2016年10月26日水曜日

元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について

元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。
 しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必要を生じさせていました。猪名寺合戦は、この目的で画策されたと考えられます。実際の合戦時期は、微妙に目的要素の優先度が入れ替わっているですが、複合的な必要性で合戦に至ったと思われます。
 それから、永禄12年4月に伊丹氏は、幕府から河辺郡潮江庄代官職を認められている事から、同地域を三好三人衆方に侵される状況にあって、不十分ながらもこれらの排除のために出陣したとも考えられます。 加えて、猪名寺合戦直前の7月12日付けで、伊丹忠親が尼崎本興寺に宛てて禁制を下していますので、尼崎の保護・確保のために取った軍事行動でもあると思われます。
 そしてその交戦の場となった、猪名寺村についての資料を下にあげます。
※兵庫県の地名1(平凡社)P478

(資料1)---------------------------
参謀本部陸軍部測量局の地図(猪名寺部分)
【猪名寺村】
田能村の西に位置し、北は大坂道で伊丹郷町下市場村(現伊丹市)、北東部を猪名川と分かれたばかりの藻川が流れる。正和5年(1316)の作と推定される行基菩薩行状絵伝(家原寺蔵)に、奈良時代に僧行基が建立した「猪名寺給孤独園」が描かれる。明徳2年(1391)9月28日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に猪名寺がみえる。
 元亀元年(1570)8月13日、尼崎に在陣していた淡路の安宅勢が伊丹方面に軍勢を繰り出したのに対し、織田方の伊丹城から猪名寺に軍勢が出され、高畠(現伊丹市)で合戦が行われている(細川両家記)
 慶長国絵図に猪名寺とみえ、高432石余。元和3年(1617)の摂津一国御改帳には猪名寺村と記され高422石余、幕府領(建部与十郎預地)。寛文6年(1666)大坂定番米津田領となり、天和4年(1684)幕府領、同年2月松平乗次領、元禄6年(1693)幕府領、同7年松平乗成領となり、宝永元年(1704)幕府領となったが、延享3年(1746)三卿の田安領となり明治に至る(尼崎市史)。
真言宗 法園寺(真言宗御室派)
用水は猪名川水系三平井・猪名寺井掛り(同書)。宝永7年の村明細書(西沢家文書)によれば、文禄3年(1594)に片桐市正の奉行で検地を実施。家数83、うち高持百姓43・柄在家日用働40、人数407、寺は真言宗・一向宗各1、氏神は伊丹にある。地面取実1反につき米は、1石3、4斗より2石、木綿300目を1斤にして7、80斤より100斤余、麦1石6、7斗、小麦6、7斗。田畑合計39町4反余。馬5・牛16。耕作のほか伊丹酒屋で日用。切畑村(現宝塚市)領長尾山山子村として山手銀を納め草を刈っていた(「長尾山山子村々山手銀届」和田家文書)。
 伊丹郷町明細帳(武田家文書)によると郷町の氏神野宮(現伊丹市猪名野神社)の氏子で、神事費用を負担している。同社は延喜4年(904)当村から現在地に移されたと伝える。明治12年(1879)調の寺院明細帳によれば、真宗本願寺末法光寺、真言宗仁和寺法園寺(真言宗御室派)がある。
猪名寺廃寺跡周辺の地形の勾配差(南東辺)
法園寺は、和銅年間(708-715)行基開基と伝え、天正7年(1579)焼失により廃寺。宝暦8年(1758)定暠再興、明治6年無檀のため伊丹金剛院に廃合されたが、同15年再興。明応(1492-1501)末年頃と推定される宝篋印塔残欠(基礎)がある。西沢家は代々庄屋役を勤めた家柄で、寛永13年(1636)をはじめとする2,650余点の文書を所蔵。
藻川西岸の標高約11メートルの段丘上に猪名寺廃寺がある。昭和27年(1952)・同33年に発掘が行われ、法隆寺式の伽藍配置であることが判明。金堂は凝灰岩切石による壇上積基壇。創建瓦は川原寺式のものが含まれ白鳳期と考えられている。南方500メートルには猪名野古墳群や、瓦・緑釉土器等の出土した中ノ田遺跡などがあり、為名氏の寺院とみられている。
---------------------------(資料1おわり)

上記資料(1)によると、猪名寺村内にある法園寺は、天正6年冬からはじまった荒木村重の乱により、翌年には兵火を受けて焼失したと伝わっているようです。やはりこの時も伊丹を守るための出丸や砦のような役割りがあったのか、猪名寺村が攻められたのでしょう。元亀の猪名寺合戦の時も、同じような位置付けにあったのではないでしょうか。

