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2012年8月17日金曜日

元亀2年9月中頃、摂津国吹田へ吹田氏復帰か

詳しい日時は不明ですが、白井河原合戦の戦況から見ると、元亀2年(1571)の9月中頃には摂津国吹田村を取り戻し、三好三人衆方池田氏に近しい吹田氏が入った(復帰した)と考えられます。

千里丘陵の南側に位置する、水運・陸上交通の要衝である吹田は、同年6月に吹田城を落として制圧しています。 これには幕府方和田伊賀守惟政が担当し、三好三人衆方に加担する守備勢力の武将57名を討ち取ったと、『言継卿記』にあります。「親は遁(逃)げ」とあり、これは吹田氏ではないかとも考えられます。

吹田を確保した事で、千里丘陵南から豊嶋郡へ入る事ができ、そのまま東進すれば友軍の摂津守護伊丹忠親とも勢力範囲を繋ぐ事ができるようになりました。また、神崎川を押さえる事ができ、京都への水運監視ができるようにもなります。

和田惟政は、本拠の高槻から茨木を押さえとしつつ、南への連絡が確保できた事から、池田城への攻勢を強めました。6月23日には、和田惟政が摂津国豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現豊中市中桜塚の原田神社)へ宛てて禁制を下すようになっている事から、 原田城もこの頃には池田氏配下から離れていたと考えられます。

「原田城について」のページ

ちなみに、この一連の闘争で高山飛騨守長房の息子(3男:高山右近の弟)が戦死し、宣教師ルイス・フロイスが、その埋葬のために摂津国へ赴いています。

吹田方面では闘争が続き、幕府方は吹田から江坂を経て原田方面、そのまま東進して利倉・椋橋方面へも進んでいたものと考えられます。

しかし、三好三人衆方の池田勢も事態打開を画策しており、和田方と白井河原で決戦を行って勝利しました。
 和田方は元々勢力を分散してしまっていた事と、総大将である和田惟政をはじめ、主立った多くの人材を失うに至って、立て直しが不可能となって壊滅状態に陥っていました。

池田衆は、和田方の拠点を一気に攻め、和田方の拠点の高槻をも取り囲んで落とす勢いを持っていました。また、茨木城などその他主立った拠点も2つ落としています。
 高槻は講和によって、辛くも守りきった和田氏でしたが、人材を失ったため、立て直しができず、その数年後には滅亡となります。
 一方の池田氏は一気に東へ勢力を拡大させ、吹田を取り戻し、茨木を新たに配下に収めたようです。 池田勢は千里丘陵の周縁部はほぼ勢力下に収めるに至り、西国街道・亀岡街道・吹田街道などなど、多くの地域や権益を支配するに至りました。

「白井河原合戦について」のページ

白井河原合戦は旧暦の8月下旬ですので、太陽暦ではもう秋で、収穫の頃です。池田勢が勝利した事により、これらの収穫も手に入れる事になりました。

池田一族衆の池田正行は、こういった状況下で春日社南郷目代今西氏へ、吹田についての音信をしていたものと考えられます。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

2012年8月4日土曜日

摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将

池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。

正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容です。

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尚々吹田寺内衆へも此由堅被仰付候て可出候。少取乱候之間閣筆候。重々対後日私曲之儀在之候ハバ、貴所可為疎意候。(悉無事之様御調専一候。)

南郷五ヶ村扱之儀、相調候由可然存候。就其寺内村之儀も軈而作環住可申候歟。如五ヶ村無別儀様御調所仰候。自然後日ニ申事於在之者、其曲在間敷候。為御案内如此候。恐々謹言。

年欠 十二月十三日 池田紀伊守正行

今西橘五郎殿 御宿所

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吹田殿趾
音信(『今西家文書』)は「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直後のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。白井河原合戦時の吹田村周辺の状況については、「白井河原合戦について」をご覧下さい。

