2018年10月19日金曜日

【貴重な資料映像】日本陸軍 最前線の中隊本部の様子

ユーチューブを見ていて見つけました。中国大陸での実際の中隊本部の様子です。この映像の解説には、「中支那派遣軍第11軍。最前線の中隊本部の様子。生々しいドキュメンタリー。」と短くあります。

 刻々と変わる様子を把握しながら、必要な手立てを講じるために、控えている将校に次々と指示を与えています。また、現場から状況を伝えに来る伝令。それを聞き、地図を見、立体的に状況を把握していく中隊長。

出入口の外には、馬や犬、忙しく動く兵。大砲と機関銃の音は、四六時中聞こえています。また、小隊長なのか、担架で運ばれて来て、中隊長以下、将校がその様子を見に行きます。戦死したのかもしれません。

場面の最後は、本部を移動させます。後退では無く、戦況が好転したのか、前進させるようです。

戦国時代の本陣もこれに近い感じだったかもしれません。もっとも、大砲や機関銃を主体にした戦い方ではなかったので、高いとこから見下ろして、状況を把握していたのでしょう。鉄砲玉もそんなに遠くまで飛びませんので、もっとオープンな空間で指揮をしていたのかもしれません。
 しかし、伝令が来たり、出したり、という状況は同じで、そういう連絡や状況把握の仕方は、そんなに変わらないでしょう。

いずれにしても、実際の指揮所の様子が映像で残っていたのは、大変貴重だと思います。




2018年10月17日水曜日

明智光秀と池田勝正

永らくブログをご無沙汰していました。楽しみにされていた方はゴメンナサイ。

今後は、その償いができますように、できるだけブログを更新したいと思います。長文でなくても、できるだけ、こまめに。

2020年の大河ドラマは、明智光秀に決まったようですね。実は、池田勝正って、明智光秀とも浅くない関わりを持っています。同時代に中央政権に関わり、同じ幕府方の人物でしたので、それは必然です。
 また、池田衆は、足利義昭将軍政権の黎明期においては、最も頼りにされた勢力であり、軍事・経済力共に、摂津池田家は、将軍義昭を支える最有力として、正式に摂津守護(今の知事に相当)も任されていました。
 ですので、将軍側近の明智光秀とは、頻繁に顔を合わせ、打ち合わせを行っていたと思われます。京都に屋敷も構えていた筈です。
 元亀元年(1570)4月の朝倉攻めにおいて、後退戦を行った「金ケ崎の退き口」では、明智光秀と池田勝正が、幕府方として、また、木下藤吉郎秀吉が織田信長方として、その任務を果たしています。

これに続いて、間髪を入れずに「姉川の合戦」を計画し、これにも将軍出陣の準備をしていました。この時も、池田衆は将軍勢の最有力として従軍し、織田信長衆の後詰めを行う予定でした。
 しかし、三好三人衆の調略があり、池田家では内訌(家中騒動、クーデター)が起こって、 北近江出陣の計画は果たせませんでした。将軍と、池田衆の出陣ができなかったため、合戦において最も重要な後詰めを欠いて、姉川の合戦に臨みました。織田信長がこの合戦に苦戦したのは、そのためです。もちろん、戦術的不利だけではなく、戦略上もこの時には陥っていました。三好三人衆など、反織田信長勢力による一斉蜂起です。

池田勝正は、池田家内訌後は、幕府方として活動していましたので、引き続き、明智光秀や細川藤孝などとも行動し、将軍義昭を支えました。

きょうは、この辺で。

2018年6月9日土曜日

戦国武将池田勝正の権力構造

摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領、池田筑後守勝正について、永年研究をしているのですが、最近になって何となく気づいた事があり、急に勝正像の輪郭が出てくるようになったような気がします。

その結論を先に言うと、勝正はそれまでの惣領の権力とは異なり、家老(官僚)であった池田四人衆によって立てられた当主であると考えられます。つまり、順当な流れとして捉えられている、当主の嫡男から選ばれて、家中が従うという、単純な民主的手法では無いと思われます。これが異常とか、突出したということでは無く、その時の均衡で生まれた絶妙な権力体であったと思われます。
 この経緯や理由は、様々にありますが、四人衆の独自権力行使とその活動の最大化の始まりであったと考えられます。
※厳密に言うと、四人衆のこの権力指向は、前代にもあったので、これはこれで詳しくご紹介しないといけませんが...。
 
