2015年3月7日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:二 指出と検地)

脇田氏によると「戦国大名織田政権も領域内において、指出・検地を実施し、土地所有関係を整備したことは明らかである。」としている *10。その中で荒木村重が、織田政権に属していた頃のものを見てみたい。
 「指出」については、永禄11年に近江国安吉郷等、翌年に堺周辺地域、天正3年及び翌年に山城国狛氏所領等で行われている。「検地」は、元亀2年頃に伊勢国の神戸氏所領等、天正5年に越前国で行われた。
 そしてこの時の高表示は、貫高が伊勢国、石高が近江・山城・越前国となっている。因みに摂津国垂水西牧南郷の年貢についての記録 *11では、基本的には石高で、それを貫高換算して並記もしてある。
 さて、「指出」とはその名の通り、所有者・給人・一職者等により年貢高を指出し、織田政権としてこれを把握した後に再確認し、支配を行なっていた。これは、同時に複数関わっていた権利の錯綜を整理し、一元的に権力と結び付ける意図もあった。対して「検地」とは、縄打ち・竿入れ等といわれ、現地にて土地丈量を行うものである。随って、強権により在地に臨む事となる。
 両者はいわば、自己申告と強制調査のような感覚であるが、何れにしても収入を権力者に把握されるのだから、当事者にとってはかなりの抵抗感がある。中でも検地は、よほど時期を見極めなければならない、大変な政治事業である。
 しかしながら、この指出・検地は、富の収奪という面もあるが、権利の整理と把握が一体化した目的であり、是非とも行わなければならない政策であった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(10)前掲註(6)、「一 検地・指出の実施状況」(第三章 第二節)。
(11)「南都代官方算用状」等。『豊中市史』史料編 二。





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