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)
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また、織田信長から毛利元就への音信の中で、習いに則りそれぞれ人質を取ったと述べています。
※織田信長文書の研究-上-P409

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(前略)一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条(後略)
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これらの記述は、民俗学的観点で藤木久志氏が、中世の「人質」について、研究成果を示されています。
※戦国の作法P54

中世の町の復元例(三重県四日市市)
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◎身代わりの作法・わびごとの作法
中世の村は、破壊的な暴力の回帰や反復を避けるために、いったいどのような主体的な能力や作法を備えていたか。中世を通じて様々な紛争の庭で、そのはじめの段階にみられた「言葉戦い」という挑戦の作法(武装に先行する言技)も、その一つであったが、ここでは更に、紛争の解決の過程に特徴的に見られる「身代わり」や「人質」の作法、その最後の段階によくみられる「わびごと」や「降参」の作法、などについて調べてみよう。
 少なくとも15〜16世紀を通じて、中世の村が次第に自前の紛争解決能力を高めていたことは確実で、例えば、村という共同体のために払われる個人の犠牲に対して、村が集団として補償や褒美などを与える慣行を成立させていた事実は、よい例である。近世で「村請」の母体となる、自立した村の確かな原型がここにある。
 さて、中世の犠牲と言えば、私たちは服従や講話を誓う契約の証しに、しばしば童子が人質に取られ、童女が政略結婚の犠牲になったという話しを、歴史の悲劇や戦国ロマンとして、よく知っている。また、現代のハイジャック事件のような、荒っぽい人質取りも、ごく日常的に行われていた。
 更に、殺人事件の処理にさいし、被害者側に加害者 = 下手人本人ではなく、加害者の所属する集団メンバーの誰かを、解死人(げしにん)として引き渡し、被害者側はその謝罪の意思に免じて、原則として処刑しないという習慣があり、この解死人にも、よく子どもや集団内部の弱者が選ばれた、という興味ある事実も知られるようになっている。
 こうして様々な紛争解決の庭で、人質や身代わりに子どもや集団内部の弱者を立てる習わしは、その根本で一つにつながっていたのではあるまいか。いったい「質取りや「身代わり」の習俗は、中世後期の社会にどのような特徴をもって広がり、その底にはどのような意味が秘められていたか。
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この前提を基にして、個別の事例が紹介されており、関連する文節を上げてみます。
※戦国の作法P61

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(前略)つまり武家も寺家・公家も村人も、ともに質取り行為をしていたいのである。質取りというのは、この荘園の世界 - おそらくは広く中世の社会で、ごく普通に行われる紛争解決の一手段であったに違いない
 質取りされた人々はふつう「人質」「囚人」などといわれ、質取り行為は「留置」「搦取」「質取」「生取」「召取」「召籠」など様々に呼ばれている。まさにその言葉通り、人質にされる村人は武力で無理やり生け捕られ、既出の例のように縄でしばりあげられ、警固をつけて召し籠められる囚人で、例Gでは、要求をいれなければ斬り殺すぞと脅迫されている。
 だが、逃げ出して捕まり、殺されそうになった場合を除けば、人質があっさり殺されてしまった例は一つも見られない。このことは重要である。しかも、ただ身代金が目当てらしい、例Fを除けば、男女の区別もなしに無差別に質取りされるわけではなく、また、例B・Hのように、人質の資格なしとして釈放された例もある。この野蛮な中世の質取りにも、どうやらそれなりの作法 = ルールがあったらしいのである。(中略)
 これらの事例は、武家などによる質取りといっても、全く無差別に強行されたわけではなく、その背後には、目的に適った質取りの作法がひそんでいた、という事実をよくうかがわせてくれる。(後略)
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詳しくは、『戦国の作法』をご覧いただきたいのですが、紛争解決の手段として、人質を取るという事は、交渉の保証であり、当時の社会感覚として普通の習慣であった事が、解かれています。
 一方、「自焼」についても、非常に興味深い視点で藤木氏が解き明かしています。例えば、1515年(永正12)播磨国鵤庄の平方村での事件を紹介して説明しています。
※戦国の作法P83

