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2016年11月10日木曜日

荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?

天正7年(1578)12月16日、京都六条河原で行われた荒木村重一族・重臣家族の処刑に、瓦林越後守娘(北河原与作女房)の名が見られます。以下、その処刑の時の様子についての資料をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P280

(資料1)------------------------
【伊丹城相果たし、御成敗の事】
(前略)
12月16日、辰の刻(午前7〜9時)、車1両に2人づつ乗りて、洛中をひかせられ候次第。
1番(20歳計り)吹田、荒木弟(17歳)野村丹後守後家、荒木妹。
2番(15歳)荒木娘、隼人女房、懐妊なり。(21歳)たし。
3番(13歳)荒木娘、だご、隼人女房妹。(16歳)吹田女房、吹田因幡守娘。
4番(21歳)渡辺四郎、荒木志摩守の兄息子なり。渡辺勘大夫娘に仕合わせ、則ち養子とするなり。(19歳)荒木新丞、同じく弟。
5番(25歳)宗察娘(伊丹源内ことを云うなり)伊丹安大夫女房。此の子8歳。(17歳)瓦林越後守娘、北河原与作女房。
6番(18歳)荒木与兵衛女房、村田因幡守娘なり。(28歳)池田和泉守女房。
7番(13歳)荒木越中守女房。たし妹。(15歳)牧左衛門女房。たし妹。
8番(50歳計り)波々伯部伯耆守。(14歳)荒木久左衛門むすこ自然(じねん)。
此の外、車3両には子供御乳付付7・8人宛て乗られ、上京一条辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。
(後略)
------------------------(資料1おわり)

「資料1」に記載されている順番は、必ずしも荒木一族を筆頭に下る上位順という訳でも無いようで、今のところその規則性は不明です。ただ、組織内の主立った重要人物とその家族である事は間違いありません。
参謀本部陸軍部測量局の地図(北河原村付近)
記述によると、瓦林越後守と北河原与作とは、姻戚関係にあったようです。この北河原氏は、有岡城の北東方向の至近にある北河原村を中心として活動する土豪と考えられ、北河原氏に関する史料も残っています。
 この北河原村は西国街道から枝分かれし、600メートル程南下したところにある、有岡城の北から入る直前の集落です。

一方、今回のテーマの瓦林越後守について見てみると、筆者は西市場村(現池田市)を中心として活動していた可能性を考えており、この西市場村は西国街道の至近にある重要な場所に立地していました。また、ここには城があったと伝えられています。西市場城です。
 以下、村と城についての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P322

(資料2)------------------------
【西市場村】(現池田市豊島北1・2丁目、荘園2丁目、八王子2丁目)
神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。古代の豊嶋郡郡家の所在地を当地とする説、「太平記」巻15(大樹摂津国豊嶋河原合戦事)に記される豊島河原を当地の箕面川原にあてる説などがあるが、いずれも憶測にすぎない。
 元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)などによると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが、史料上の確認は得られていない。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて旗本船越領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高303石余とあるが、天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では202石余となっており、以後幕末まで同高となっている。溜池として西市場池があったが、現在は埋め立てられ、市民総合スポーツセンターとなっている。
------------------------(資料2おわり)

豊嶋河原古戦場跡(戦前の箕面川の様子)
続いて、西市場城についてのいくつかの資料をご紹介します。推定地は、現池田市豊島北です。出典は文末に示します。

(資料3)------------------------ 
◎西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城跡で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の3面に水田を巡らして溝渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は観応年間(1350-52)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【日本城郭全集9(人物往来社)】
◎『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【日本城郭大系12(新人物往来社)】
------------------------(資料3おわり)

また、西市場城の南側の至近距離、箕面川を跨いだ対岸にも今在家城があったと伝わっていますので、それについての資料も参考までにご紹介します。
※日本城郭全集9(人物往来社)P41

(資料4)------------------------
【今在家城】(当時:池田市今在家町)
北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。
------------------------(資料4おわり)

池田城を本城とする周辺の要所との支城関係については「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田城と支城の関係を考える)」をご覧いただければと思います。

