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2013年5月15日水曜日

奈良県生駒郡安堵町窪田にある重要文化財中家住宅

中家住宅主屋
前回(奈良多聞山城の城門遺構)からの続きです。

奈良多聞山城の城門の遺構と伝わる石田家住宅を見学のため、奈良県生駒郡安堵町を訪ねたのですが、その隣の中家住宅が国の重要文化財で、この一帯の歴史的遺物の中心です。
 当然、中世の頃は主郭に当主の屋敷がある、統一的な構造だったと思われますが、永い歴史の中で家名保存のために養子縁組などが行われて、同じ敷地内に二つの家系が置かれるようになったようです。
 江戸幕末などの社会的な大混乱の中で明確な事はわからなくなっているようで、今は、縁続きではあるけども、別々のお宅になっているようです。また、石田家住宅は現在無住で、家の痛みが目立ちます。

内堀の様子
この中家住宅は勿論、建物もすばらしい歴史的遺物ですが、その周囲もすばらしい環境です。中世の館城がそのまま残っていて、大変参考になります。
現在、外堀は途切れていますが、元は二重に囲まれていたらしい水堀で、江戸期に手を加えられているものの内堀はそのまま残っています。
 また、その周囲には集落があり、そのまた外側は自然の川を利用した集落の結界、即ち、堀になっていたようです。

この中家は『中家の魅力(向陽書房)』によると、南北朝時代に足利尊氏に従って伊勢国鈴鹿郡から大和国へ入り、1339年(暦応2)12月に現在の窪田に定着したと伝わっています。この時、岡崎庄・笠目庄・窪田庄を幕府から領地が認められ、窪田対馬守康秀を名乗ったようです。
敷地内の中氏菩提寺「持仏堂」
その後、同一族は中氏を名乗り、奈良の有力者に成長しつつあった筒井氏の縁続きともなって、窪田一帯に威をふるうようになったようです。
 この中氏は、筒井順慶など、その一族の大和国統一戦のために尽力するも、筒井氏の国替えには従わず、大和国に残って、それ以来今も現在の地に在るというわけです。
 
凄いです。

永禄9年春から始まった三好三人衆と松永久秀との戦いの時には、池田勝正も三好方として3,000〜4,000程の兵を大和国へ入れています。この時、筒井順慶は三好方として多聞山城などを攻撃していましたので、両者は友軍として軍議などでは顔を合わせていた事でしょう。

外堀の様子
中氏は、中世以来の由緒により13人の被官を持つ家柄でしたが、1595年(文禄4)、大和国領主となった増田長盛により行われた検地の折、士分を停止させられます。
 この時中氏は、百姓としての身分が確定(決心)し、新たな時代を歩む事になったようです。既に被官を率いる程になっているため、自分の意思だけではなく、支える人々とも話し合って、土地に残る事を決めたのでしょう。
 そして、時を経て近世には、庄屋や大庄屋としての役目を江戸幕府から命じられ、現在に至っています。

重要文化財中家住宅は、永い歴史が1カ所に積み重なっています。

窪田の集落の様子
先にも述べましたが、中家住宅は勿論、建物も大変貴重で、すばらしいのですが、その周囲の環境までも残っている点で、非常に珍しい文化財です。

是非一度、訪ねてみて下さい。
※施設の維持協力金として一人500円の入館料がかかるのですが、是非ご協力下さい。また、今もお住まいの個人宅ですので、予約の上で、訪ねて下さい。

参考:奈良県生駒郡安堵町役場中家住宅のページ

ちなみに、安堵町は中々交通事情の不便なところにあるのですが、それ故にこれ程の文化財が残ったとも言えます。すばらしい文化財を目の当たりにすれば、多少の不便さも吹っ飛びます。
 それから、こちらのお宅でも10年程前に先祖伝来の鎧兜一式が盗難に遭ったのだそうです。犯人は捕まったそうですが、盗られたモノは戻って来ないのだそうです。こんなお話しを聞くたびに、本当に何とも言えない、涙の出そうな激しい怒りを覚えます。

2013年5月4日土曜日

奈良多聞山城の城門遺構

伝多聞山城城門の構造
前からちょっと気になっていた、多聞山城の城門遺構と伝わっている石田家住宅の門を見学に行ってきました。この門は、国指定の重要文化財である中家住宅に隣接して今も残っています。石田家住宅は今は無住で、外観だけを見る事ができるのですが、無住のせいか、随分荒れ果てています。

奈良の多聞山城は、池田勝正も3,000程の兵を率いて攻めています。 随分と難航しながらも、城そのものは落します。しかし、戦略的な意味は果たす事ができず、闘争そのものの決着をつけるには至りませんでした。

