2015年3月13日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)

天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろうと思われる。
 天正3年2月当時、信長が「摂津・河内」という重要地域の一職知行を村重に約した意図は、それによる京都(政権)の安定と大坂本願寺への布石として期待しためと思われる。織田政権の基礎作りにおいて、土着性を持つ村重に対し、摂津国に加えて河内(半)国をも任せたのは、特別な理由があった。
 それは信長が、複雑な政治情勢を考慮して、元々基盤のない畿内で分国を持つ事に慎重だったのではないかともされており、摂津国大坂に本拠を置く本願寺宗と敵対するについては、早急に在地勢力を取り込んで体制作りを行う必要があったためと考えられる。
 しかしながら、荒尾市荒木家文書の内容の問題としては、天正3年11月頃から村重は「摂津守」を公(おおやけ)に名乗るが、それ以前に信長が、公文書に摂津守を明記するかどうかという点がある。
 ただ、これまでに述べたように、織田政権の領国統治概念と当時の状況から考えると、有望で実質的な一職者である村重に対する、正式な(若しくは、新たな加増分の支配者として)一職知行契約の提示と考えるならば、時期的にも矛盾は無いように思われる。実際にこういった形の一職提示は、浦上宗景・三村元親 *21・播磨国守護系赤松氏などへの対応で多く見られる。
 先にも述べたように、天正3年11月には確実に、村重は自ら摂津守を公に名乗っているが、それは信長からの条件を満たした事で承認され、公的に摂津守を叙任した背景があったからなのかもしれない。
 何れにしても村重のその行動を支えたのは、地域内の一職契約と守護的裏付けがあったためと考えられる *22。また、然るべき時期に契約が提示された事は、村重の織田政権に対する、将来への基礎的な信頼関係構築ともなり得たであろう。

拙いながらも筆者が述べたように、文書自体の真偽は別としても、荒尾市荒木家文書については、それを発行するに至る、当時の政治環境が整っていように思えるのである。学界での研究論文の一部ではあるが、それらに照らしても、同文書(史料)は、公的な文書として成立する背景が全く有り得ないとは言い切れず、その可能性について筆者は、再び多角的な検証を行っても良いのではないかと考えるのである。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(20)八木哲浩編『荒木村重史料』伊丹資料叢書四(66頁)。
(21)「織田信長が八月五日付けで三村元親へ宛てた音信」『黄微古簡集』岡山県地方史研究連絡協議会。
(22)前掲註(6)、「三 一職支配=一円知行の本質」(補論)。





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