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(前略)永正12年(1515)播磨鵤庄の平方村で、この庄の衆が不慮の喧嘩から守護方の衆一人を殺すという事件となった時にも、円満な解決を願うこの庄では、「解死人ヲヒカセ、在処ニ煙ヲ立、...礼ニ出」るという、一連の手順を踏んで詫びを入れた。たんに解死人一人を出せば済んだわけではない。
摂津原田城の古写真
 「在処ニ煙ヲ立」てたというのは、近江国菅浦の例で「煙をあげ」たのと同じ作法であろう。この庄では「少家一ツ、二百文二カウテ、ヤク」と書き留めているから、「在処」つまり事件現場の村で「」を「焼くのが謝罪の儀礼であったらしく、そのためにわざわざ小さな家一軒買い求めているのである。「礼ニ出」たのはこの庄で図師代の役をつとめる有力名主の一人であったが、「解死人ニハ、兵庫ト云者二、料足スコシトラセテ」遣したというから、別に解死人(名前からみて、あるいは村の乞食か)も、金で雇っていたわけである。(中略)
 「礼儀」に出頭する名主の全員が、まず名主の家格のシンボルであった家門を焼き、ついで本人自身も人格のシンボルである髷を剃り(おそらく名前も変え)、「黒衣・入道」の法体になって、村の神社に趣き鳥居の前で、相手方の名主たちに謝罪の礼をとるというからには、この作法にも、刑罰や処分というよりは、むしろケガレをはらう儀礼の色が濃厚である。
 また、百姓の家を「年老次第」に30軒選んで放火するという処分も、おそらくは「家」を基準として、年齢階梯の形で編成された「村」の、百姓たちの正規の成員たる資格 = 家格のシンボルであったに違いない。その意味で、この「村のわびごと」の作法は、解死人の儀礼とも深いつながりを持っていたといえよう。(後略)
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そして更に、次のような史料があります。1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌に連動して、非常に関係の深かった同国原田氏の家中でも内訌が起きました。その折、原田城を「自焼」という記述が見られます。
※言継卿記4-P440

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(前略)一、原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
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原田右衛門尉銘一石五輪塔

詳細は不明ではありますが、摂津原田家中での内訌の結果、自らの城を焼いて、三好三人衆方の池田家へ加担したようです。この前々月の6月、池田家中で内訌後に城を出た、惣領の池田筑後守勝正は、一旦、原田城に入っています。その重大事態に、原田城に入るのですから、相当に深い関係です。そしてその直後に、その原田城で、この状況に至ったのですから、原田氏の大半は三好三人衆方の池田家へ加担することを決めたという事態から起きた、「自焼せしめ、池田へ加わり云々」だったと思われます。

それから、補足として、宣教師ルイス・フロイスの当時の上司への報告書や晩年にそれらの出来事を回想し、日本についての叢書をまとめた『フロイス日本史』の中から、関連する記述をご紹介します。
※耶蘇会士日本通信 下

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◎1571年(元亀2)9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡
(前略)彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。
 此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。(後略)
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また以下は、フロイスの晩年の編纂による叢書『フロイス日本史』です。これは『耶蘇会士日本通信』の発信当時には知り得なかった事、理解できなかったことを補足してあります。
※フロイス日本史(中央公論社刊)

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◎第1部94章 和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について
(前略)和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした。(中略)
 和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
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このように『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』での見解は、私の中では、以前からの興味とも接点があり、非常に示唆に富んだ内容でした。

藤木氏の研究などにより、『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にあるところの、「建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)」とは、儀礼的な「自焼」であり、「このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。」とは、その想定通りに「人質を収容する曲輪」だったのではないでしょうか。
 宣教師ルイス・フロイスの記録のように、和田惟政は統治の日が浅く、また、他国人でも有り、地域とのつながりも、信頼関係も構築し得なかった。それ故に、権力による統治を並存させなければならなかった。
 更に言えば、これらの条件が揃う時期、発掘調査から導き出された時期を考慮すれば、佐保来栖山城は、1571年(元亀2)8月の白井河原合戦に関わる経緯を持った、幕府方の地域拠点城であったように思われます。

民俗学の分野は、私のこれまでの記事には取り上げていませんでしたが、事象を理解するには、非常に有用であり、改めて民俗学の重要さを認識した次第です。今後とも民俗学を含め、様々な見聞を拡げていきたいと思います。


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2022年8月13日土曜日

摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)

16世紀後半の推定復元図
16世紀後半の推定復元図
摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。
 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に、簡潔にまとめられて分かりやすいので、こちらから抜粋してご紹介できればと思います。

摂津原田氏とその城について考える」という、特集も中途半端に終わっており、これを機に、完成させたいと思います。

原田氏は、能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場するのが、1279年(弘安元)のようで、池田氏とほぼ同時期に頭角を表して来るようです。原田氏は北から南下、池田氏は南から北上して、最終地に定着するという、イメージです。また、応仁の乱を経て、次第に経済・軍事力の差がつき、池田勝正が池田家の惣領となる1563年(永禄6)頃には、池田家の被官的情況に変化しています。また、池田勝正も原田城に度々入っていて、池田とは一心同体の存在であったようです。姻戚関係なども持っていていたのかもしれません。非常に親密な行動を互いに取っており、池田城が攻められたり、落城する時には、運命を共にすることも多くありました。