この石田家住宅の門は、あくまでも伝承で、多聞山城の遺構かどうかは不明なのだそうですが、見た所、庄屋さん宅の門としては頑丈すぎる構造のように思えます。門柱は、幅45センチはあろうかという太さです。


伝多聞山城城門全景
石田家住宅に隣接して中家住宅があり、同家は大庄屋を務めた家柄だったそうですが、確かに徳川幕府統治の重要拠点であったとはいえ、これ程の門とその構造はちょっとアンバランスで、様式を重んじる時代にしては、不自然なように思います。

また、近江坂本城の遺構と長い間伝わっていた「西教寺総門」が、最近の調査で伝承通り、坂本城の遺構である事が確認されたりしていますので、伝承は結構正確である可能性も指摘されています。
※個人的な経験で、そうでない事もありますが、そういう場合は、時代が合わないし、後世に造られたりしているものも多いので、ちょっと調べると直ぐに判ります。

さて、この多聞山城の城門遺構が、もし本物だったら、全国版ニュースに取り上げられる規模の大ニュースでしょうし、城郭史分野、建築分野にも大きな波紋を投げかけるとともに、研究も大きく発展する遺構になるでしょう。

重要文化財 中家住宅
お話しでは、中家住宅が重要文化財になる時の調査で、石田家住宅のこの門も一応調べられたし、その後、平成12年くらいに移築保存の話しも上がっていたそうですが、何れも確固たる立証に至らず、認定は見送りになったとの事でした。

しかし、専門家が見ても意見の分かれる事も多いですし、また、文化財の持ち主との関係等から、うまく事が進まないケースも多いため、本質を見失って、本願を遂げられない事も少なくありません。
  それ故に、真偽の程はグレーなまま、この遺構の扱いが曖昧になり、現物は日増しに朽ちているという状況です。

文化財は、この先新たな環境を迎える事が必定で、今、文化財についてしっかりと見つめておかなければ、日本固有、地域固有の文化財は急速に朽ちて行く事は明らかです。
※最近では、大東市の平野屋会所保存についての問題、大阪市の渡邊家住宅の保存に関する問題などがありました。いずれも取り壊しとなり、大変貴重な文化財が破壊されてしまいました。双方共に相続に関する金銭的な問題です。

自分達の共有してきたものを残し、伝える事は、国の豊かさや強さに繋がっていると感じています。「国(日本)のまほろば」といわれる奈良県は、特に事を他の地域よりも真剣に考えていただければと願っています。

奈良県は、東大寺や春日大社だけではない、すばらしい文化財が沢山あります。是非、機会をみつけて見学にお出かけ下さい。


追伸:文が長くなり過ぎましたので、重要文化財の中家住宅については、また、改めて紹介します。中家住宅もすばらしい文化財でした。


2010年1月30日土曜日

大和信貴山城について


 現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。
 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。
 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概念が芽生え始める頃には、それらがネットワーク関係を以って構成されていたようです。
 永禄年間には、大和領有を目論む三好長慶勢の最前線となり、生駒山地の北端部に飯盛山城を大城郭に変貌させます。
 それに先立って、松永久秀が生駒山地の南端付近に信貴山城を根拠地として、大規模に改修を行っていました。
 この事は、京都と大阪、和泉方面から大和国への流通について監視や管理が可能となり、三好勢にとっては、大和への進攻のための補給をその西側の大坂湾から安定的に受ける事ができます。
 また、生駒山地の頂上部はほぼ平坦で、道を通して南北の移動が可能です。そのことは、生駒山地を東西に貫く、いくつかの街道管理のためにも必要な事でもあります。要するに、生駒山地を利用すると非常に迅速に大和・河内両国の有事に対応する事が可能になります。
 この事から、飯盛山城信貴山城は、生駒山地を利用して、相互関係を保持していたと考えてもいいように思います。両城ともに、兵や物資を大規模に備蓄が可能なつくりとなっていますし、有事への機動性を確保する意図があったと考えてもいいように思います。
 また、生駒山地(津田城・二上山城)や摂津国北部の山地(池田城・芥川山城)を支配する事は、大阪平野を取り囲む広域の情報ネットワークを活用する事が十分可能で、実際にそれぞれの山城に登ってみると、その事が考慮されていたと考えざるを得ません。
 それぞれの城は目視が可能な位置にあり、それぞれを伝えば、京都へも奈良へも神戸へも簡単な伝達が可能になっていますし、交通の拠点にあたる位置には、大規模な城が存在している点から考えても、連絡を迅速に行い、素早く行動できるようにできるネットワークと仕組みになっていたと考えられます。