結局、この四人衆権力の強大化が、摂津国最大級の繁栄を誇った池田家を崩壊させてしまう事になります。勝正の四人衆による擁立が、その始まりで、これを機に家中政治での権力強化・確立が成されたのかもしれません。また始めは、両者共に「もちつもたれつ」だったかもしれません。
 それまでは、家中の様々な意見や権力が分立していた状況の、集約が進んだ可能性もあります。
 
さて、私の結論である「勝正が四人衆によって擁立され、それまでの当主とは性質が違う」という点について、論を進めたいと思います。
 先ず、史料です。この史料は、池田四人衆(この時は三人衆)により、将軍義昭へ、池田当主として民部丞を立てる旨を申請して、将軍から返答を受けています。元亀3年と思われるものです。
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98

-(史料1)-----------------------
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
(年記を欠く)11月6日
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この中で四人衆は、前の当主でもあった勝正を再び当主に立てるのでは無く、民部丞という別の池田家中の人物を立てると申請しています。

一方で、民部丞なる人物ですが、この人物は元亀元年6月の池田家内訌で勝正が失脚した後に立てられたと思われる代表者(当主)です。史料がありますので、ご紹介します。
 それらは全て元亀元年の発行で、宛先は広範囲ではありますが、池田家が禁制などを下した実績のある地域や組織です。また、この民部丞の花押は、3通とも一致しますので、同一人物であると考えられます。以下、史料をまとめて示します。
※元亀元年7月分:島本町史(史料編)P443 / 同年9月分:川西市史4(資料編1)P456 / /同年11月分:箕面市史(資料編2)P414

-(史料2)-----------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事並びに放火事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、国質・所質に付き沙汰之事、一、非分申し懸け族(候?)事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩に於て者、速やかに厳科に処すべき者也。仍て件の如し。
元亀元年7月 
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-(史料3)-----------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
元亀元年9月 
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-(史料4)-----------------------
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
元亀元年11月5日 
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この民部丞の発行した直状(上から下への通達形式をもった書状)は、四人衆による副状が今のところ見当たりません。ですので、民部丞は一定の権力として、地域社会の認知は受けていたものと考えられます。
 しかし、民部丞についての史料はこの3通の他には無く、活動実態は掴めないところがあります。この民部丞の禁制発行の後、元亀3年の秋頃に、池田四人衆によって再び当主として擁立するような動きがあったと見られます。

『荒木略記』など、後世の「軍記物」レベルですが、勝正の失脚後に当主を立てたとしている記述があり、これがそれにあたるのかもしれないと考えています。史料として裏付けができなくない可能性があります。

いずれにしても、そのような経緯があるとすれば、四人衆が当主を独自に決められる程の権力となっており、立てたり、廃したりしている様子も史料から窺えます。
 一般的な理解や感覚を以て見れば、民部丞が全うな当主であり、尊敬と実力があれば、このような状況は決して生まれる筈がありません。普通の感覚と環境であれば、両者は感情的な衝突に発展するでしょう。しかしそれは、武力での解決が見られず、平然と起きています。また、民部丞が池田家当主が代表としてでは無く、四人衆が幕府に直接交渉もし、用件を進めて、上位権力とも堂々とやり取りしています。
 元亀3年11月の史料内容からすれば、民部丞も勝正も、共に前池田家惣領格ですが、民部丞の方が勝正よりも時局に対するために都合が良いと考えたのか、四人衆は民部丞を擁立しています。また、勝正を立てると都合の悪い事があったのかもしれません。どう考えても、幕府への貢献は勝正に大きな実績があります。
 一方、この頃、このように勝正の名前が上がるわけですから、確実に生存しており、連絡のつく関係でもあったことは確実だったのでしょう。

