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2023年11月21日火曜日

摂津国河辺郡にあった次屋城(現兵庫県尼崎市次屋)についての考察

偶然に通りかかって、それから気になって調べてみました。潮江などについては、池田勝正研究の関係で、時代的な流れだけは、ザッと知っていました。しかし、それ程の関心を持っていた訳ではありませんでした。通りかかった事で、急に思い出し、急に興味を持ちました。備忘録的にちょっと、次屋城の項目を作っておきたいと思います。引用です。
※兵庫県の地名1-P470(次屋村の項目)

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◎次屋村(尼崎市次屋1-4丁目・下坂部3丁目・浜3丁目・潮江2丁目・西川2丁目)
下坂部村の南東に位置する。天文5年(1536)3月26日、摂津中嶋(現大阪市淀川区)の一向一揆が尼崎方面の細川晴元方の軍勢を破り、「次屋の城」に籠城していた晴元方伊丹衆は、城を明け渡した(細川両家記)。慶長国絵図に村名がみえ高615石余。元和元年(1615)池田利重領、同3年尼崎藩領となる。寛永20年(1643)青山氏のとき分知により旗本青山幸通領となり明治に至る。陣屋が置かれた時期もある(尼崎市史)。元文3年(1738)代官安東茂右衞門の苛政に抗議して逃散、源十郎・佐兵衛ほか3人に過料銭100石につき10貫文が科せられた(尼崎市史・徳川禁令考)。用水は猪名川水系大井掛り(「水論裁許状」西沢家文書)。明治12年(1879)調の神社明細帳によれば次屋村・浜村立会陣屋所に伊弉諾神社がある。同15年の戸数78・人口334(県布達)。
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とあって、次屋村には、江戸時代に陣屋が置かれたこともあるらしいです。もしかして、城跡をこの時に再利用した可能性もあるでしょうね。
 そして、戦国時代の軍記物でありながら、最近は史料的価値が見直されつつある『細川両家記』を見てみます。
※群書類従第弐拾号(合戦部)『細川両家記』(天文5年の項目)

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3月26日に摂津国中嶋の一揆衆(残存抗戦派本願寺勢)富田中務 一味して、摂津国河辺郡西難波に三好伊賀守連盛・同苗久助長逸両人の人数楯籠もるを責め落とす也。長屋岸本(意味は不明。次屋?)腹切りぬ。40計り討ち死にす。然らば伊丹衆楯籠り次屋の城もあくる也。同椋橋城(現大阪府豊中市椋橋)三好伊賀守も明くる也。然らば木澤左京亮長政をたのみ大和国信貴城へ越されける也。
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この時は、管領細川晴元方の有力勢力として、池田衆も伊丹衆と共に積極的に活動していましたので、この一連の動きは、池田衆も関与していたと考えられます。
 また、この文中に出てくる「長屋岸本」とは、もしかして「次屋」ではないでしょうか?この人物が討ち死にしたために、その本拠の次屋城も落ちた可能性もあります。地元の人間が、案内役として出向いた先で戦死する事は、事例として多々見られます。
 参考までに、もう少し前の時代の事例ですが、永正年間(1504〜21)の細川澄元と細川高国の管領争いの折にも、この辺りで交戦が盛んにありました。『細川両家記』では、両軍ともに「潮江」に陣を度々取っています。潮江の集落は、次屋の西隣ですので、この頃は潮江が主たる立地だったのでしょう。ひとまとめに「潮江」としている場合もあります。
 そして、その次屋城の跡地と推定されているのが、現在は「城の後公園」となっているところです。これについて、『日本城郭大系』には短く記述があります。
※日本城郭大系12-P556

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『細川両家記』などに、その名がみられる。字「土井ノ内」の北隣が「城後」。
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さて、明治時代初期の地図(陸軍参謀本部:陸地測量部仮製図)が、精密地図としては一番古く、その後、三点測量による地図が明治時代後期にできあがります。その地図を見ると、何となく城の輪郭が見えるように思います。高低差があります。今の「城の後公園(字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園))」は、ほんの一部だけが残っていますが、現在も公園内は周辺道路よりも1メートル程高い位置にあります。多分、宅地造成の時に整地などで削ったりしたいと思いますが、その前の時代は田んぼで、その時に随分改変されたのだと思います。空襲の被害もあったかもしれませんが、復興期を経て1960年代には、宅地化されているようでう。