さて、このように地域的には北河原村と西市場村は西国街道沿いの要地であり、また、それらの立地も池田城や伊丹城にとっては、重要な地域でもありました。
参謀本部陸軍部測量局の地図(西市場村付近)
上記「資料3」にもあるように、西市場城の城主は瓦林越後守であったと伝わっているようで、その年代は曖昧なところがあるようですが、これが荒木村重の重臣であった同名の人物ではないかと思われます。時代としては、天文から天正年間だろうと思います。
 勿論、伝承の時制が正しく、同名で同じ官途の別人という可能性は、ゼロでは無いのですが、今のところ、筆者の調べている範囲で、その整合性を考えてみます。

瓦林氏は、摂津国武庫郡の瓦林城を中心として活動した国人土豪ですが、その瓦林城の史料上の初見が、建武3年(1336)とされています。また、『瓦林正頼記』にあるように、永正年間(1504-21)頃に瓦林氏は最盛期であったようです。その後、三好長慶が越水城に本拠を構えるようになると、次第に独立性を低下させ、その配下に組み込まれた勢力に変化したのではないかと思われます。
 いつ頃の事かはハッキリとしませんが、三好家中の分裂(三好長慶没後)に相対するように、瓦林家中が分裂したようです。長慶の側近であった松永久秀の重臣として、瓦林三河守や同名左馬允重秀などが見られます。
 ちなみに、元亀元年(1570)9月28日、瓦林三河守は三好三人衆方篠原長房の軍勢に攻められて、一族郎党106名と共に戦死し、瓦林氏宗家は絶えたと考えられます。
 天正5年(1575)12月1日、織田信長が京都等持院雑掌へ宛てて朱印状を発行していますが、これは、等持院が元々持つ摂津国瓦林・野間などの地域の年貢を直接収納する事を認める内容で、この頃には、本拠地においても瓦林氏の活動実態が存在しなかったと考えられます。以下、その資料です。
※織田信長文書の研究(下巻)P338、天龍寺文書の研究P315

(資料5)------------------------
等持院領摂津国瓦林・野間・友行名所々散在事、数通の判形・証文帯し之上者、直務相違有るべからず、然る者近年拘え置く之積もり分早速院納、次ぎに臨時課役等、有るべからず之状件の如し。
------------------------(資料5おわり)

瓦林氏の盛衰は、上記のような流れですので、瓦林家としての「本家(本流)」という核を持ち、一族が有機的に機能している間、つまり、瓦林家が栄えてい時代には、他家へ一族の者が身を寄せるような可能性は低いだろうと思います。池田家中に見られる瓦林氏は、同家の勢力が衰えるような事が無ければ、その必然性はありません。
 家中の内紛などで対立した同族一派が外界の敵対勢力に入るという事例もあったと思いますが、それらの詳しいことは現時点では、残念ながらわかりません。

さて、ここで池田家中での瓦林氏の活動をご紹介します。文書は短いのですが、その内容に20名が署名している文書です。また、この史料の年記は不明ですが、個人的には、元亀2年(1571)と推定しています。6月24日付けの文書です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503など

(資料6)------------------------
内容:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名者:小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫数秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■萱野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家
※■=判読不明文字。
------------------------(資料6おわり)

上記の「資料6」では、瓦林加介某という人物が、池田家中の主要な人物として、連名で署名しています。この加介が、後に「越後守」に身分を上昇させ、荒木村重の重臣に取り立てられるようになった可能性が高いと思われます。
 ただ、いわゆる軍記物ではしばしばその名が見られるものの、池田家中での瓦林氏の一次資料は、この1点のみであるため、断定するには少々の心細さもあります。