猪名寺合戦を考える時に、少し周辺状況を俯瞰してみます。

池田家の内訌から10日後の6月28日、三好三人衆勢力が摂津国吹田へ上陸し、京都・大坂の水運の要所を制しました。
 これに関連のある動きとして、7月付けで、池田民部丞が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。これは池田勝正の後任当主かもしれないのですが、今のところ詳しくは解りません。なお、同一人物が、9月付けで摂津国河辺郡多田院に、11月5日付けで同国豊嶋郡箕面寺へ宛てて禁制を下しています。
 これらは何れも、既に池田家当主が禁制を下した実績がある場所で、また、先方から禁制を求められる程の名の通りと実力があったと考えられます。

さて、話しを猪名寺村付近の地域動静に戻します。

猪名寺廃寺段丘東側の藻川。正面は五月山。
吹田に上陸した三好三人衆勢を、幕府・織田信長勢力が攻撃し、7月6日に吹田周辺で交戦しています。その間に、摂津守護伊丹忠親は、尼崎を押さえるために動き(後巻きの意味もあったでしょう)、同月12日付けで尼崎本興寺へ宛てて禁制を下していいる事は、先にも述べたところです。
 この後、同月下旬頃からは、三好三人衆勢の動きが活発化します。27日から翌月5日までは、時系列を参照願うとしまして、9日、三好三人衆方で淡路衆の安宅信康勢は、兵庫から尼崎へ進んでいます。
 この安宅勢と池田衆が、伊丹方面へ進み、交戦となりました。この頃の伊丹城は、後に荒木村重が改修して有岡城とする前であり、基本的な防衛プランは共通していると察せられますが、中世的な、防御要素が散在する状況だったと思われます。
 そのため、街道を通し、周囲より小高い地形を成す猪名寺は重要な防衛拠点だったとも思われます。また、猪名寺の東を流れる藻川・猪名川は、川幅が広く、通常は水嵩も左程高くないために徒渉が可能です。江戸時代にも橋は架けない(防衛上の意味もあるが)方針が採られていたようです。
 
猪名川・藻川の渡河可能推定
この渡河できる地点と街道、渡しの場所などを詳しく検証しているサイトがあるので、そこから図を引用させていただきます。このサイトは、羽柴秀吉の「中国大返し」から天王山の合戦への道程と経緯を深く掘り下げられています。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
※ご注意:これらの資料を引用させていただくにあたって、情報元の方にご連絡しようとサイト内を探したのですが、連絡先がなく、引用元の明記を以て、ご挨拶に代えさせていただきます。もし、不都合がありましたら、当方までご連絡いただきたく、お願い致します。

猪名寺合戦について『細川両家記』に記述があります。安宅勢が尼崎から北上し、伊丹城周辺を打ち廻りましたが、池田衆もこれに呼応して伊丹方面へ出陣した模様です。池田衆は、後巻きの役割だったのかもしれません。これを見た伊丹勢は、100名程が城から出て応戦しようとし、猪名寺辺りまで出た所で交戦となって、池田衆もこれに加わったようです。伊丹勢は劣勢となって押し返され、池田衆が高畠辺(有岡城縄張内の南部にある高畑村と関係するか)あたりで、4〜5名を打ち取り、伊丹衆は城へ退いた、としています。細川両家記の「猪名寺合戦」の模様を以下にご紹介します。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

(資料2)---------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
※『細川両家記』での「へ」は、現代感覚の「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があるように思われる。
---------------------------(資料2おわり)

この交戦により、三好三人衆方がこの方面では優位を確保し、伊丹の孤立化を図る事ができたと思われます。
 文中の「淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也」とは、淡路衆の兵庫から尼崎への陣替えが、尼崎惣中の外だったという状況だったかもしれません。考えられるのは、本興寺と同じ日蓮宗ですが、より三好三人衆方に縁が深い長遠寺のある別所村でしょうか。
 伊丹方が7月12日付けで本興寺に宛てて禁制を下しているので、この時までは尼崎本興寺などに伊丹衆が居て、猪名寺の交戦で優位となった安宅衆がその勢いを借って、本興寺の伊丹衆へも攻撃し、尼崎を制圧したのかもしれません。
慶長国絵図を元に地形と街道の関係を推定復元
また、当時の伊丹と猪名寺との地形を考えるための参考になる図があるので、引用させていただきます。慶長国絵図を元に、地形と街道の関係を推定復元されています。猪名川を渡河するための道が何本かあり、それらを使って池田衆が、伊丹城攻めのために、進軍したのかもしれません。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
 ちなみに、田能村出身の武士の田能村氏は、どちらかというと池田氏よりの関係だったらしく、そういう環境を利用して進軍したり陣を取ったりしたと考えられます。

