2013年4月29日月曜日

元亀元年夏の摂津国野田・福島の戦いと野田ふじ

摂津国の戦国大名池田勝正も参陣していた元亀元年(1570)夏の野田・福島城攻めについて、永年気になっていました。
 江戸時代、そこは藤の花の名所としても知られる所となりました。
 藤の花は、家紋のモチーフとしても用いられる程、日本文化に深く根付いた植物です。また、藤の花は「藤原家」の象徴でもあり、その縁を持つ春日神社や本願寺宗系の紋にも使われています。

近頃特に、桜がもてはやされていますが、藤の花も歴史は古く、また、花自体も繊細で可憐な趣を持ち、日本を代表する花の一つです。

平成25年(2013)4月28日、そんな「野田の藤」を見に、大阪市福島区玉川を訪ねてみました。少し盛りは過ぎていたものの、すごくキレイに可憐な花をつけていました。
 今まであまり、じっくりとは見なかったのですが、改めて見てみると、その香りや色合い、繊細さなど、とても魅力的な世界観を持つ花です。キレイでした。

さて、野田・福島の戦いについてです。この付近の場所には城があったとされていますが、詳しい規模と位置は未だ不明のままです。
しかし、地元の福島歴史研究会などの調査により、少しずつ解明されてきているようです。調査資料は今のところ専門的な資料は出版されていないようですが、その成果は『なにわのみやび 野田のふじ』で紹介されており、興味深いです。
現在の大阪市営地下鉄千日前線とJR環状線「玉川駅」近くに立つ「野田城跡」の碑は、南西端にあたり、その中心部は、そこから北東方面にある圓満寺と極楽寺のようです。それらは共に野田城跡を示す、だいたい妥当な指標となっているようです。
 一方、福島城はというと、『なにわのみやび 野田のふじ』を参考にすると、野田城に連なる城のようで、野田城の東と北を守る外郭部に「福島」はあったのかもしれません。それは対岸の中之島とその間を流れる淀川とも深く関係していたと思われます。

野田・福島城は、洲というか、島というか、その陸地の南端部分で、その南と西側は瀬戸内海にも繋がり、補給はここから受ける事ができるようです。
 野田・福島の戦いでは、8,000〜12,000もの三好三人衆方の兵が入ったとされ、それ程の人数が居続ける場所と物資が必要ですので、それに耐え得る地を選ばなければなりません。
それから、その当時から既に野田村には本願寺宗の寺院も多くあったようですので、そこに陣を置くという事は、本願寺方とも話しはついていたと考えられます。

同年の春、織田信長は越前国朝倉氏を攻めるために出陣しましたが、近江国大名の浅井氏が朝倉方としての旗色を鮮明にさせた事で、信長は京都へ撤退します。
 信長はこの時、京都に10日間程居り、情報収集を行っています。その時既に本願寺の行動を気にかけており、敵である事は認識していたようです。

更に、将軍義昭と敵対する将軍義栄方の三好三人衆は、京都を中心とする近畿での政治に実績があり、侮り難い勢力でした。公家の中にも義栄方の勢力がありました。
 近衛前久は、藤原氏筆頭の血筋でしたが、前久は義栄方として大坂本願寺に身を寄せていました。
 それから、本願寺宗の中興の祖である親鸞上人は、近衛系の日野氏出身者で、その関係から前久は、大坂に身を寄せていたのです。
近衛氏が反義昭・信長であったのですから、春日社領や藤原氏に系譜を持つ氏族の糾合は得易い訳で、そんな繋がりから、春日領とも関係の浅く無い「野田・福島」方面は、三好三人衆方の攻勢拠点となったのでしょう。本願寺方が提供したと言えるのかもしれません。
 実際、6月には和泉国堺に浪人(三好方)が集まっているという情報が、幕府・織田方に寄せられていました。
 
はじめの頃、この合戦は、幕府・織田方が軍事力で優勢でしたが、そういう血の歴史が、それ以上の力を発揮したのでした。

本願寺宗は、教団存続のために検討を重ね、準備もし、多方面に協力を取付けた上で、「反幕府」に決した訳です。失敗すれば半世紀前の血みどろの歴史を繰り返し、教団存続の道も断たれます。本願寺宗は、慎重に慎重を重ねた結果、武力に訴える道を選んだのだろうと思います。

摂津国野田・福島の戦いは、本願寺教団にとって、運命の場所と瞬間になりました。