しかしながら、奈良春日社南郷目代(荘官)の今西家に伝わる帳簿には、永享元年(1429)8月日の記録に「河原林方」との記述が見られます。
 今西氏は、寿永2年(1183)に摂関家の荘園「垂水西牧」が、春日社に寄進されたのを契機に、現地管理のために派遣された目代です。しかし、その管理方法は時代により変化します。室町時代から戦国時代になると、地域の自立化が進み、武士や有力者の台頭で、独自管理が難しくなり、春日社などの荘園領主層は、地域の有力者(主に武士)に税の徴収などを委託するようになります。
荘園の仕組(西牧江坂郷の場合)
それを「代官請(だいかんうけ)」といいますが、池田氏はこの代官請を周辺の領主からいくつも任されて、収納の代行業務も行っていました。もちろん、池田氏は25パーセントほどの手数料も貰っています。
 この永享という時代には、既に池田氏は既に存在していますが、まだ西牧内の給人の一人(番や番子)で、飛び抜けて大きな勢力には成長していない、発展途上にある段階でした。そんな時代の記録ですので、河原林氏と池田氏は、横に並んだ給人同士といった感じだったのでしょう。
 両者の接点として、興味深い史料です。また、そういう意味で、 この記録は史料上の河原林氏の初見です。
 それから、この河原林氏は、瓦林越後守に直接つながるかどうかは、今のところ不明ですし、この後の今西家の同記録(毎年の記録が残っている訳ではない)では見受けられず、一時的な事だった可能性もあります。
【図の出典】
◎荘園物語 - 遠くて身近な中世豊中 -(豊中市教育委員会 2000年刊)
※図のキャプション:室町時代には、春日社から現地管理のために今西氏が派遣される。有力名主を番頭に、他の名主を番子とし、番頭22人で番を組んで4つの番で年貢の納入を分担した。

時代は下って、「春日社領垂水西牧御柛供米方々算用帳(御柛供米方々算用状)」という天正4年(1576)の記録の中に「瓦林越後(守)方」との記述が見えます。
※豊中市史(史料編2)P494

(資料7)------------------------
 一、垂水之新左衛門扱
伊和寺分半分也
 2石1斗5升5合 池田將監方
同人弁
 2石8升7合
伊和寺分半分也
  2石1斗5升5合 瓦林越後(守)方
蔵納に仕候
------------------------(資料7おわり)

瓦林越後守は、垂水西牧内に給人としての活動も行っていた事がわかります。

一方で、瓦林越後守は、堺商人の天王寺屋宗及の茶席に顔を出していたようで、茶会記の記録で見かけられます。その部分を抜き出します。
※茶道古典全集8(淡交社)

(資料8)------------------------
◎天正元年(1573)12月10日条:
(前略)同 日昼 摂津国瓦林越後守、関本道拙
一、炉にフトン 長板に桶・合子、二ッ置、(後略)
◎天正6年(1578)1月30日条:
耳徳、瓦林越後守、瀧本坊 3人
炉にフトン、後に手桶、備前水下、(後略)
------------------------(資料8おわり)

上記「資料8」では、単なる茶席への出座では無く、その顔ぶれや時期が政治史にとっても重要な意味を持ちます。
 その視点で、天正元年12月10日の茶席について見ると、この時の瓦林越後守は、もしかすると、池田方での行動だった可能性があります。この茶席の前後を見ると、池田清貧斎(紀伊守)正秀が度々茶席に出ており、清貧斎が所持していた名物茶器までもが茶席で披露されるなどの動きが見られます。
 実は、村重が地域勢力の主導者になってから茶席に顔を出すのは、天正4年6月6日に、天王寺屋宗及に招かれてからで、意外な事にそれ以前は、記録に見られません。その被官の名前さえも見られず、それまでは全て、池田清貧斎の名前です。
 また、軍事的にも、村重が摂津国内で優勢になるのは、天正2年11月に伊丹城を落とした後で、少なくともそれ以前は、織田方が五畿内地域で優勢ではありますが、反織田方勢力を圧倒していた程ではなかった状況だと思われます。
 それらの状況を鑑みると、天正元年12月の瓦林越後守の茶会出席は、この時の所属としては、池田方だったかもしれないとも考える訳です。ただハッキリしている事は、この時点で「越後守」の官途を名乗っていた事は間違いありません。

次に、荒木村重の重臣として行動している時期の瓦林越後守に関する資料をご紹介します。村重が織田政権から離反して直ぐの頃、(天正6年と考えられる)11月8日付けで、本願寺宗坊官下間刑部卿法眼頼廉が、備前・美作国大名の宇喜多和泉守直家宿所へ宛てて音信している資料です。
※兵庫県史(史料編・中世9)P476