一方、この頃の河内国方面では、8月17日に古橋城(現門真市)が落ちましたが、ここは兵站基地でもありました。ここに伊丹方の軍勢が150名程入っていた(三好義継方からも150名)のですが、攻撃によりほぼ全滅しています。
 これは、この10日程後の記録として史料に現れる、幕府・織田信長方勢力の陣取り場所である「天満森」への物資供給の準備だったと思われます。この時の古橋城は、兵粮の集積を行っていたとの記述があります。

さて、このように一旦は三好三人衆方が優勢となりましたが、態勢を立て直した織田信長は、決戦のために大挙して摂津国欠郡天満森へ入り、三好三人衆方の拠点である野田・福島を攻める準備を整えました。
 この動きにより、幕府・織田方勢力は勢いづき、三好三人衆勢を圧倒するかに見えましたが、9月13日に大坂の石山本願寺が蜂起し、形勢は逆転します。同月23日、信長は天満森から撤退を決めて開陣、兵の多くは防衛のために京都へ退き、近江国へも軍勢を割く必要性に迫られました。
 同月27日、三好三人衆方の篠原長房勢が兵庫へ上陸した事を機に、再び三好三人衆勢の攻勢が強まります。尼崎や西宮、堺などの大坂湾岸は三好三人衆方が実効支配するに至りました。

しかし、織田信長が禁裏を動かし、天皇による調停が呼びかけられると、三好三人衆を始めとした同盟勢力がこれに応じてしまい、信長は劣勢を仕切り直す事に成功しています。

最後に、以下、元亀元年(1570)の池田家内訌後からの猪名寺合戦に関係する要素を時系列に並べてみます。

(資料3)---------------------------
 【1570年(元亀元)】
6/18  池田家中で内訌発生
6/18  将軍義昭、近江国高島郡への出陣延期を通知する  
/19  池田勝正、将軍義昭へ状況を報告
6/19  将軍義昭、近江国高島郡への出陣再延期を通知する 
6/26  三好三人衆方三好長逸・石成友通が池田城に入ると風聞
6/26  池田勝正、将軍義昭と面会
6/27  将軍義昭、近江国高島郡への出陣を中止する
6/28  摂津守護和田惟政、同国豊嶋郡小曽根春日社へ宛てて禁制を下す
6/28  三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
7       摂津国河辺郡荒蒔城を荒木村重などの池田衆が攻める?
7     三好三人衆方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
7/6   幕府・織田勢、吹田で交戦
7/12  摂津守護伊丹忠親、尼崎本興寺へ宛てて禁制を下す
7/27  三好三人衆方三好長逸、摂津国欠郡中嶋へ入る
7/29  三好三人衆方安宅信康勢、摂津国兵庫に上陸
8/2   三好三人衆など、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
8/5   三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ付城を構築
8/9   三好三人衆方安宅信康勢、尼崎へ陣を移す
8/13  摂津国猪名寺合戦
8/17  三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
8/25  織田信長、摂津国へ出陣
8/25  三好三人衆方摂津国原田城(池田氏に属す)が自焼する
8/27  池田勝正など幕府・織田信長勢、摂津国欠郡天満森へ集結
9     三好三人衆方池田民部丞、摂津国河辺郡多田院へ禁制を下す
9/3   三好三人衆方三好長逸など、池田城を出て野田・福島の陣へ入る
9/8   摂津守護伊丹忠親・和田惟政、池田領内の市場を打ち廻る
9/10  織田信長、野田・福島城を攻撃
9/11  織田勢、欠郡中嶋内の畠中城を落とす
9/12  織田勢、野田・福島城を総攻撃
9/13  本願寺宗、幕府・織田信長に対して蜂起
9/23  幕府・織田勢、摂津国方面から総退却
9/27  三好三人衆方篠原長房勢、兵庫に上陸して越水城を攻める
9/28  三好三人衆方篠原勢、尼崎へ移陣
10/8  三好三人衆方篠原勢、伊丹勢を攻撃
10/10 三好三人衆方三好長治、尼崎本興寺内貴布祢屋敷へ宛てて禁制を下す
10/10 三好三人衆方篠原実長など、尼崎本興寺西門前寺内に宛てて禁制を下す