個人的に思うのは、推定復元図は印象的ですが、私が史料を見ていく中では、若干違和感も感じなくは無いです。しかし、どこかの情況で、このような視覚化は必要ですから、その均衡を保つのは至難とも言えますね。それもこれも、科学の継続が答えを出してくれることでしょう。兎に角、今後に期待です。

さて、そんな原田城について、以下、案内パンフレットの内容です。
※文章・絵・写真の全ては、案内パンフレットからです。

◎はじめに
原田城跡(北城)は、1963年(昭和38)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、1987年(昭和62)の豊中市文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世城館です。
 「城」というと、天守閣がそびえ立つ江戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージすることでしょう。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭ではなく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものです。


◎北城と南城

原田村には、北城と南城という二つの城がありました。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれています。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認され、その範囲と位置が推定されています。
 一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれています。北城についても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきました。

◎北城の構造

北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地します。その丘陵の東側には、南北140m・東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされています。丘陵先端にある約50m四方の主郭部は、荒木村重の乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行って守りを固めています。
出土した巨大な堀跡
 主郭部の内側には、現在でも高さ1.5m〜2.8m・幅5〜10mの土塁が残っているほか、東側と南側にもその痕跡が確認されています。
 主郭内部の発掘調査では、数多くの柱穴や疎石痕が確認されており、土豪の居宅に相応しい家屋が建てられていた可能性があります。また、焼けた壁土や廃棄された土坑、3層にわたる焼土層があることから、数回の火災があったと考えられます。
16世紀後半:荒木村重の乱の頃

◎北城の築城と原田氏

原田氏は、1279年(弘安元)に能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場します。一方、北城は13世紀後半から14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。
 1344年(康永3)に、原田氏は大炊寮(おおいりょう)の所領である六車御稲(むぐるまみいな)の年貢を押領するなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長すると共に、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれていくことになります。
16世紀中葉から後半頃の勢力図

◎北城の廃城とその後の原田氏

1547年(天文16)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は、その敵である細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は廃城し、興廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。
 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。1994年(平成6)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。
 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後国直入(なおいり:大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。

◎原田城跡のもつ意義
戦国時代には、織田信長のように華々しい活躍が伝えられる武将が多くいます。それら戦国武将の活躍を支えた人々の中には、中世の村を基盤に活動する土豪たちがいました。原田氏も、戦乱の世に生きた土豪の一人でした。
 このような土豪たちは記録の中に数多く見出され、豊中市内では芝原(柴原)・熊田(熊野田)・利倉など、村の名前を冠した土豪が知られています。彼らが活動の拠点とした城館で、堀の配置が復元できる事例は、大阪府内では原田城跡以外にはあまりなく、さらに城主である土豪とともに城館の変遷がわかるものは、今のところ他に見られないことから、原田城跡は非常に貴重な史跡であると言えます。


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2015年2月11日水曜日

摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
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三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
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明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。





2012年2月15日水曜日

摂津原田氏とその城について考える(はじめに)

摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の豪族原田氏、そして、その原田氏の居城であった原田城については、中々資料がありませんね。
 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているように思います。また、今西家文書などもしっかりと再検討の視角を設けて、新たな手法で提起したりするなど、大変すばらしい活動を続けていると私は感じています。また、発掘も地道に続けられ、成果も積み上げられています。

私は池田勝正との関係で、原田城と原田氏を見ているのですが、その時代の動向については、直接的な史料は、あまり多くはありません。しかし、その数少ない史料を見ると、興味深い事が判ります。
 勝正が当主となるころには、家格の差と共に経済的な差も開き、池田周辺の豪族はそこに引き寄せられるカタチで被官化していたようですので、原田氏もそういった関係となっていたのだろうと思います。

先に述べたように、原田城は原田氏の城ですので、その大きさやカタチは、原田氏の立場や役割に相対しています。ですので、物理的な発掘で判ることと、文献から見える原田氏の活動の両方を見る事で、正確にその事象や事柄(発掘された遺物も含め)の意味が捉えられるという訳です。

原田城と原田氏は、池田家との関係も深いため、その動きを追う中で、原田氏とその城の事も少し様子が判るようになると思います。
 それらを順に説明したいと思いますが、分かりやすくするために城と原田氏を分けて、私の調査結果(終わり無く進行中ですが...)をご紹介したいと思います。ご興味のある方はご覧下さい。

それらの説明を、以下の要素から説明したいと思います。
 
(1)摂津原田城について その1:元亀4年(1574)以前
(2)摂津原田城について その2:天正元年(1574)以降
(3)考古学・発掘調査から見た原田城
(4)摂津原田氏について
(5)戦国大名中川清秀に仕官した原田氏について