さて、このように、池田四人衆が当主に代わる権力体になった事から、都合の良いことと、悪いことを操作する面もあったのかもしれません。時代と状況が非常に早く複雑で、判断の誤りや失敗も多くあった事でしょうし、人的なつながりも複雑になり、混沌としていた時代が家中にも及んでいたことでしょう。四人衆権力があったとしても、采配が難しくなっていたと想像できます。責任や権利が自分の力量を越え、結果的に自業自得に陥ったのだとも思われます。あれ程の繁栄を誇った池田家を自分の代で崩壊させてしまったのです。

未だ集めるべき史料と証拠を、筆者は手に入れていないのかもしれません。また、もう少し、細かな事物があると思います。これはこれから追うとして、今のところ、そのように考えています。


2018年2月12日月曜日

奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正について(奈良東大寺合戦)

西方寺表門
草鞋山(そうあいざん)西方寺は、池田勝正に縁があるお寺でもあります。松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年(1567)、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。
 この時の様子について、『多聞院日記(以下、多聞院)』に詳しく記述があります。

5月2日、池田勝正など三好三人衆勢が10,000程の兵を率いて東大寺へ陣を取ります。『多聞院』同日条をご紹介します。
 
-(史料1)-----------------------
石成並びに池田衆以下10,000計りにて東大寺へ陣替え、念仏堂・二月堂・大仏の廻廊等に陣取り了ぬ。松永弾正衆は戒壇院に籠り、大天魔の所為と見たり。浅猿浅猿。
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同月5日、池田勝正と三好山城守が交代の兵として4,000〜5,000程を奈良へ入れます。同日条の『多聞院』です。

-(史料2)-----------------------
路次不通の間社参叶ず。日中後雨下り了ぬ。一、池田衆並びに三好山城守番替えとして、4・5,000程越し了ぬ。
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この奈良の三好三人衆方と松永久秀方の闘争の様子が、京都へも伝わります。『言継卿記(以下、言継)』5月15日条です。

-(史料3)-----------------------
今日摂州之池田・篠原等、和州へ陣立て云々。8,000計り云々。三好下野守以下、二月堂、東大寺大仏殿、高畠等方々陣取り。12,000計り之有り。三好左京大夫・松永弾正・同右衛門佐以下、多聞城・興福寺・東大寺之戒壇等之持ち云々。5,000計り云々。
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西方寺本堂
その2日後の17日、池田勝正が奈良油坂の西方寺へ移陣します。『多聞院』5月17日条です。

-(史料4)-----------------------
摂州池田自身越して、今日西方寺に陣取り了ぬ。三好下野守は此の間、天満山にありしも、西へ廻りて西の坂に陣取り。以上7〜8,000程西へ廻し了ぬ。石成大将として念仏堂にありし衆は、氷室山法雲院の後ろの畠に取り寄せ了ぬ。筒井は大乗院山同所也。寺内へ通路絶し了ぬ。
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国宝転害門
この時、戦況の変化で、三好三人衆方が要所へ陣を置く、陣替えを行ったようです。勝正はその中でも、佐保川の南、奈良市街の段丘上の西端、油坂の西方寺へ陣を取っています。
 その翌日の夜、池田勝正は多聞山城の橋頭堡である宿院城に夜襲をかけますが失敗し、100名程の侍大将である下村重介という武将が戦死。攻略は失敗に終わります。また、これについて松永久秀は、城下の火の用心のため、坊舎を取り壊すよう指示を出しています。
 『多聞院』5月19日条です。

-(史料5)-----------------------
一、昨夜宿院の城へ夜打ちして、池田衆損じ了ぬ。㝡福院(さいふくいん)へ込み入り了ぬ。(下村重介死に了ぬ。100計りの大将と云々)事の終い次第也。坊舎をもこぼち了ぬ。並びに金龍院辻の城の火用心に、坊を取り壊すべくの由申され歟。浅猿浅猿。
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転害門に残る銃撃戦の跡
22日、どちらの手かは判りませんが、多分、松永方だと思います。未剋(午後1時から3時)に宿院城近くの町が焼き払われています。
 同日条の『多聞院』です。
 
-(史料6)-----------------------
未剋に二条郷・内侍原(なしはら)以下焼き払われ了ぬ。笑止笑止。
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この事態に池田勝正は、更に強気な態度を見せ、西方寺から更に東の「マメ山(大豆山)」へ陣を進め、宿院城至近に兵を寄せます。『多聞院』5月23日条です。