次屋の西側(1キロメートル程)には、神崎村があり、ここは川港で、関所も置かれていました。猪名川と神崎川の合流点で、有馬街道や大坂道とも交差していました。加えて、西国街道とは別に、中国街道も通していました。陸から川から海から人と荷物が行き交う要衝でした。
 次屋は、尼崎と塚口の中間点にあり、塚口の更に北には、大都市の伊丹・池田郷がありました。平野部から沿岸部への入口として、独特の地位を保っていたのでしょう。

 

仮製図に記された次屋村の様子(赤枠が城跡推定地)


1909年(明治42)測量時の次屋村(赤色枠内黒色長方形は公園の位置)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


2019年12月27日金曜日

池田市綾羽にある伊居太神社と摂津池田氏について

既述の記事「戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社」からの抜粋です。また、関連する地域も同様に抜粋します。池田市綾羽にある伊居太神社について、再度、考えてみたいと思います。近日に池田市と尼崎市の伊居太神社も訪ね、追加記事も掲載します。

◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやしゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

    大正時代頃の伊居太神社 本殿

    大正時代頃の伊居太神社 拝殿

    ◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
    • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
       文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
       明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
       昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
    • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

    ◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
    • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
       文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
       天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
    • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

    ◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
    • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
       当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

    2016年10月26日水曜日

    元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について

    元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。
     しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必要を生じさせていました。猪名寺合戦は、この目的で画策されたと考えられます。実際の合戦時期は、微妙に目的要素の優先度が入れ替わっているですが、複合的な必要性で合戦に至ったと思われます。
     それから、永禄12年4月に伊丹氏は、幕府から河辺郡潮江庄代官職を認められている事から、同地域を三好三人衆方に侵される状況にあって、不十分ながらもこれらの排除のために出陣したとも考えられます。 加えて、猪名寺合戦直前の7月12日付けで、伊丹忠親が尼崎本興寺に宛てて禁制を下していますので、尼崎の保護・確保のために取った軍事行動でもあると思われます。
     そしてその交戦の場となった、猪名寺村についての資料を下にあげます。
    ※兵庫県の地名1(平凡社)P478