(資料9)------------------------
諸警固、一昨日6日摂津国木津浦に至り御着岸候。当寺(大坂石山本願寺)大慶此の事候。仍って摂津国表之儀、先書申し入れ候へき。定め而相達すベく候。荒木摂津守村重自り、證人為息女並びに父子血判之誓詞越し置かれ候。即ち同国欠郡中嶋表付城共破却候。瓦林越後守、是の者此の間当寺へ之使者に候。是れも人質為実子両人、神文等到来候。此の方之儀は此の如く相卜(うらなって選び定める。望む、期待する。)候間、御心安されるべく候。将又、(毛利被官)乃美兵部丞宗勝・同児玉就方に荒木村重往来之様、御留守に自り懇ろに伝達為すべく候之間、■申すに及ばず候。其の外方々吉事迄候。現形すべく候間、追々申し伸べるべく候。然者、此の節頓に陸路之御働き肝心に候。猶、後喜を期し候。恐々謹言。
※■=欠字。
------------------------(資料9おわり)

次は、同年の同じ状況下で、同月14日に毛利輝元一族小早川隆景が、同被官粟屋元種へ音信した資料ですが、同日付で同じ人物へ宛てた資料がもう一通あります。そちらは長文なので、以下は短い方をご紹介します。また、元種はこの時、摂津国方面を担当していたようです。
※兵庫県史(史料編・中世9)P476

(資料10)------------------------
追々申し上げ候。一、度々申し上げ候1,000貫之儀、いよいよ差し急がれるべく候。御油断無き之由候間、御上せ待ち奉り候。一、荒木摂津守村重所へ、今度御味方御祝着之段、御使者早々差し上せられ候儀、肝心に候。一、御太刀・銘物・銀子100枚、是者、軽々と仰せ遣わされ分たるべく候と聞き申し候。息新五郎(荒木村次)、並びに今度一味に成り仕り候荒木志摩守元清・河原(瓦)林越後守、両3人へ者、荒木村重への御祝儀御儀定随われ、仰せ付けられるべく候。天下之大忠之致す之間、題目浅からず候。各御談合過ぐべからず候。恐惶謹言。
------------------------(資料10おわり)

村重が、織田政権から離反し、足利義昭方勢力へ復帰するにあたり、人質を差し出して(何らかの事情で、実際には大坂本願寺へ人質を送っている)いるようです。
 それについて、地域勢力を主導する村重が、忠誠の証として実子を入れる事は当然というか、自然な流れだと思いますが、それに加えて、村重と同族の同苗志摩守元清と瓦林越後守も実子を人質に差し出しています。村重と同族の元清についても同上の理由で理解できます。しかし、瓦林越後守は、その流れからすると特異であると思います。
 一方で、対外的に信用を繋ぐためには、権力の中心人物が重要人物を人質として出すというのは、一般的理解としては、自然な事と思われます。
 則ち、瓦林越後守は権力中枢にあって、村重の側近としての地位であった事が、この人質差し出しの行動から判断できるのではないかと思います。

さて、視点を池田家時代に戻します。

そもそも、今も昔も、人間の社会的関係、組織内の個人の役割りや地位は、信用と信頼関係があってこそ附属するもので、それらは急に成せるものではありません。そこに至るまでの数々の実績があって、更に発展・強化されていくのが摂理です。
 この瓦林越後守についても、村重の地域政権の活動の前に得ていた、信用と実績があってこそですし、その視点無くしては、事実の解明も進まないと思います。

西市場城跡の付近(2001年頃撮影)
西市場城についての伝承の通り、そこが池田家中の瓦林氏の本拠だったとすると、戦争になれば常に最前線になる可能性が高い、常に緊張感のある地域であったと思われます。
 そういう環境ですので、池田本城に対する支城的な役割りを持っていたと考えられる要地でもありました。また、地名が示すように「市場」があったと考えられ、且つ、西国街道という官道(国道)に沿った集落であり、経済・軍事的には非常に重要な位置付けでした。
 ちなみに、この付近は「豊島冠者故居(てしまかじゃこきょ)」とも伝わっていて、池田氏の祖にあたる一族が盤踞したところともされています。元歴(げんりゃく)から文治(ぶんじ)年間(1184-90)の頃、鎌倉幕府の開幕前の時代です。
 そんな重要な地域ですので、「資料4」にあるように今在家城の存在も伝承としてあります。西市場城からすると、箕面川の対岸の南側です。西国街道を意識した施設だったのでしょう。
 こちらは、西市場城よりは具体的な伝承で「池田城の支城として池田氏の一族が守備していた」とされています。池田氏の一族とは、もしかすると瓦林氏を指しているのでしょうか?時期も天文から天正年間とし、正に今回のテーマの指向性と合致しています。自然に、また必然として、今在家城は西市場城と協働する施設であったと考えられます。
 ただ、こちらも発掘調査などは行われていませんので、公的な知見は得られていません。ですので、「存在すれば」という事になりますが、伝承は残っているという事実はあるのです。