また、文書の内容は、最後に「恐々謹言」とはあるものの、大変高圧的で「慇懃無礼」でもあります。
 しかし、そういった態度を取る事ができる状況だった事がわかります。文書の宛先である今西氏は、奈良春日社の荘園(主に垂水西牧、次第に東牧の山田荘や菟原郡山路荘にも広がる。)を管理する神人(じにん)で、池田家にその荘園から上がる税金の徴収を部分的に任せていました。
 今西氏担当(支配)の地域は、最盛期で7万3千石に達していたそうです。詳しく書くと大変な文章量になるので割愛しますが、今西氏と池田家は重要な関係であり、こういった高圧的な態度で池田家が接していた事はあまり無いのですが、天正時代頃には次第にそういった傾向になっていたのかもしれません。しかしながら、これ程の内容は他にあまりありません。

さて、池田紀伊守正行という人物ですが、「紀伊守」という官位を名乗る前は「勘介(かんすけ)」でした。なぜ同一人物である事が断定できるかというと、文書の最後に書く自分の名前の近くに「花押(かおう)」という手書き印を記します。これはその人だけが持つもので、公的な証明になります。
 この花押が、池田勘介の場合も池田紀伊守の場合も「正行」としての花押が一致します。ですので、地位が変わっていても同一とわかるのです。
 それから、勘介とか紀伊守というのは、社会的地位を示すものです。社会的な地位は伴いませんが、今でも歌舞伎役者などは、こういった伝統的なシキタリの名残がありますね。また、官位は会社でいうところの、係長や課長・部長といった組織内部と、社会通念としてのニュアンスもあります。

正行が生きた時代は、それがそのまま社会的身分となります。また、一族内での順位にもなっていきます。

そしてその地位ですが、下積みといいますか、最初は「勘介」という通称ですが、家中の政治で重きを成すようになると対外的な接触も増える為に官位を伴うようになっていくのが多くの場合です。
 正行の場合は、「勘介」から「紀伊守」となります。紀伊守の社会的身分は、国司という部類で、侍がよく名乗る位(くらい)です。国の名前に「守(かみ)」とつく呼称です。守が最高位で、その下に色々と位階があります。そして、その国にも上下の区別があり、大国・上国・中国・小国となっていて、大国の最高位は従五位(上)、上国は従五位下、中国は正六位下、小国は従六位下です。ですので、池田家の当主の筑後守は上国で従五位下ですので、その他の一族は社会的地位が並ぶ事はあっても越えない範囲で、地位が決まります。紀伊守は筑後守と同じ、上国で従五位下です。
 ちなみに、その他に池田家中で見られる官位は、池田播磨守(大国)、池田肥前守(上国)、池田周防守(上国)、池田遠江守(上国)、池田豊後守(上国)、池田伊賀守(下国)、池田和泉守(下国)、渋谷対馬守(下国)、池田伊豆守(下国)、荒木信濃守(上国)、荒木美作守(上国)、荒木美作守(上国) 、荒木若狭守(中国)、荒木志摩守(下国)、などがあります。

それからまた、この官位は、それを継ぐ家がだいたい決まっていたようです。養子縁組や活躍があって、上位の地位を持つ人物から官位が下される場合などがありますので、厳密には絶対ではない部分がありますが、概ね決まっていたようです。
 ですので、紀伊守を継ぐその先代は、池田正秀の可能性も高いというわけです。この人物は紀伊守から隠居するなどで、名を一狐としたり、斎号を清貧斎と名乗った人物です。どちらが斎号で入道号なのか今はまだ迷う所ですが、公文書にも使っています。清貧斎一狐と一緒に使ったりもしています。

これが同一家系とすれば、親子となります。親子で公文書に署名した史料もあります。

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湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正次(正行か)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参