10/15 織田信長、伊丹忠親へ守備を堅くするよう音信
10/下  三好三人衆方篠原勢、越水城を落とす
11    三好三人衆方池田衆の中川清秀など、池田周辺諸城を攻める?
11/5  三好三人衆方池田民部丞、摂津国箕面寺に宛てて禁制を下す
11/7  三好三人衆方篠原長房、堺に入る
11/21 織田信長、三好三人衆と停戦して開陣する
12/8  幕府・織田信長、三好三人衆と和睦する
12/13 幕府・織田信長、浅井・朝倉方と和睦する
12/24 幕府・織田信長、石山本願寺と和睦する
---------------------------(資料3おわり)



2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


2016年10月4日火曜日

近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)

浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺
筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。
 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内します。
※大阪府の地名2 P968

(資料1)-----------------------
◎西光寺(東大阪市吉原)
浄土真宗本願寺派、山号霊松山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると永正5年(1508)正善は、俗名を佐々木(大原)重綱といい、江州佐々木氏の一族で、文明年中(1469-87)戦乱を避け当地に移住。久宝寺村(現八尾市)にいた蓮如に帰依して出家し、今米村の中氏の援助で当地に道場を創設したという。もとの山号は好月山という。現寺号となったのは正保4年(1647)。当寺の住持藤井氏は豊臣方の武将木村重成の縁者で、重成も幼少の頃から当寺に出入りしている。その子、門十郎は藤井家の養子となり、代々当地一帯の六郷庄の大庄屋を務めた(大阪府全志)。
-----------------------(資料1終わり)

それから、西光寺で直接お聞きしたところによると、佐々木氏が河内国内に入国したキッカケは、福万寺城への入城だったらしいとの事です。それについて、その伝承を裏付ける資料があるので、ご紹介します。
※日本城郭全集9 P143

(資料2)-----------------------
◎福万寺城(八尾市福万寺町)
福万寺の三十八(みとは)神社の境内が城址である。文和年間(1352-55)、近江守護佐々木氏の一族の佐々木二郎盛恵が居城した。その後、廃城となり、その後に三十八神社を建てた。(吉田 勝)
-----------------------(資料2終わり)

この福万寺城は、発掘などがされておらず不詳ですが、福万寺地域には慥かに伝承が残るようです。そしてこの城は、その名の通り福万寺村にあり、その村については以下のようにあります。
※大阪府の地名2 P1015

(資料3)-----------------------
◎福万寺村
河内郡に属する。玉串川沿いの若江郡山本新田の東にあり、村の北半は東方恩地川まで、南半は恩地川を越えて更に東方に延びる。耕地は碁盤目状の区画を持ち、古代条里制の遺構とみられる。十三街道が通る。村名となった福万寺は、いつ頃の寺で、いつまであったか不明。
 「河内志」は古跡として廃福万寺をあげる。産土神の三十八神社の地は、鎌倉時代に佐々木盛綱の孫佐々木二郎盛恵の拠った福万寺城跡と伝える
 村高は、正保郷帳の写と見られる河内国一国村高控帳で1,184石余り。文禄3年(1594)12月、村高のうち52石余りが北条氏規領となり(北条家文書)、以後狭山藩北条領として幕末に至る。残りは寛永11年(1634)大坂町奉行曽我古祐領となり、曽我領として幕末に至る。曽我氏の陣屋は当村にあった。
-----------------------(資料3終わり)

福万寺城及び福万寺村にある資料と西光寺の項目内容とは、人物名や時代が異なっていますが、近江国佐々木氏は、鎌倉から室町時代にかけて大きな勢力を持つに至ります。
【参考サイト】
河内福万寺城(お城の旅日記)
福万寺城跡(兵どもが夢の跡)

それから、それを裏付けると思われるもう一つの資料をご紹介します。河内郡の隣りの若江郡に、若江城があったのですが、この城にも佐々木氏に関する伝承があります。
※日本城郭大系12 P109

