2014年8月15日金曜日

京都六条本圀寺跡を訪ねる

永禄12年(1569)正月、就任したばかりの将軍義昭居所で起きた京都六条本圀寺・桂川合戦は、池田勝正にとっても大きな出来事でした。

このテーマについても何れ詳しく取り上げたいと思います。このエピソードは、諸家の伝承で取り上げられていますが、多くが間違えて取り上げられており、それが勝正の名誉を損なっている元になっています。もちろん、事実とは違います。

さて、詳しい事は後日としまして、先日、その舞台となった京都六条本圀寺跡を訪ねてきました。今回は、簡単に写真でご紹介します。
 また、この歴史探訪にあたって、湘南情報数理化学研究所の主宰藤田眞作様のサイトにある「第20回 六条本圀寺はどこへ」を主に参考に下調べをさせていただきました。流石に学者さんだけあり、非常に詳しく調べられています。すばらしい資料です。
 また、「六条の地に於ける終竟の本圀寺」「京都六条本圀寺(本文)」というインターネットサイト(ページ)もありこちらも大変参考になります。こちらに写真や地図、見取図もあります。

本圀寺は現在、同じ京都市の山科区に存在するのですが、1971年(昭和46)まで、今回探訪した場所にありました。 本当に信じられないくらい、そこに本圀寺があったとは思えない景色でしたが、実際に歩いてみるとその大きさもですが、いくつかの名残があり、想像を助けてくれました。
 歩いてみると感じるのは、広大な寺地です。今は五条通りがありますが、これが寺地を東西に分断するカタチになってしまいました。その本圀寺の領域の広さを示すために、碑が南北に1つずつ建てられています。また、五条通りの周辺に塔頭寺院も残っていて、今もその永い歴史の縁を繋いでいます。また、1つだけ本圀寺の門も残っています。
 もちろん、創建当初からこの規模という事では無く、時代による変遷があり、最終的な大きさとしての名残だと思います。
 それから、永禄12年当時は、本願寺の施設はありませんので、この六条あたりではこの本圀寺が最大級の施設だったようです。

京都の神社仏閣はどこもそうですが、歴史深く、様々な有名なエピソードがあります。しかし、それら1つずつに触れていては、特定の視点を深める事はできませんので、永禄12年正月に起きた、三好三人衆勢による京都本圀寺襲撃事件に視点を絞っていきたいと思います。
 京都本圀寺を実際に歩いてみて思うのは「広大な寺地」です。これ程の寺地規模自体が、将軍義昭を守ったのはよく理解できます。臨時の幕府拠点となっていた事もよく解ります。当時の京都は、永年の戦乱で将軍の居所たる城や適当な屋敷も無く、一時的に寺を利用せざるを得なかった事も三好三人衆側への弱点ともなっていました。
 しかし、「将軍は京都に留まる」という、本来の職務を重視した将軍義昭政権は、そのためにいざという時の防御も考えて本圀寺にその居所を定めた訳です。
※義昭の前の将軍義栄は、京都に防御を満たす適当な場所が無いために、摂津国冨田に御座所を置いていました。

この三好三人衆による本圀寺襲撃事件をきっかけに、京都市中に急遽、将軍居所たる城の重要性が取沙汰され、二条城の建設となります。ちなみに、この時の二条城は、今の二条城とは違う位置に建設され、これに池田衆も役負担を命じられています。

詳しくはまた後日の特集でご紹介するとして、以下、歴史探訪の時に撮った写真をご紹介致します。

京都本圀寺寺地南側境にある碑


五条通を越えて北側にある本圀寺寺地境の碑

旧境内内にあたる猪熊通から北を望む

五条通北側にある智了院から南を望む

今も残る本圀寺の墓地

真如院(写真左)など今も塔頭が通りに並ぶ