それから、色々な史料を読んでいると、しばしば池田領内に敵が攻め入る状況が見られるのですが、この西市場城の直ぐ南を流れる箕面川が、領域の結界(防衛線)になっていたと思われます。
 池田長正時代(1550頃-1564)後半には、池田本城を中心とした支配領域が拡大し、次の勝正の代にもそれが引き継がれて、安定・固定化します。そのひとつの目安として、自然要害であり、水の支配の象徴である「川」、箕面川が境界になったのではないかと考えられます。
現在の箕面川の様子(2001年頃撮影)
そして、その箕面川は猪名川と合流し、その猪名川は池田からすると、東側の要害です。(猪名川については、早い段階でそういった概念が創出されて、今では定着しています。)それらの川に囲まれた地域は、広義の意味では「城内」的な、いわば池田の「庭」のような感覚の領域であったと思われます。
 実際には、池田家はそれらの川を大きく越えた領域を支配しており、豊嶋郡全域を中心として、西は川辺郡の一部、東は嶋下郡の一部、北は、能勢郡の部分を支配していました。
 更に京都や堺、摂津国平野郷などに屋敷を持つなどして出先機関を有し、余野などの交通の要衝の有力者とも姻戚関係を持つなどし、最盛期には摂津国内で、最大の勢力を誇るまでに成長していました。
 そんな環境の中で最前線とも言える緊張地域に本拠を置いていた池田家中の瓦林氏にとっては、このように年々拡大する支配領域のお陰で、次第に西市場城の瓦林氏も緊張状態が低下し、相対的に豊かにもなっていった事と思われますが、そこに至るまでの瓦林氏の貢献は小さくは無く、それについての池田家中での信用度は大きく育っていったのではないでしょうか。
 それが「資料6」に署名している瓦林加介某で、後に同一人物が「越後守」の官途を得て、活動していたと考えられます。また、同資料に署名する人々は、地域統括もしていたらしき人物で、藤井権大夫数秀は「加賀守」を後に名乗り、現箕面市中北部地域を、萱野助大夫宗清は同市萱野地域一帯を、また、神田才右衛門尉景次は現池田市神田地域一帯、宇保彦丞兼家は同市宇保地域一帯など、各氏はそれぞれの地域の有力者でした。
 そしてまた、これらの人物は、ほとんどが荒木村重政権に吸収されていて、引き続いて、地域統括の役割りを担っていたものと考えられます。

さて、西市場村を本拠としていたとされる瓦林氏は、いつ頃からそこに入ったか、詳しいことは解りませんが、池田家中に、瓦林氏が存在した事は史実として明らかですし、その瓦林家が何代か続く中で「越後守」の官途を代々名乗った可能性もあります。はたまた、栄典授与での、瓦林家にとって前例の無い官途叙任だった可能性もあります。
 いずれにしても、先述のように、外来の人物が直ぐに、組織の信用を得る事は難しいでしょうから、西市場村での一定期間の活動は、あったのだろうと思います。瓦林氏が一時期、上位権力と結びついた時代もあったことから、そういう人脈を活かした活躍をしたのかもしれません。

ですので、伝承にあるように、観応年間の結びつきも全く事実無根とは言えない可能性があります。同時に、悪意無く、時代の記憶違いである可能性もあります。
 他方、城そのものがあったかどうかは、発掘調査など公的な知見は得られていないので、何とも言えないところがありますが、文献から見ると、上記のように筆者が提示した可能性が考えられると思います。

この瓦林越後守については、荒木村重が主導する地域政権、また、近畿の政治史にとっても重要な人物ですので、今後も文献的にも物理的にも事実を確定させていく事が望まれます。今後に期待し、自らも今後また、関心を持って掘り下げて行きたいと思います。