2016年3月16日水曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌の様子とその後の勝正の動き)

織田信長は、阿波・讃岐国の大名三好氏の勢力が西から迫る事は早くから想定しており、金ヶ崎城から京都へ戻った時には、暫くとどまって、その動きを観察していたらしい。
 しかし、信長にとっての最大の誤算は、近江国の姉川方面での決戦が見え始めた重要な時に、摂津国池田家中で内訌が起きた事であった。この事により瀬戸内海と京都が寸断され、逆に京都へ三好勢が直接進攻できる状況となった。また、この池田家内訌に影響を受けた原田家など近隣諸家も、池田家に同調する動きが見られた。

池田家内訌の原因は何であったのか。金ヶ崎城から京都へ戻った信長は、不穏な状況と向き合うにあたり、万一の場合に備えて、主立った国衆や勢力から人質を取った。
 しかし、これが感情的な反発の引き金となり、池田家中に鬱積した不満に火をつけたのではないかとも考えられる。将軍義昭に対して、「無理を重ねて尽くしても、信用されていない。」と、池田の多くの人々が考えたのかもしれない。また、誰を人質に出すかで議論が紛糾した可能性もある。
 そして池田家当主である勝正は、家中の不満を鎮める事ができず、勝正親派であった家老2人を失い、城を出る事となった。勝正は、その後も幕府方として行動し、間もなく豊嶋郡内の原田城を攻撃するなどして、幕府方に身を寄せつつ、池田家惣領復帰を目指して活動したと考えられる。

<参考史料>
1569年(永禄12)------------
11月21日 堺商人今井宗久、三好三人衆勢の動きを将軍義昭側近細川藤孝などへ通報
       ※堺市史5(続編)918頁など
1570年(永禄13・元亀元)
5月     幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
       ※大日本史料10・4・556頁(毛利家文書)、信長公記(新人物往来社)103頁など
6月2日   阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)189頁など
6月18日  将軍義昭側近細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・525頁(武徳編年集成)など
6月18日  摂津池田城内で内訌が起こる
       ※言継卿記4・424頁、多聞院日記2(増補 続史料大成)194頁など
6月26日  摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
       ※言継卿記4・425頁など
7月6日   幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
       ※言継卿記4・428頁など
8月10日  流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
       ※近世公家社会の研究22頁など
8月25日  摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
       ※言継卿記4・440頁など
8月27日  摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
       ※池田市史(史料編1)81頁、ビブリア52号155頁(二條宴乗記)など
1571年(元亀2)------------
8月2日   摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
       ※池田市史(史料編1)82頁など
1572年(元亀3)------------
1月4日   本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺衆中へ宛てて畿内の様子を音信
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁など
4月16日  摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁、信長公記(新人物往来社)125頁など
11月6日  将軍義昭、側近上野秀政へ池田家の扱いについて内書を下す
       ※戦国期三好政権の研究98頁、高知県史(古代中世史料)652頁など
1574年(天正2)------------
4月2日   足利義昭方池田勝正、本願寺勢に加わる
       ※続群書類従29下(永禄以来年代記)270頁など




0 件のコメント:

コメントを投稿