    (資料1)---------------------------
    参謀本部陸軍部測量局の地図(猪名寺部分)
    【猪名寺村】
    田能村の西に位置し、北は大坂道で伊丹郷町下市場村(現伊丹市)、北東部を猪名川と分かれたばかりの藻川が流れる。正和5年(1316)の作と推定される行基菩薩行状絵伝(家原寺蔵)に、奈良時代に僧行基が建立した「猪名寺給孤独園」が描かれる。明徳2年(1391)9月28日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に猪名寺がみえる。
     元亀元年(1570)8月13日、尼崎に在陣していた淡路の安宅勢が伊丹方面に軍勢を繰り出したのに対し、織田方の伊丹城から猪名寺に軍勢が出され、高畠(現伊丹市)で合戦が行われている(細川両家記)
     慶長国絵図に猪名寺とみえ、高432石余。元和3年(1617)の摂津一国御改帳には猪名寺村と記され高422石余、幕府領(建部与十郎預地)。寛文6年(1666)大坂定番米津田領となり、天和4年(1684)幕府領、同年2月松平乗次領、元禄6年(1693)幕府領、同7年松平乗成領となり、宝永元年(1704)幕府領となったが、延享3年(1746)三卿の田安領となり明治に至る(尼崎市史)。
    真言宗 法園寺(真言宗御室派)
    用水は猪名川水系三平井・猪名寺井掛り(同書)。宝永7年の村明細書(西沢家文書)によれば、文禄3年(1594)に片桐市正の奉行で検地を実施。家数83、うち高持百姓43・柄在家日用働40、人数407、寺は真言宗・一向宗各1、氏神は伊丹にある。地面取実1反につき米は、1石3、4斗より2石、木綿300目を1斤にして7、80斤より100斤余、麦1石6、7斗、小麦6、7斗。田畑合計39町4反余。馬5・牛16。耕作のほか伊丹酒屋で日用。切畑村(現宝塚市)領長尾山山子村として山手銀を納め草を刈っていた(「長尾山山子村々山手銀届」和田家文書)。
     伊丹郷町明細帳(武田家文書)によると郷町の氏神野宮(現伊丹市猪名野神社)の氏子で、神事費用を負担している。同社は延喜4年(904)当村から現在地に移されたと伝える。明治12年(1879)調の寺院明細帳によれば、真宗本願寺末法光寺、真言宗仁和寺法園寺(真言宗御室派)がある。
    猪名寺廃寺跡周辺の地形の勾配差(南東辺)
    法園寺は、和銅年間(708-715)行基開基と伝え、天正7年(1579)焼失により廃寺。宝暦8年(1758)定暠再興、明治6年無檀のため伊丹金剛院に廃合されたが、同15年再興。明応(1492-1501)末年頃と推定される宝篋印塔残欠(基礎)がある。西沢家は代々庄屋役を勤めた家柄で、寛永13年(1636)をはじめとする2,650余点の文書を所蔵。
    藻川西岸の標高約11メートルの段丘上に猪名寺廃寺がある。昭和27年(1952)・同33年に発掘が行われ、法隆寺式の伽藍配置であることが判明。金堂は凝灰岩切石による壇上積基壇。創建瓦は川原寺式のものが含まれ白鳳期と考えられている。南方500メートルには猪名野古墳群や、瓦・緑釉土器等の出土した中ノ田遺跡などがあり、為名氏の寺院とみられている。
    ---------------------------(資料1おわり)

    上記資料(1)によると、猪名寺村内にある法園寺は、天正6年冬からはじまった荒木村重の乱により、翌年には兵火を受けて焼失したと伝わっているようです。やはりこの時も伊丹を守るための出丸や砦のような役割りがあったのか、猪名寺村が攻められたのでしょう。元亀の猪名寺合戦の時も、同じような位置付けにあったのではないでしょうか。

    猪名寺合戦を考える時に、少し周辺状況を俯瞰してみます。

    池田家の内訌から10日後の6月28日、三好三人衆勢力が摂津国吹田へ上陸し、京都・大坂の水運の要所を制しました。
     これに関連のある動きとして、7月付けで、池田民部丞が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。これは池田勝正の後任当主かもしれないのですが、今のところ詳しくは解りません。なお、同一人物が、9月付けで摂津国河辺郡多田院に、11月5日付けで同国豊嶋郡箕面寺へ宛てて禁制を下しています。
     これらは何れも、既に池田家当主が禁制を下した実績がある場所で、また、先方から禁制を求められる程の名の通りと実力があったと考えられます。

    さて、話しを猪名寺村付近の地域動静に戻します。

    猪名寺廃寺段丘東側の藻川。正面は五月山。
    吹田に上陸した三好三人衆勢を、幕府・織田信長勢力が攻撃し、7月6日に吹田周辺で交戦しています。その間に、摂津守護伊丹忠親は、尼崎を押さえるために動き(後巻きの意味もあったでしょう)、同月12日付けで尼崎本興寺へ宛てて禁制を下していいる事は、先にも述べたところです。
     この後、同月下旬頃からは、三好三人衆勢の動きが活発化します。27日から翌月5日までは、時系列を参照願うとしまして、9日、三好三人衆方で淡路衆の安宅信康勢は、兵庫から尼崎へ進んでいます。
     この安宅勢と池田衆が、伊丹方面へ進み、交戦となりました。この頃の伊丹城は、後に荒木村重が改修して有岡城とする前であり、基本的な防衛プランは共通していると察せられますが、中世的な、防御要素が散在する状況だったと思われます。
     そのため、街道を通し、周囲より小高い地形を成す猪名寺は重要な防衛拠点だったとも思われます。また、猪名寺の東を流れる藻川・猪名川は、川幅が広く、通常は水嵩も左程高くないために徒渉が可能です。江戸時代にも橋は架けない(防衛上の意味もあるが)方針が採られていたようです。
     