-(史料7)-----------------------
一、今暁マメ山へ池田衆陣を寄せ了ぬ。
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二月堂
包囲を狭められる松永久秀は、この打開策として、その翌日、兵を出して無量寿院などを焼いて、三好三人衆勢の更なる前進に備えます。『多聞院』5月24日条です。

-(史料8)-----------------------
夜前多聞より無量寿院焼き了ぬ。一、今暁法輪院へ三人衆入り了ぬ。之依り宝徳院・妙音院・徳蔵院以下悉く以て多聞山より火矢にて放火了ぬ。
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多聞山城は要所に城や砦を配しており、攻めるのは大変難しかったようです。佐保川を天然の堀として、その南側の丘陵上に橋頭堡としての宿院城を築き、そのすぐ西側の北小路には飯田氏の城(北小路城)が、東の雲井坂にも砦がありました。
 また、宿院城から1里(4キロメートル)程北西には超昇寺氏の城、更に多聞山城から北東に2里(8キロメートル)程には鹿背山城、東の柳生氏とも連携しています。

三好三人衆勢が、完全に多聞山城を包囲している とは言い難い状況ではありました。だからこそ、東大寺域内に陣を取ることを考えたのではないかと思います。

28日、三好三人衆方筒井順慶衆の秋山勢が、遂に多聞山城を攻め始めますが、守りが固く、決定打に欠く状況だったようです。
 しかし、この時に多聞山城攻めの橋頭堡構築に成功し、宿院城をも東西から挟むカタチを取ることができたようです。『多聞院』5月28日条です。
 
-(史料9)-----------------------
一、申刻(午後3時〜5時)秋山衆無量寿院(場所不明)の屋敷門の築地に矢倉を上げ打ち寄せ了ぬ。手負い少々之在り。当座2人死に了ぬ。間僅か24〜25間(約450メートル)歟。
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東大寺南大門
この後、多聞山城攻めは膠着状態となり、他の地域での交戦が行われたようです。
 8月に入ると、多聞山城攻めが再び始まり、16日に軍勢をまとめ、三好三人衆勢が動きを見せます。『言継』8月25日条です。

-(史料10)-----------------------
去る16日大和国南都の儀、松浦・松永彦十郎等興福寺自り出、三好日向守以下同心、池田手へ出云々。
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東大寺南大門柱に残る弾痕
同じ日、奈良興福寺の塔頭多聞院の英俊もこの動きを日記に記しています。『多聞院』8月16日条です。

-(史料11)-----------------------
一、早旦より三人(衆)東西へ出勢了ぬ。午刻(午前11時〜午後1時)に松浦・松山人数200計りにて裏帰り、西の手へ出了ぬ。
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同月21日、池田衆は松永方の超昇寺勢と交戦を行います。この場所は不明ですが、西方寺から大豆山の陣にかけての、佐保川を挟んでのことかもしれません。この交戦で双方に少し戦死者が出たようです。『多聞院』8月21日条です。

-(史料12)-----------------------
超昇寺殿(現奈良市佐紀町)人数、摂州池田衆出合わせ一戦に及び、少々双方死に了ぬ。
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南大門側面の弾痕
この後、両陣営は一進一退を繰り返しつつも、徐々に松永方が圧され始め、多聞山城に三好三人衆勢が迫ります。総攻撃を前日に控えて、準備をする三好三人衆勢の陣へ松永方が夜襲をかけた運命の日、10月10日を機に、一時的に形勢は逆転し、闘争は更に泥沼化します。

池田勝正も西方寺の僧侶も、この時の火を見ていたはずです。勝正は特に大仏殿に陣を置いていましたから、間近に見ており、どんな気持ちで、大仏が焼け落ちる姿を見たのでしょうか。池田勝正が西方寺に陣を取った年、奈良では歴史的な大事件が起きた年でもありました。
 草鞋山西方寺について、まとめられている資料がありますので、ご紹介します。いつものように平凡社の地名シリーズです。
※奈良県の地名P542

