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2012年7月28日土曜日

摂津国吹田城の事

摂津国嶋下郡にあった吹田城については、不明な点が多く、発掘調査もあまり行なわれていない状況にあって今も所在地不明なままです。

この吹田城は、在地土豪の吹田氏にも関係が深いと考えられ、また、その吹田氏は池田氏とも関係を深くしていました。特に池田勝正の時代には結びつきを強くしていました。また、両氏は春日神社・興福寺に関係する接点があったようです。

そんな事もあって、以前から興味を持っているのですが、中々自分なりの解明が進みません。解らないながら、やはり気になって吹田城の記事にはしてみたのですが、腑に落ちないままです。

吹田城のページ

最近また吹田城が気になっていて、少し気合いを入れて考えてみようと考えています。解った事は、またこちらのブログでもご紹介致します。

さて、今ちょっと考えた事を少しまとめてみたいと思います。とりあえず一通り書物を読み直してみます。
『大阪府の地名』『日本城郭体系』『日本城郭全集』『関西地誌図集成』『大阪都市地図』などを見ると、吹田は神崎川(古くは三国川とも)沿いの集落であり、また、千里丘陵やその南周縁を通る街道を複数持つ要地である事が再認識させられます。
 更に吹田は、江口や一津屋など、川沿いの重要な村も近くにあります。これらの立地から、吹田は水・陸の交通を制するには、非常に重要な場所です。『関西地誌図集成』の明治前期に測量された精密図を見てみると、川と密接な関係を持った他の集落と比べても何倍も大きな規模で記録されています。
 ちなみに、江戸時代には吹田村をはじめ、市域の大部分が幕府の直轄領になって、厳重に管理されているようです。

アサヒビール工場北側の府道14号
やはり戦国時代にも城があったとすれば、その村に密接に関わっていたと思います。今推定されている、アサヒビールの工場敷地内、第一小学校付近、第三小学校付近、公園付近は、村の構成からすると離れ過ぎているように考えられます。ただ、関係施設であったのかもしれませんが、主たる施設では無いように思えます。
 また、今は自動車の通行等のために道幅も広げられていますので、当時とは随分と様子も変わっています。
 全国的に第一次世界大戦が終わった大正時代頃に、自動車通行用の道路整備が行われているようで、この頃に画期を迎えているようです。更に、太平洋戦争の末期には、疎開道路が作られ、空襲による火災対応のために道路が拡げられています。吹田村の中心部に広い道路があるのは、そのためのようです。
一般戦災ホームページ(吹田市における戦災の状況(大阪府)):総務省

さて、先ほどの『関西地誌図集成(大日本帝国陸地測量部:明治18〜23年頃測量)』の吹田村部分を見ると、吹田村の真ん中に不自然な水田があります。吹田村周辺は、深田も多いのですが、村の中に水田が残されています。今の内本町2から同3にかけての地域です。この地域からは北東の鬼門に高浜神社が位置する事になります。古地図では、その南側に堤防代わりの街道が高く土盛りされて東西に走り、南界のように区切られています。
 更に、内本町3には泉殿神社の御旅所があり、このあたりが吹田殿(西園寺家別業との推定説)の屋敷跡らしく「吹田殿址」 となっています。

このあたりが城としての中心で、集落全体が城としての概念を持ち、集落を守っていたのではないかとも考えています。西は今の内環状線(国道479号)付近にかけて、北はJR線あたりまで。線路は村の外側に敷設されたのでしょう。
 そして、東側は、今の吹田市川園ポンプ場のあたりまでで、こあたりに割と広い空き地があり、北側の高低差で村の境になっているようです。

また、吹田砂堆という砂地が、片山の丘陵から川に向かって伸びており、今の内環状線(国道497号線)から北東(旧西尾家住宅のあたり)、ダイエーの北東面から川に向かって伸びる道路あたりまでがその範囲になっています。吹田砂堆は周囲の低地に比べて1〜2メートル程高く、また、砂地であるために水はけも良いため、洪水への心配も少ない微高地は居住地として早く利用されていたようです。

片山公園の様子
吹田砂堆からは外れてしまうのですが、第三小学校のあたりには字名で「城ヶ前」 と呼ばれていたらしく、城との関係を伺わせる痕跡があります。
 「東摂城趾図誌」には、その第三小学校のあたりに吹田城があったとする伝承を書き残しており、これが吹田城の有力な跡地推定になっています。
 試掘などが行なわれたようですが、今のところそれらしき痕跡は出ていない様です。
 またそこは、佐井寺方面、岸部方面への幹線街道(亀岡(高槻)街道)にも接しています。その空き地の北に隣接して深田になっています。

しかし、ここが城だとすると、低湿地部分にあたり、水害への備えをしなくてはならず、相当な工事が必要となります。吹田の旧集落にある古いお寺は皆土台を1メートル程高くし、その上に建物が建っています。やはり、洪水を意識して建てられている事が、今歩いてもわかります。
 戦さの最中に雨が降り、自分の城が水没してしまう事は何としても避けなければいけませんが、逆にそこをキチンと対応していれば、攻めにくい城になる事は確かかもしれません。

そうすると、発掘では結構な構造物が検出されるはずですよね...。

もちろん、村を守る城は1カ所では無く、片山方面にもあったと思いますが、今のところ何ともいえないですね。片山姓の土豪も当時の史料に見られます。
 片山の丘陵上の施設となると、近隣の垂水村・佐井寺村や山田村との関係もありますので、その時の政治・軍事環境がどうなっていたかをもう少し調べてみたいと思います。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)