    猪名川・藻川の渡河可能推定
    この渡河できる地点と街道、渡しの場所などを詳しく検証しているサイトがあるので、そこから図を引用させていただきます。このサイトは、羽柴秀吉の「中国大返し」から天王山の合戦への道程と経緯を深く掘り下げられています。
    【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
    ※ご注意:これらの資料を引用させていただくにあたって、情報元の方にご連絡しようとサイト内を探したのですが、連絡先がなく、引用元の明記を以て、ご挨拶に代えさせていただきます。もし、不都合がありましたら、当方までご連絡いただきたく、お願い致します。

    猪名寺合戦について『細川両家記』に記述があります。安宅勢が尼崎から北上し、伊丹城周辺を打ち廻りましたが、池田衆もこれに呼応して伊丹方面へ出陣した模様です。池田衆は、後巻きの役割だったのかもしれません。これを見た伊丹勢は、100名程が城から出て応戦しようとし、猪名寺辺りまで出た所で交戦となって、池田衆もこれに加わったようです。伊丹勢は劣勢となって押し返され、池田衆が高畠辺(有岡城縄張内の南部にある高畑村と関係するか)あたりで、4〜5名を打ち取り、伊丹衆は城へ退いた、としています。細川両家記の「猪名寺合戦」の模様を以下にご紹介します。
    ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

    (資料2)---------------------------
    一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
    ※『細川両家記』での「へ」は、現代感覚の「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があるように思われる。
    ---------------------------(資料2おわり)

    この交戦により、三好三人衆方がこの方面では優位を確保し、伊丹の孤立化を図る事ができたと思われます。
     文中の「淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也」とは、淡路衆の兵庫から尼崎への陣替えが、尼崎惣中の外だったという状況だったかもしれません。考えられるのは、本興寺と同じ日蓮宗ですが、より三好三人衆方に縁が深い長遠寺のある別所村でしょうか。
     伊丹方が7月12日付けで本興寺に宛てて禁制を下しているので、この時までは尼崎本興寺などに伊丹衆が居て、猪名寺の交戦で優位となった安宅衆がその勢いを借って、本興寺の伊丹衆へも攻撃し、尼崎を制圧したのかもしれません。
    慶長国絵図を元に地形と街道の関係を推定復元
    また、当時の伊丹と猪名寺との地形を考えるための参考になる図があるので、引用させていただきます。慶長国絵図を元に、地形と街道の関係を推定復元されています。猪名川を渡河するための道が何本かあり、それらを使って池田衆が、伊丹城攻めのために、進軍したのかもしれません。
    【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
     ちなみに、田能村出身の武士の田能村氏は、どちらかというと池田氏よりの関係だったらしく、そういう環境を利用して進軍したり陣を取ったりしたと考えられます。

    一方、この頃の河内国方面では、8月17日に古橋城(現門真市)が落ちましたが、ここは兵站基地でもありました。ここに伊丹方の軍勢が150名程入っていた(三好義継方からも150名)のですが、攻撃によりほぼ全滅しています。
     これは、この10日程後の記録として史料に現れる、幕府・織田信長方勢力の陣取り場所である「天満森」への物資供給の準備だったと思われます。この時の古橋城は、兵粮の集積を行っていたとの記述があります。

    さて、このように一旦は三好三人衆方が優勢となりましたが、態勢を立て直した織田信長は、決戦のために大挙して摂津国欠郡天満森へ入り、三好三人衆方の拠点である野田・福島を攻める準備を整えました。
     この動きにより、幕府・織田方勢力は勢いづき、三好三人衆勢を圧倒するかに見えましたが、9月13日に大坂の石山本願寺が蜂起し、形勢は逆転します。同月23日、信長は天満森から撤退を決めて開陣、兵の多くは防衛のために京都へ退き、近江国へも軍勢を割く必要性に迫られました。
     同月27日、三好三人衆方の篠原長房勢が兵庫へ上陸した事を機に、再び三好三人衆勢の攻勢が強まります。尼崎や西宮、堺などの大坂湾岸は三好三人衆方が実効支配するに至りました。

