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2010年12月22日水曜日

元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路

元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。
 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。
 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵の前衛拠点制圧を目的として、最低二筋に分かれて決戦地点まで進みます。

ですので、22日に近江国高島郡田中城に入った後は、ここから二手に分かれて進軍したと個人的に想定しています。
 というのは、元々浅井方の動きを知るためのもので、高島郡から西近江街道を進めば、越前国境まで浅井領内を進みます。この行動に対して反応するかどうかを試したのではないかとも考えています。また、浅井勢が北上した時にこれを察知して食い止める必要も有り、西近江街道に軍勢を入れておく必要もあったと思われます。
 もちろん、疋田城ほか、抵抗する拠点を制圧・攻囲する必要もあります。また、湖北は、今津・海津など要港があり、これも視野に入れつつ、実際的に補給の事も考えておかなければいけません。

さて、池田勝正はこの二つの内、どちらを進んだかです。

現在もそうなのですが、軍隊は地域性を帯び、やはり織田信長の軍勢の最小単位もやはり、一族衆単位です。この当時の軍隊はそういう編成になっているようで、池田衆は幕府から出した軍勢として位置づけられています。摂津守護職を受けている家ですから当然でしょう。
 この時、池田衆は3,000の兵を出しているのは、当時の史料からもわかりますので、それは中核といっても良い勢力です。また、信長にとっても尤も信頼の置ける部隊のひとつでしたので、そばに置いたか、敢えて、幕府衆として西近江街道を進ませたかは、今も判断に悩むところです。
 しかし、この時の事に関する若桜国方面での記述では、信長や徳川家康についての記述が多いように見えますので、勝正など幕府衆は信長に随伴していなかったかもしれません。

それからまた、高島郡で陣を取った時、この地域は浅井方の勢力も入り込み、幕府方などの勢力と拮抗していた地域であったよです。
 元亀元年早々の諸国大名宛てに公武参内を促す触れ状に、「西佐々木七家」とありますが、この西佐々木七家の惣領家とされる佐々木越中家の本拠と考えられる清水山城を宿泊場所に選んでいません。ちなみに田中城は、割と大きな安曇川を境として南側にあります。
 今後、調査が進めば田中城と清水山城との関係がはっきりするのかもしれませんが、しかし、こういった環境やその行動から見て、この安曇川が勢力の境だったのでは無いかとも考えられます。

広い平野となっている高島郡安曇川で軍勢と物資を集めたと思われます。ここで敵と味方の政治的な判断を行い、信長は若狭方面へ進みます。また、若狭でも軍勢を集めており、伝わるところによると、ここで兵の総数が50,000(全体を合わせてだと思います)になったとしています。
 さて、それを見越して、安曇川の平野に控えを置き、途中の補給が無い、西近江街道を進む一隊に半分以上を預け、大軍を維持させて示威行動を取らせたのではないでしょうか。
 途中に人数を割く計算もあると思いますが、信長は常に大軍を準備し、その圧倒的な数で敵の戦意を削ぎ、交渉に持ち込む事が常套手段です。ですので、この時もその常套手段を用いて目的遂行を続けたと思われます。
 西近江街道を進む一隊は、疋田城を囲みます。ここを攻める必要は無く、釘付けにさえしておけば良いところで、その事で、浅井勢が塩津街道から北上すれば、ここで食い止める事と、動きがいち早く察知できます。ちなみに、北国街道もありますが、この時は浅井勢がこれを使っても意味はありません。

史料を見ると信長は、用意周到に準備を行い、行動しています。カケのような事はほとんどしません。カケのように見える行動は、永禄12年正月の三好三人衆勢力による京都本圀寺攻めの時や天正4年の本願寺合戦の折に原田直政が戦死した戦いなどがありますが、数としては少ないです。
 それは大抵、守りの戦いで、全体がひっくり返る程の状況ではありません。手当を間違えば、大きな損害になると考えた場合には、自ら迅速果敢に行動しています。そういった事は全て、政権主導者として必要な事を行っているのであって、時と場所を機敏に捉えて、信長は過不足無く周到に行動しています。

よって、この元亀元年の越前朝倉攻めは、後年にドラマチックに描かれていますが、こういった信長による用意周到な計画と行動によって、相手の行動も当然ながら想定されており、勝正の行動もそれに沿ったものだったと考えられます。

まだ、調べ足りないところもあるのですが、今のところそういった状況も想定できるのではないかと考えています。