2015年3月9日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:一 守護と一職支配の関係)

織田政権における一職支配がどのように成立したのか、脇田氏の分析 *13を見ておきたい。
 織田信長が尾張国の支配者となったのは、永禄2年(1559)春、同族で同苗の信賢を降した時であった。これを以て信長は直ちに上洛し、将軍義輝に参勤して御礼を述べている。
 これは、信長が実力で一国の支配者となった事に対し、その権力の裏付けのために将軍の承認を求めたのであった。永禄11年秋、信長の上洛直前までの名乗りは、一国支配権としての尾張守護権継承であって、尾張国の正統な支配者としての地位を示すものであった。地域支配権としての一職は、守護ないし、守護に准ずるものと捉えられている事が明白であると分析されている。
 それから後、信長が京都において独自に政権を築く中でも、それと同様の概念が存続していたと考えられる。『信長公記』に「惣別、荒木ハ雖一僕之身に候、一年公方様御敵之砌、忠節申候に付て、摂津国一職に被仰付」とあり、荒木村重が「摂津守」を名乗り、摂津国を支配した事は明らかであるから、一職支配と守護の関係は密接であった。織田政権の一円知行は一職支配として記載され、それが守護権の継承である事も明らかである、と述べられている。
 また、実質的に村重が摂津国内を切り従える過程で、在地における複雑な土地所有、権利関係、領主・農民の階級関係は、領主からすれば安定的とは言えず、村重としては、より上級の強力な権力の保証が必須であり、織田政権による一職を必要としたとも考えられている。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(13)前掲註(6)、「一 一職支配と守護権」(第三章 第一節)。





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