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この音信(『中之坊文書』)も「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直前のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。また、宛先の湯山とは、現在の有馬温泉の地域です。
 文中にある「池田勘介正次」は、活字にした際に「次」か「行」か判断がつかなかったため、「正行か」と注釈がつけてあります。これは正行です。ちなみに、読めない文字として他にも「荒木志摩守■清」があるのですが、この字は「■=卜(ボク)」です。この人物も地位の高い人物で、多くの書状に署名をしている人物です。それ以外にもここには重要な人物が名を連ねています。
 ちなみに、この文書は「池田二十一人衆」が署名したものとの通説があるのですが、実際には「池田二十一人衆」という集団の史料は存在せず、伝聞記録に現れるのみです。ですので、記録するため(理解)の便宜的な呼称で、その呼称も数回登場するのみです。中には「三十六人衆」とするものまであります。

◎呉江舎(池田氏関係):池田一族連署状のページ

さて、この時の池田清貧斎一狐は、「紀伊守」を署名しておらず、池田正行は「勘介」のままです。書面は後の証拠になるので、その時の状況を反映したものになっていると考えられますが、既知の相手には一々正式な名前や地位を全て書かない事もあるように思います。現在でもあるような、未知の人には当然、正式な事を全て書くでしょう。
 この『中之坊文書』では、荒木村重が、池田姓を名乗り、信濃守の官名まで名乗っています。村重はそれまで、荒木弥介として史料に登場していましたので、この史料が村重の官位を名乗った初期にあたるのだろうと考えられます。同時に、家中での地位が向上していると言えます。
  その事を湯山年寄中に宛てて告げていたとも考えられます。それに加えて、顔ぶれも意味があったと考えられます。
 実は湯山地域へは、当時の主要道でもあった有馬街道があるのですが、京都や大坂からでは、池田を必ず泊地とする立地になっていました。 湯山の更に西には播磨国三木です。そのため池田と湯山地域は、交通・商業などで密接な関係を持っていました。

こういった経緯を持つ、池田正行は、池田筑後守勝正を放逐した後の池田家政の中心的人物の一人となり、池田周辺地域などにも関わっていたようです。詳しくは今のところわかりませんが、冒頭の『今西家文書』を見ると、正行は吹田村方面の政治・軍事に関する何らかの役割を担っていたのかもしれません。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

2012年7月28日土曜日

摂津国吹田城の事

摂津国嶋下郡にあった吹田城については、不明な点が多く、発掘調査もあまり行なわれていない状況にあって今も所在地不明なままです。

この吹田城は、在地土豪の吹田氏にも関係が深いと考えられ、また、その吹田氏は池田氏とも関係を深くしていました。特に池田勝正の時代には結びつきを強くしていました。また、両氏は春日神社・興福寺に関係する接点があったようです。

そんな事もあって、以前から興味を持っているのですが、中々自分なりの解明が進みません。解らないながら、やはり気になって吹田城の記事にはしてみたのですが、腑に落ちないままです。

吹田城のページ

最近また吹田城が気になっていて、少し気合いを入れて考えてみようと考えています。解った事は、またこちらのブログでもご紹介致します。

さて、今ちょっと考えた事を少しまとめてみたいと思います。とりあえず一通り書物を読み直してみます。
『大阪府の地名』『日本城郭体系』『日本城郭全集』『関西地誌図集成』『大阪都市地図』などを見ると、吹田は神崎川(古くは三国川とも)沿いの集落であり、また、千里丘陵やその南周縁を通る街道を複数持つ要地である事が再認識させられます。
 更に吹田は、江口や一津屋など、川沿いの重要な村も近くにあります。これらの立地から、吹田は水・陸の交通を制するには、非常に重要な場所です。『関西地誌図集成』の明治前期に測量された精密図を見てみると、川と密接な関係を持った他の集落と比べても何倍も大きな規模で記録されています。
 ちなみに、江戸時代には吹田村をはじめ、市域の大部分が幕府の直轄領になって、厳重に管理されているようです。