-(資料1)-----------------------
【西方寺】(奈良市油阪町)
草鞋山(そうあいざん)と号し西山浄土宗。開基は祐乗と伝える。もと東大寺の別院で佐保山麓にあったが、永禄年間(1558-70)松永久秀が多聞城を築く際に移して西方寺と改めたという。本尊阿弥陀如来坐像(国重文。鎌倉時代)は、廃眉間寺(現在は現法蓮町)の旧仏といわれる。銀杏の大木があり、厄除銀杏とよばれる。西北の墓地は奈良で最大、南都惣墓と称され、室町期の石仏や石塔が見られる。
-----------------------(資料1おわり)-

続いて、随分前に西方寺さんを訪ねた時にもらった案内(パンフレット「参拝の栞」)を抜粋してご紹介します。

-(資料2)-----------------------
◎開基は行基菩薩
皆さんから西方寺と呼ばれているこの寺は人皇45代聖武天皇の御宇神亀年間、行基菩薩によって多聞山(今の若草中学校付近)に創建されました。今でも時々西方寺のものと見られる屋根瓦や疎石が出てきます。何れにせよ西方寺のそもそもの基は相当に古く少なくとも平成の今日から1200余年前には既に開かれていたという事になります。

 ・ほろほろと鳴く山鳥の聲きけば 父かとぞ思う母かとぞ思う。
 ・六つの道おちこち通うはらからも 我が父ぞかし我が母ぞかし

という和歌は西方寺の開基行基菩薩が多聞山でお詠みになられたものであるといわれます。余りにも昔のことですので、行基菩薩をおしのびする形見の品はありませんが、この表の門だけは多聞山から移転後も現存する唯一の建造物である点に歴史の重みが感じられます。その右後方に見られるのが厄除け銀杏です。
※表門は平成25年(2013)に建て替えられています。

◎移転再興と南都総墓所の御綸旨
しかるに、天下麻の如く乱れた室町時代、戦国武将の一人松永弾正久秀が多聞山城を築くにあたり、時の住持、祐全(ゆうぜん)上人によって現在の地に移転再興せられたのであります。
 それが永禄2年(1559)であり、正親町天皇からは南都総墓所の御綸旨も下賜されました。再興される前年には織田信長と今川義元が桶狭間で、再興の翌年には上杉武田の両将が川中島で覇を争うという戦乱の時代に当たります。毎年6月18日の祐全上人の祥月命日には西方寺婦人会員達が祐全上人とお弟子の祐範、祐乗の三上人の旅僧姿をして御生前の御苦労をしのぶ開山忌がつとめられます。

◎重文指定の御本尊と宮本武蔵と山号
西方寺の本堂正面須弥壇におまつりしている御本尊阿弥陀如来は平安時代の高僧慈覚大師が一刀三礼の丹誠こめてお作りなされた有り難き御木像で京都の真如堂の御本尊と並び称されています。
 若き日の剣聖、宮本武蔵が修行の道中、この寺に逗留し朝夕、心経と念仏をとなえてお仕えした由来にもとづき心経念仏の弥陀とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
 西方寺の山号を草鞋山(そうあいざん)と申しますのは現在地に移転再建された室町時代、この付近一帯が広野原で、春日神社や東大寺に参詣にこられた京都の勅使や公卿達、諸国行脚の道中奈良の地を訪ねられた修行僧達がこの地でワラジを履き替えたり、紐をしめ直したりされていた事から草鞋野(わらじの)と呼ばれていたことに因んでつけられたものであります。

◎茶席空庵の由来
西方寺の庭に空庵(くーあん)という茶席があります。室町時代の永禄2年にこの寺を多聞山から現在地に移転するという大業を成就せられた中興開山祐全上人が隠居せられた際に弟子で第二世をついだ祐範上人が御師匠の老後をお慰めするために創建せられたもので、その様式形態は洛西の苔寺にある茶席湘南亭と同じ小庵好みといわれ手摺りつきの露台が付属している事、その露台の屋根裏が土天井である事、正客が、下座につく所謂下座床である事等に特徴があるとされておりますが、元文5年(1740)、火災で焼失したものを昭和4年(1929)に総代の井倉宗苔氏(当主乙弥太氏の祖父)が私財を惜しみなく投じて昔通り復元せられたのはまことに奇特の至りであります。