    しかし、織田信長が禁裏を動かし、天皇による調停が呼びかけられると、三好三人衆を始めとした同盟勢力がこれに応じてしまい、信長は劣勢を仕切り直す事に成功しています。

    最後に、以下、元亀元年(1570)の池田家内訌後からの猪名寺合戦に関係する要素を時系列に並べてみます。

    (資料3)---------------------------
     【1570年(元亀元)】
    6/18  池田家中で内訌発生
    6/18  将軍義昭、近江国高島郡への出陣延期を通知する  
    /19  池田勝正、将軍義昭へ状況を報告
    6/19  将軍義昭、近江国高島郡への出陣再延期を通知する 
    6/26  三好三人衆方三好長逸・石成友通が池田城に入ると風聞
    6/26  池田勝正、将軍義昭と面会
    6/27  将軍義昭、近江国高島郡への出陣を中止する
    6/28  摂津守護和田惟政、同国豊嶋郡小曽根春日社へ宛てて禁制を下す
    6/28  三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
    7       摂津国河辺郡荒蒔城を荒木村重などの池田衆が攻める?
    7     三好三人衆方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
    7/6   幕府・織田勢、吹田で交戦
    7/12  摂津守護伊丹忠親、尼崎本興寺へ宛てて禁制を下す
    7/27  三好三人衆方三好長逸、摂津国欠郡中嶋へ入る
    7/29  三好三人衆方安宅信康勢、摂津国兵庫に上陸
    8/2   三好三人衆など、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
    8/5   三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ付城を構築
    8/9   三好三人衆方安宅信康勢、尼崎へ陣を移す
    8/13  摂津国猪名寺合戦
    8/17  三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
    8/25  織田信長、摂津国へ出陣
    8/25  三好三人衆方摂津国原田城(池田氏に属す)が自焼する
    8/27  池田勝正など幕府・織田信長勢、摂津国欠郡天満森へ集結
    9     三好三人衆方池田民部丞、摂津国河辺郡多田院へ禁制を下す
    9/3   三好三人衆方三好長逸など、池田城を出て野田・福島の陣へ入る
    9/8   摂津守護伊丹忠親・和田惟政、池田領内の市場を打ち廻る
    9/10  織田信長、野田・福島城を攻撃
    9/11  織田勢、欠郡中嶋内の畠中城を落とす
    9/12  織田勢、野田・福島城を総攻撃
    9/13  本願寺宗、幕府・織田信長に対して蜂起
    9/23  幕府・織田勢、摂津国方面から総退却
    9/27  三好三人衆方篠原長房勢、兵庫に上陸して越水城を攻める
    9/28  三好三人衆方篠原勢、尼崎へ移陣
    10/8  三好三人衆方篠原勢、伊丹勢を攻撃
    10/10 三好三人衆方三好長治、尼崎本興寺内貴布祢屋敷へ宛てて禁制を下す
    10/10 三好三人衆方篠原実長など、尼崎本興寺西門前寺内に宛てて禁制を下す

    10/15 織田信長、伊丹忠親へ守備を堅くするよう音信
    10/下  三好三人衆方篠原勢、越水城を落とす
    11    三好三人衆方池田衆の中川清秀など、池田周辺諸城を攻める?
    11/5  三好三人衆方池田民部丞、摂津国箕面寺に宛てて禁制を下す
    11/7  三好三人衆方篠原長房、堺に入る
    11/21 織田信長、三好三人衆と停戦して開陣する
    12/8  幕府・織田信長、三好三人衆と和睦する
    12/13 幕府・織田信長、浅井・朝倉方と和睦する
    12/24 幕府・織田信長、石山本願寺と和睦する
    ---------------------------(資料3おわり)