(資料4)-----------------------
◎若江城(東大阪市若江本町)
若江城の名が歴史上記録された時期は、大きく二つの時期に分けられる。最初は創築者畠山氏の時代、第二の時期は天文(1532-55)から天正(1573-92)年間である。
 若江城は、高屋城を本拠とする河内守護畠山氏が築城し、代々守護代遊佐氏を置いて領国守護にあたらせた城であった。創築年代は明確ではないが、南北朝争乱のようやくおさまった、明徳・応永年間の早い時期、畠山基国の時と推定されている。
(中略)
天文初年、若江城は近江守護佐々木六角氏麾下の若江下野守兼俊の居城であった。天文6年、若江兼俊は佐々木氏に背き、大軍によって当城を包囲された。このため、兼俊およびその父円休は、降伏開城し、高野山に追放された。跡には堀江河内守時秀が城主として配された。その後城主は、若江河内守実高(天文11年頃)、若江下野守行綱(同21年6月没)、堀江河内守実達(弘治3年(1557)6月没)、山田豊後守定兼(永禄4年(1561)9月没)と替わった。この山田定兼は、近江・河内両国で5,000貫を領していたという。
(後略)
-----------------------(資料4終わり)

ちなみに、福万寺城は若江城に近く、郡毎にあった城の時代に敵対したり、はたまた、何か連携するような関係にあったかもしれません。そして福万寺の北東方向には、池島城跡もあります。
 また、上記の「資料4」にある、天文初年頃、本願寺の当主などの日記『証如上人日記』『私心記』にもやはり近江国佐々木氏関連の記事が多く見られます。この当時、本願寺教団の本拠地は、今の大阪城と同じ場所にあり、その当主がが佐々木氏を重要人物の動きとして日記に書き残しています。佐々木氏とその関係者が、大坂や近隣に来たり、直接音信したりもしています。

それから、歴史の専門機関などへ聞いてみると、河内地域には近江国にゆかりを持つ場合も少なからずようです。しかし、この西光寺のそれについては未知だったとの事でした。
 いずれにしても、伝承というのは割と正確な方向性を持っていると感じているのが、個人的な経験です。根も葉もない、捏造的なものは殆ど出会った事がありません。日本人は昔から正直だったのです。

さて、西光寺と佐々木氏についてですが、そのキッカケとなった福万寺城は、八尾市域にあり、西光寺は東大阪市内にあります。その現代の行政界が、真相に近づくための感覚を益々阻んでいるところがあります。これについて、現在の東大阪市になる前の旧河内市の変遷過程の歴史をご紹介します。
※大阪府の地名2 P967

(資料5)-----------------------
◎旧河内市地区
東大阪市域のうち主に玉串川流域を占め、律令制以来の河内郡の西部と若江郡の北東部にあたる。河内市は昭和42年(1967)枚岡市・布施市と合併して東大阪市となった。中央部を玉串川が北西流し、近鉄奈良線が東西に通る。
 古代には河内湖の入江が広がり、朝廷に供御の魚類を貢進する「河内国江厨」が設けられた。平安時代にはこれに代わって大江御厨が設置され、中世には水走氏が在地領主として御厨一帯に勢力を伸張、室町時代には年貢物の流通にも関係して活躍した
 近世には、宝永元年(1704)の大和川付け替えにより水量の減少した玉串川、分流の菱江川・吉田川の川床、新開池に新田が開発された。
 明治22年(1889)の町村制施行により、河内郡東六郷村・英田村・三野郷村、若江郡若江村・玉川村・西六郷村・北江村が成立。同29年中河内郡の成立により同郡に所属。
 昭和6年東西の六郷村と北江村が合併して盾津村が成立し、同18年町制施行。同年玉川村が町制施行。同30年この2町3村が合併して河内市が成立。同年境界変更で福万寺・上之島(明治22年成立の三野郷村の一部)が八尾市に編入された
-----------------------(資料5終わり)

この行政界の変遷を見ると、昭和30年(1955)に福万寺地域は八尾市に編入されていて、それまで何千年と河内郡にあって、同郷的な感覚を維持してきた吉原村と福万寺村は、はじめて分断されたともいえるのです。今でも市や村が違えば、そこに住む人々の帰属意識は大きく違いますが、時を遡る程、やはり大きく違います。
 ですので、吉原村内の西光寺の創建と福万寺村内の福万寺城に、佐々木氏が関わっているのは、必然性の高い理由があると考えられる訳です。多分、佐々木氏が河内国河内郡を領知(地)した事による入郡であったのだろうと考えられます。
西光寺内の灯篭にある「平四ツ目結」紋
また、西光寺を訪ねてみると、寺紋は「平四ツ目結」で、近江佐々木六角氏と同じです。これもまた、伝承を裏付ける有力な要素です。
 それから、お寺の建物を見ると、少し違和感があります。浄土真宗系のお寺とは屋根の形状が違うのです。お寺の方のお話しによると、同寺は天台宗から改宗しており、屋根の形状は、その経緯を語るもの、との事です。
 元の山号は「好月山」で、現寺号となったのは、正保4年(1647)と伝わっている事から、その時に改宗があったのかもしれません。ただ、現在の本堂の屋根の形状との関係がどういう経緯があるのかは不明です。本堂の建設は、その後のような感じもしますし...。
追伸:西光寺は大和川付け替え事業の中心人物であった今米村の中氏とのつながりが深いお寺でもあり、その付け替え工事の関係で亡くなった方々も中氏がこのお寺で供養したとの事です。