◎そのひと言
そのひと言で はげまされ そのひとことで 夢をもち
そのひと言で 立ち上がる そのひと言で 風が立ち
そのひと言で がっかりし そのひと言で 泣かされる
ほんのわずかなひと言が 不思議な大きな力をもつ
ほんのちょっとのひと言が
察しあいよろこばせあい 折れあいて
あわぬ性分 あわす合掌
-----------------------(資料2おわり)-

時代の変化で、このあたりを訪ねる度に町の様子は変わっています。少なくなりつつありますが、今も残る歴史的遺物が、過去を思うキッカケにしてくれます。

2018年2月4日日曜日

永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻について

筆者は、但馬・因幡山名氏の事は、池田勝正も従軍したため、関心を持っています。

永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻は、複合的な目的を持っていたと考えられ、そのひとつに、山名氏の制圧もあったと思います。毛利の要請もあり、幕府の軍事行動は、協力関係を保ちながらの共通目的の遂行でもありました。
 しかし幕府・織田方の思惑には、生野銀山の支配もあったと思われます。将軍義昭政権が始動したものの、資金面も含め、無いものづくしでした。

しかし、幕府・織田方の想定通りにはいかなかったのが、歴史としての結果です。

それから、この時の事を少し細かく見ると、毛利方と敵対する、三好三人衆方に加担する赤松・浦上・宇喜多勢の牽制(龍野赤松氏支援)のために、播磨国庄山の辺りに拠点を設け、そこから軍勢を割いて、但馬山名氏制圧のために北上させているようです。
 しかし、肝心の播磨国方面の軍事作戦が失敗し、龍野赤松氏が青山合戦でまさかの敗走となったため、北上していた軍勢は逆包囲を避けて、急遽退却した。決して幕府・織田信長方が優位ではない、微妙な状況を感じ取って、山名氏とその有力者は権益確保の抵抗を行ったのではないかと考えています。

その後、同年秋に再度、池田勝正ほか摂津衆などの軍勢が播磨国に再侵攻し、龍野赤松氏の支援を行っているようです。養久の乙城の伝承がそれに関するものではないかと思います。
 それと、この時の出来事と思われる事件が『播磨国鵤莊史料』に見られます。御太子絵伝を池田衆が持ち帰ったところ、色々不吉な事が起きるので、返す。、みたいな事が書かれていて、これが永禄12年秋の事ではないかと考えています。第一次播磨侵攻では、ここまで進軍できていないため。

ですので、幕府・織田勢は、庄山あたりを拠点にして活動し、ここを突破口として様々な軍事・政治的な重要資源としていたと考えられます。幕府の官吏的使僧の朝山日乗が、庄山城から、毛利方へ状況をこと細かに報告しています。
 少なくとも、この時点では別所氏も幕府方でしたし、不可能なことではないとも思います。第二次侵攻もその線上にある要素ではないかと思われます。

一方で、元亀元年(1570)の朝倉氏攻めは、この膠着した山名氏の対策も意識して行われた、大動員を条件とした示威的軍事行動ではなかったかと思います。錦の御旗をも持ち出していますし。これがうまくいけば、山名氏の背後を脅かす勢力を形成できます。
 実は、今井宗久の音信のやり取りにもあるように、将軍義昭の意向である三好三人衆攻めも、当面の達成目標の有力候補であったようですが、この優先度を下げて、朝倉氏攻めに変更したのは、山名氏の事も意識しての事だったのではないかと考えています。

将軍義昭政権樹立後、一貫して今井宗久は、淡路・阿波国攻めを意識し、そうとう綿密でこまめに、三好三人衆方の動向を幕府に報告しています。当初、優先順位としては、こちらの方向性が有力だったと考えられます。兄である将軍義輝を弑逆した、中心人物ですから当然のことです。
 それが、急旋回するような唐突感でもって、永禄12年冬頃から翌年初頭にかけて、越前攻めになったのは、やはり前記の状況を打開するために、将軍義昭政権としての方針の変更、目的達成の優先順位を変更したと考えられます。政権基盤安定の大きな目的のために...。
 
近日に、このテーマを少し詳しく紐解いてみたいと思います。