2013年7月12日金曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)

池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。

ですので、宗田(信正)は京都に屋敷を持ち、管領と行動を共にしていたようです。将軍への毎月の挨拶などの行事には宗田(信正)の名前が見えます。更に信正は、将軍からも直接的に音信(指示)も受けるようにもなっており、「御内書」などをしばしば受けています。摂津・河内・山城・近江・丹波など、京都周辺の国々では特に、そのような傾向があったようです。
 また、それらの事が常態化すると、外聞的にも身分を整える必要があり、信正は天文8年6月に「毛氈鞍覆・白笠袋」を許されます。これは、格式ある大名のみに許された栄典ですが、室町末期には乱用されていたようです。しかし、社会的な効力はある程度持っていたようです。

ちなみに「宗田」とは、隠居(現代感覚とは違う)後に名乗った入道号で、それが法名ともなったようです。また、「宗」を使う所が三好宗三一統と何らかの共通性を感じます。今のところ、その理由について、はっきりはしていません。

それからまた、細川晴元は阿波国出身であったため、これを支えるために同国の武士が代々側近として取り立てられていたのですが、その大きな勢力が三好一族でした。そのリーダー的存在であったのが長慶と政長でした。
 時が経つにつれて、長慶は独自の理念を持つようになり、人望も得るようになります。それと対象的な運命を辿るのが晴元と政長です。
 こうなると両派は対立するようになり、政権内で武力衝突も起きるようになります。それが中央政権での出来事であったために、断続的に京都も戦火に包まれるようになります。
 不幸にして摂津池田家は、この闘争の中心に置かれる事となり、更に不幸だったのは、政長方につながりを強くしていた事です。
 
以下、前回のように、主な要素を抜き出してみます。

天文15年 9月3日
池田信正が細川晴元方から離反する。
天文16年 6月25日
池田信正、細川晴元に降伏。僧体となり恭順し、入道号を「宗田」と名乗る。 
天文17年 5月6日
池田信正、細川晴元から切腹を命じられる。
8月12日
三好長慶、三好宗三による摂津池田家への非行を細川晴元へ訴える。
10月28日
三好長慶、反細川晴元方として三好宗三嫡子政勝を攻める。

池田信正は細川晴元に取り立てられ、その事もあって大いに家運が開けたのも事実です。しかも、晴元の信頼厚かった三好政長と縁続きになった事で、更に安定の裾野が広がったかに思われたのですが、時代や人自身の変化もあり、思うような繁栄の未来は見出せなかったようです。
 信正にとっても、池田家中の人々の生命と財産を託され、発展し続けるための舵取りを任されている以上、それを削がれる可能性が見えた場合には、回避せざるを得なくなります。
 それが、天文15年9月の晴元からの離反でした。それは信正一人が決めた訳では無く、家中と話し合って決めた事でしょう。
 
しかし、池田家が頼りにした細川晴元の対抗馬である同じ管領候補の同名氏綱は、その勢力があと一歩及ばず、池田家の目論みは遂げる事ができませんでした。
 池田信正は軍事制圧され、降伏します。この時、やはり縁者であった三好宗三政長を頼り、細川晴元に詫びを入れ、停戦となりました。しかし、一旦は赦免されたものの、切腹を命じられるまでの約1年間、様々な思惑を交錯させつつ、検討がされたようです。

この間、晴元のその処分を巡って、色々と世間を騒がせる出来事がありました。それらの要素を箇条書きにしてみます。

  • 責めを受ける当人が、僧体となり恭順していれば、よほどの事が無い限り切腹には及ばない慣例があった中で、跡取りも正式に決めさせないまま、晴元が信正の切腹を命じた。
  • 摂津池田家の縁者であり、晴元の側近でもあった三好宗三が、池田家の取り計らいもせず、非道な処置を黙認したどころか、その実行を望んだ。
  • 三好宗三が、池田信正の処分保留中に、その財産を我が物にしようと介入した。
  • 三好宗三が細川晴元と共に、池田信正の跡取りの人事について介入した。

これらの事は、当時の社会(特に京都周辺、近隣地域)にとって、非常に関心を集め、それを巡る細川晴元の処置は大変問題視されました。その事もあって、晴元政権は信用を失い、一気に傾きました。

もちろん、池田家中でもこの問題は深刻化し、内訌に発展しました。三好宗三に関する一派は、池田を追われるなどしたようです。この闘争では、池田信正を補佐する家政機関であった池田四人衆が、次期当主となる候補を立て、別の一派も独自の候補を立てるなどして対立した様子が窺えます。

この時どうも、宗三とは別の血統の孫八郎を四人衆が立て、一方では信正系譜の長正が当主の座を巡って分裂したようです。しかし、その後は和解したらしく、最終的には長正が池田家の正当な当主として「筑後守」を名乗っています。

荒木村重の世となった天正4年に発行された『春日社領垂水西牧御神供米方々算用帳』には、景寿院分として5石の割り当て分が記されています。これは奈良春日神社に納める、今でいう税のようなものです。
 その内訳けが、二石 宗田御書出也。三石 右兵衛尉御書出也、御蔵納也、とあります。宗田とは信正、右兵衛尉は長正を指すと考えられます。この両者について、取りまとめを行っているらしい「景寿院」という寺(人物か)があったようです。この景寿院とは、信正・長正を供養する寺だったのではないかとも考えられます。また、この両者に関わる事が、景寿院を通して管理されているところを見ると、信正と長正は親子だったのではないかと思われます。

結局、池田家は時代の政治状況や色々な要因が関係して、三好宗三(政長)の血統が当主に就いたようです。しかし、これが三好長慶政権内でも良い方向に作用し、池田長正の代でも発展の基礎となります。これは、後に三好三人衆の一人となる同名下野守との関係があったためだと考えられます。

という訳で、次回は三好下野守(宗渭)について考えてみたいと思います。






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