さて、天台宗といえば、比叡山ですので、やはり近江国佐々木氏とのつながりを感じさせます。詳しい事は不明ですが、時代によっての変遷が、文字に尽くされていないところがあるようです。
 色々な地域の歴史を見ていると、村全体が改宗する事により、その村にあるお寺も変わります。こういった事例が時々あります。吉原村の西光寺もそのような事があったのでしょう。

それにしても、河内国に根付いた近江国の名族佐々木氏一派の歴史が今も残るというのは、大変興味深いです。

【追伸】
福万寺城跡と伝わる、現在の八尾市福万寺にある、三十八神社です。このあたりは微高地で、西側に玉串川に隣接しています。また、俊徳街道と十三街道が玉串川を渡ってスグ、集落で合流(現福万寺公民館南西角)し、東進します。寺内町・環濠集落である有力集落「萱振(かやふり)」へも通じています。勿論、玉串川は水運の用を成しており、交通の要衝でもありました。川湊的な要素もあったでしょう。
 ちなみに、現在の玉串川は、いわゆる水尾川で、新大和川開削によって干上がった後の現象で、川の底の最小限の流れで、後年にこれを農業用に灌漑したようです。玉串川の川幅は広く、
 さて、こちらの三十八神社は清掃が行き届き、大変気持ちの良い場所です。地域の方々に大切にされていることが、訪れるとわかります。また、この付近は条里制の痕跡が今も残り、生駒山脈を間近に見ながら、畑や田んぼを眺めると、古の空間に浸る事のできる貴重な場所たと思います。
 
 
三十八神社

玉串川堤道(北方を望む)


2016年10月1日土曜日

戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)

筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。
 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地です。神社の本殿に残されていた古文書により、天文元年(1532)に人々が移ってきた事が伝えられています。
 それは戦国時代です。神社と村の由来が、東大阪市(教育委員会)により案内されていましたので、ご紹介します。
 
(資料1)-------------
諏訪神社は、本殿内に残されていた古文書によって、天文元年(1532)信濃国諏原(すはら)之庄の住人諏訪連(すわのむらじ)の子孫らが当地に村を開き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三柱を勧請したとされています。
 現在はその中で諏訪大明神をまつる一社だけが残され、覆屋の中に大切に保存されています。この本殿は一間社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎(もや)の四周には写実的な花鳥彫刻をもつ蟇股(かえるまた)をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在するという特色を持っています。
 この本殿は、海老虹梁に江戸時代の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものと見られる事などから、室町時代に建立されたのち、江戸初期に大改修が行われたと考えられますが、建立年代が明らかで、市内に現存する最古の建築であるとともに、中新開の歴史を伝える貴重な記念物であることから、昭和49年(1974)3月25日に市の文化財(建造物)に指定されました。
平成16年3月 東大阪市
-------------(資料1終わり)

東大阪市中新開にある諏訪神社
秋になると祭りがあり、周辺各村(集落)から「地車(だんじり)」が繰り出し、賑やかに祝いますが、中新開村からももちろん地車が出されます。やはり由来が信州という事もあってか、その衣装が少し違います。浴衣のような衣装で、近隣の村とは一線を画す文化があります。
 さて、河内国の中部は、江戸時代中期に行われた大和川付け替え工事で、それまでとは大きく地形が異なります。
 現在出回っている大和川付け替え以前の地形をある程度精密に描いた地図がないかと色々探してみましたが、細かなところは省略してあるものが多く、復元レベルの地図は未だにありません。ですので、大和川の付け替えが完了した、宝永元年(1704)以前から存在する村を頼りに地形から推定して、細かな部分を再現させるしかありません。
 そういう意味では、中新開村の歴史というのはとても参考になります。大和川が開かれる172年前に、信州から今の中新開地域へ人々が移ってきているのですから、ここはその頃も陸地だった事が判明します。
 以下、『大阪府の地名2(平凡社)』東大阪市の項目から中新開村に関する記述を抜粋してみます。