アサヒビール工場北側の府道14号
やはり戦国時代にも城があったとすれば、その村に密接に関わっていたと思います。今推定されている、アサヒビールの工場敷地内、第一小学校付近、第三小学校付近、公園付近は、村の構成からすると離れ過ぎているように考えられます。ただ、関係施設であったのかもしれませんが、主たる施設では無いように思えます。
 また、今は自動車の通行等のために道幅も広げられていますので、当時とは随分と様子も変わっています。
 全国的に第一次世界大戦が終わった大正時代頃に、自動車通行用の道路整備が行われているようで、この頃に画期を迎えているようです。更に、太平洋戦争の末期には、疎開道路が作られ、空襲による火災対応のために道路が拡げられています。吹田村の中心部に広い道路があるのは、そのためのようです。
一般戦災ホームページ(吹田市における戦災の状況(大阪府)):総務省

さて、先ほどの『関西地誌図集成(大日本帝国陸地測量部:明治18〜23年頃測量)』の吹田村部分を見ると、吹田村の真ん中に不自然な水田があります。吹田村周辺は、深田も多いのですが、村の中に水田が残されています。今の内本町2から同3にかけての地域です。この地域からは北東の鬼門に高浜神社が位置する事になります。古地図では、その南側に堤防代わりの街道が高く土盛りされて東西に走り、南界のように区切られています。
 更に、内本町3には泉殿神社の御旅所があり、このあたりが吹田殿(西園寺家別業との推定説)の屋敷跡らしく「吹田殿址」 となっています。

このあたりが城としての中心で、集落全体が城としての概念を持ち、集落を守っていたのではないかとも考えています。西は今の内環状線(国道479号)付近にかけて、北はJR線あたりまで。線路は村の外側に敷設されたのでしょう。
 そして、東側は、今の吹田市川園ポンプ場のあたりまでで、こあたりに割と広い空き地があり、北側の高低差で村の境になっているようです。

また、吹田砂堆という砂地が、片山の丘陵から川に向かって伸びており、今の内環状線(国道497号線)から北東(旧西尾家住宅のあたり)、ダイエーの北東面から川に向かって伸びる道路あたりまでがその範囲になっています。吹田砂堆は周囲の低地に比べて1〜2メートル程高く、また、砂地であるために水はけも良いため、洪水への心配も少ない微高地は居住地として早く利用されていたようです。

片山公園の様子
吹田砂堆からは外れてしまうのですが、第三小学校のあたりには字名で「城ヶ前」 と呼ばれていたらしく、城との関係を伺わせる痕跡があります。
 「東摂城趾図誌」には、その第三小学校のあたりに吹田城があったとする伝承を書き残しており、これが吹田城の有力な跡地推定になっています。
 試掘などが行なわれたようですが、今のところそれらしき痕跡は出ていない様です。
 またそこは、佐井寺方面、岸部方面への幹線街道(亀岡(高槻)街道)にも接しています。その空き地の北に隣接して深田になっています。

しかし、ここが城だとすると、低湿地部分にあたり、水害への備えをしなくてはならず、相当な工事が必要となります。吹田の旧集落にある古いお寺は皆土台を1メートル程高くし、その上に建物が建っています。やはり、洪水を意識して建てられている事が、今歩いてもわかります。
 戦さの最中に雨が降り、自分の城が水没してしまう事は何としても避けなければいけませんが、逆にそこをキチンと対応していれば、攻めにくい城になる事は確かかもしれません。

そうすると、発掘では結構な構造物が検出されるはずですよね...。

もちろん、村を守る城は1カ所では無く、片山方面にもあったと思いますが、今のところ何ともいえないですね。片山姓の土豪も当時の史料に見られます。
 片山の丘陵上の施設となると、近隣の垂水村・佐井寺村や山田村との関係もありますので、その時の政治・軍事環境がどうなっていたかをもう少し調べてみたいと思います。

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