(資料2)-------------
◎中新開村
河内郡に属し、吉原村の南にある。大和川付け替えまでは東方を吉田川、西方を菱江川が流れ、両川の氾濫原に立地したため、低湿地が多かった。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高215石余、幕府領、小物成として葭年貢銀7匁2分。寛文2年(1662)からは大坂城代青山宗俊領があり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大坂城代太田資次領で215石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同じ。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で218石余。慶応元年(1865)より京都守護職領(役知)、文政8年(1825)には菜種1.7石を芝村に売っている(額田家文書)。

◎新開庄
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これを受けた河内国守護細川顕氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
-------------(資料2終わり)

それから、この中新開村が属していた河内郡についての資料を以下にあげてみます。出典は、中新開村と同じです。

(資料3)-------------
◎河内郡
「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良(さらら)郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野池などの湖沼・湿地が存在し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しき■(呂?)かも」とある日下江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串川(吉田川)が若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)と八尾市の一部。

【古代】
(略)「大阪府の地名2」の「河内郡」の項目をご覧下さい。

【中世】
大江御厨に関係し、当地方の代表的中世領主として活躍するのが水走(みずはや)氏である。水走氏は平安時代末頃、当郡域の水走(現東大阪市)を開発した季忠を祖とし、当郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、当郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに、枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、当郡一帯を支配した。源平争乱時には当主康忠は鎌倉御家人となり本領を安堵されている。
 また日下(草香)を本拠地とする武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わっている。鎌倉時代郡内に奈良興福寺領法通寺庄(現東大阪市)、高野山金剛三昧院領新開庄があり、南北朝期には足代庄(現東大阪市・生野区)も史料に登場する。
 新開庄は弘元の乱の功によって、一時楠木正成の所領となったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、祈祷料所として京都東寺に寄進された。しかしその後も楠木氏の本拠に近い当郡には南朝の勢力が及び、正平5年(1350)北畠親房は足代庄を教興寺(現八尾市)の祈祷料所としている。
 延文4年(1359)新将軍足利義詮が南朝方に侵攻した時、南朝軍の水走氏らは北朝軍に降伏、続く南朝軍の反撃では、河内守護代椙原入道が水走の城に籠もって戦った。
 このように当郡は南北朝両勢力拮抗の地域として度々戦場となった。室町時代から戦国時代にかけても戦乱の場となる事が多かったが、これは隣接する若江郡の若江城(現東大阪市)が、河内守護所として河内の政治的中心地であったことによる。

【近世】
豊臣秀吉によついわゆる太閤検地は、文禄3年(1594)に行われ、同年の日付を有する日下村・横小路村などの検地帳が伝わる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳によれば、当郡は21村・石高14,616石5斗5升、うち田方17,013石2斗4升1合・畑方3,872石4斗3升6合、山・葭年貢高30石9斗3合、ほかに小物成として山年貢銀787匁4分4厘・山年貢米8石8斗6升・葭年貢銀192匁3分・「作相」麦41石4斗・枚岡明神領京銭20貫文。
 同控帳によると所領構成は、幕府領6,117石余・大坂町奉行曽我古祐領4,016石余・大和小泉藩片桐領2,039石余・旗本石河勝政領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が多い。元禄郷帳によれば26村・15,229石余。
 宝永元年(1704)秋に大和川の付け替えが終わると、翌2年から深野池の池床や大和川諸流の川床・堤敷などの干拓・開墾が始まり、当郡内にも河内屋南新田・川中新田(現東大阪市)が成立、これらは幕府領に組み入れられた。元文2年(1737)の河内国高帳では、25村・高約16,025石。内訳は幕府領約7,724石・小泉藩領約1,868石・旗本石川領1,000石・旗本彦坂領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が散在。天保郷帳では29村・高16,077石5斗。

【近代】
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。
 同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村・東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。
 同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
-------------(資料3終わり)

それらの要素の関係性から、中新開村付近を流れていた流域を推定してみると以下のようになるのではないかと思います。
 ただし、どうも、時代による自然環境の違いで水際の位置が変わったり、小規模な開発などで、いくつかの段階があるようです。図は、大和川付け替え後に行われた大規模な開発の領域と、それ以前の水際を分けてあります。大和川付け替え以前の開発は、明確な資料無く、個人推定です。
<図の変化概要>
初期の新田開発(紫色)→ 大和川付け替え後の開発(青色)→ 現代の地図 → 中世の水際推定

明治後期から現在の地図へ変化(紫色は最も早い開発)

大和川付け替え後の新田開発については、詳しく判っていますので、判断に迷う事はありません。しかし今のところ、それ以前の開発と思われる川田村のあたりがよく判らず、水際が読めていません。この川田村のあたりからもう少し東側に水が入り込んで、水際が東にあった可能性もあります。
 また、地図の右上にある「加納村」は、西加納、下加納と分かれていて、川田村は後年に独立したのかもしれません。それと、加納村は、地形的に素直に区分けするなら河内郡になろうかと思いますが、若江郡に所属しています。
 吉原村あたりの水際と湿地が加納村との境を分断するような環境であったため、そのような郡境であったのだろうと思います。もしかすると加納村は島のようになっていたのかもしれません。
 現在の栗原神社(式内社で鎮座地は動いてないらしい)付近から東側は、殆ど平坦地で、新開池と考えられる地域と海抜もほぼ同じです。ここには府道168号線が通りますが、その道を東方向に進むと「今米2丁目交差点」あたりから「川中北口交差点」にかけて、緩やかに地形が高くなり、「焼肉いちばん」のあたりでピークになっています。そこから更に東に進むと若干、下りつつ、300メートルほど先に恩智川があります。
 ただ、新開池や深野池へ流れ込む川は、天井川が多く、周囲より2〜3メートル程高くなっているようで、海抜が低いから川の跡という訳でもないところがあるようで、そこは判断が難しいところです。

大和川付け替え後の新田開発図
さて、そういう現在の状況も鑑みると、吉原村から東側は新開池からの水が入り込み、池状、または湿地になっていたのではないかと思われます。
 なおかつ、その高さより高い位置に川筋がある、恩智川が氾濫すると西側へ流れ込んで来るような環境にあったのではないかと思います。
 少し、参考に中野村についての解説をご紹介しておきます。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

(資料4)-------------
 若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」の字形で、自然堤防上に位置する。この事から考えて、かつて横枕西方を流れる菱江川から分かれて、新開池に流入する川があり、当村はその川床を開発して成立した可能性がある
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では、高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。
 元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14年(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免二ツ六分八厘。家数60・寺1、人数324。余業は、男は木綿糸・日用稼ぎ、女は木綿稼ぎ。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
【追伸:東大阪市公式サイト「歴史散策:C地区:荒本〜吉田」
中野村の日吉神社は、江戸時代以前には現在の高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと大山咋命(おおやまくいのみこと)をまつっています。安産の御守札を出していて、村中で難産する人はなかったということです。
-------------(資料4終わり)

『大阪府の地名』でも、上記の地図の紫色部分に川があった可能性を示唆しています。やはり自然地形として、ここに川があっために、若江郡と河内郡との境にしたと考える方が自然だと思います。
 また、想像を少し逞しくすると、地形の高低差はそれほど極端ではありませんので、この川は浅く、葦や葭が生い茂る湿地のような感じだったかもしれません。
 
それから、常に移動を必要とする現代生活からは、このような環境は不便に思えますが、戦国時代には寧ろ、その逆の感覚で、外敵を寄せ付けない環境を村の周囲に持つ方が、財産や村の防御の面で、都合が良かったのです。また、水辺や湿地から受ける自然の恩恵は、生活を支えるためには好都合でもあったのです。もちろん、水辺は舟での交通や輸送という意味では、それも村にとっては恩恵といえる要素です。ただ、水害は困りますよね。
【出典】大和川付け替え後の新田開発図:国史跡・重要文化財 鴻池新田会所HPより

筆者は特に戦国時代の後期の五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉国)周辺を専門にしていますので、そのあたりの時代に興味があります。その当時の河内中部地域の地形についても調べています。
【参考サイト】
付け替えられた大和川
300年、人・ゆめ・未来 大和川
国史跡・重要文化財 鴻池新田会所

今も旧集落地域を歩くと、興味深い立地や水害への備えが家の造りから解ります。地形そのものやそういった歴史的な痕跡が手がかりとなって、川の跡が判ったりするのも感慨深いです。
 それから、これらの川が境になって郡が分かれてもいます。菱江川の東が河内郡で、西側は若江郡です。戦国時代には、郡が違うと領主も違うので、共有している利益・利害も違ったりします。そういう何か、川を挟んで睨み合うような、不幸な出来事も長い歴史の中で何度かあったかもしれません。

今年放映されている「真田丸」の時代にも河内国はこういう状況にありました。地図の下(南側)にある 暗峠奈良街道は、大坂の陣の合戦でも徳川家康が通った道です。また、大坂城の攻防戦では、若江郡も戦場になって、合戦が行われていますので、隣接する河内郡も巻き込まれたものと思われます。