2013年1月1日火曜日

河内国枚方城

枚方の京街道沿いに残る旧家
枚方城についてネット検索してみると、あまり記述はありませんが、いくつかある記事も概ね同じ出典を元に紹介されています。豊臣秀吉時代あたりからの城としての記述で、それ以前は不明としています。
 また、『大阪府の地名」や『日本城郭大系』を見ても、全容が明らかになる程の発掘が行なわれていない事もあって、城としての規模や経緯は不明なままのようです。
 場所については、枚方市立枚方小学校付近とされていますが、ここだと少し見通しが悪いので、町を見下ろす感じの城作りがされていたのではないかと想うのですが。どうでしょうか。

枚方城について『日本城郭大系』によると、現在、枚方城は何らの遺構も残していないが、その立地は、枚方市街ではもっとも高所に位置しており、舌状台地の最突端で、三方は深い谷となっており、眼下には淀川から河内平野が一望に見渡せ、現在も城の立地条件は良好に読み取ることができる。
 また、 昭和54年(1579)、城跡の西端で宅地造成があり、崖を削ったところ、上端幅上端幅1メートル、深さ1.5メートルの薬研掘跡らしきV字溝が検出されたが、これは、西側谷を登り切った所に設けられた堀と推定される。
 なお、地名に「門口」と称する小字が残る。、とあり、城があった事は確実視されているようです。
 それから『大阪府全誌』には、枚方城址は、字上の町にあり。今は門口と呼べる小字ありて、地形自ら地堡ありしを想はしむ。城は本多氏の據りし所なり。大字岡一乗寺の記録に依れば、城主本多内膳正政康は豊臣氏に属し、土着の名族にして、百済王の裔なり。(後略)。、とあります。
 
京都に近い枚方は、水陸交通の要衝であり、当然ながら有力者も育ち、地域権益を守るための自治や物理的にそれを守るための施設、すなわち城があっても全く不自然ではありません。いや、当然の事と思います。
 
御茶屋御殿公園から高槻方面
城の視点で地形を見ると、眺望の利く小高い丘があり、至近距離に淀川があります。その淀川に注ぐ天の川が、枚方の町を囲むように合流しています。そこに三矢(みつや)という川港(川の関も)もあります。
 三矢の浜は、枚方宿の消費材搬入の他、周辺の茨田・交野両郡の村々にとっても重要な港で、肥料の搬入・農産物搬出の窓口として機能していたようです。また、乗客数も多かったようで、枚方宿は宿場としても賑わっていたようです。
 枚方には南への河内街道や淀川沿いの京街道が通り、大和国方面への道も通しています。これも枚方の町の発展要素のひとつでした。
 また、枚方宿を構成する岡(村)には、奈良興福寺の関が置かれ、宿内には更に、順興寺(現願生坊)・浄念寺(以上本願寺)、万年寺(真言宗)、一乗寺・台鏡寺(以上浄土宗)など多くの寺があり、寺内町のような性格を持つ部分があったようです。

旧田中家鋳物民俗資料館
それから、禁裏鋳物師を務めた枚方村田中家も丘の上にありました。今は跡地になっていますが、市立旧田中家鋳物民俗資料館として、移築復元されています。
※是非資料館を訪ねる事をオススメします。非常に興味深い資料館です。

同じ丘の上に、意賀美(おかみ)神社があるのですが、明治時代に合祀などがあって、ちょっとややこしいです。
 神社のある場所には、元々「須賀神社」「日吉神社」があり、古くから万年寺もありました。廃仏毀釈で万年寺が廃され、そこに伊加賀村から意賀美神社が移ってきて現社名となったようです。ですので、現意賀美神社の社地は、万年寺地で、万年寺の夕刻を告げる鐘は枚方の名物でもあり、枚方八景の一つでもあったようです。

さて、ちょっと当時の史料も見てみます。

永禄11年(1568)6月23日、大和国へ陣立てのために、近江国甲賀郡の国人山中蔵人某が、350人程で三矢に陣取ったとしています。『言継卿記』によると、この日の午前1時〜5時、同日午後3時〜5時頃に雨が降ったと記されています。

この山中蔵人とは、幕府(将軍義栄)方で、三好三人衆勢力の一部です。この頃、三好三人衆勢は、大和国の松永久秀を攻撃中でした。
 翌24日には、この山中蔵人勢に対して、松永久秀嫡子同名久通が、三矢を攻撃するために出陣してきます。同じく『言継卿記』によると、午前7時〜9時頃に松永久通は、1,000名程で山中蔵人勢を攻めた、とあります。この時、久通自身が300程を直接指揮し、搦手表には700程を配して攻めたとあります。
 
一乗寺にある枚方城主本多政康墓
結果は、「山中以下悉く討ち捕り云々。」とあり、松永方が勝ったようです。この三矢合戦の記述で気になるのは、「搦手表」に700の兵を配したという点です。

一方で、同月29日には、松永方の大和国での拠点のひとつである信貴山城が落ちています。
 ですので、松永久通の三矢攻撃は、この信貴山城に対する援護であり、補給の確保であったのでしょう。

それら一連の動きを見ると、三矢のすぐ東の丘に枚方城が、当然あったのだろうと考えられます。「搦手」と認識される形態の施設があったのでしょう。
 山中蔵人は枚方城に入り、350程の軍勢をそこに置き、その枚方城に関係の深い人物は、地域勢力である本多氏だったのでしょう。

順興実従墓
その後間もなく、枚方にあった順興寺は元亀年間(1570〜73)の兵火で焼失しているようですので、枚方城もその時に何らかの被害が出ていたのかもしれません。
 地形的に、この枚方の丘は細かく入り組んでいて、防御面においては独特の手法が取れるのではないかと思います。谷と丘との地形を活かすために、施設を複数箇所作っていたのかもしれません。
 
何れにしても、科学的な継続調査に期待したいところです。その結果、様々な事実が判明する事でしょう。

追伸:私は仰星高校の4期生で、高校時代は毎日、この枚方の旧市街を京阪電車の車窓から見ていました。当時もこのあたりは、古い町屋が密集していて、その時の私は漠然と「古い町があるな」程度にしか見ていませんでした。当時私は高校生ですので、そういった伝統的なものに今程興味が無く、また、見て回る機会もありませんでした。
※かといって、歴史に興味がなかった訳ではありませんでした。どちらかというと数学ができない分、歴史で点数を稼いでいた方でしたから、嫌いではありませんでした。
 その当時、現在の状態とは違い、塊や面として旧町が残っていたことは、京阪電車から見てもよく判りました。歩けば、とても貴重な景色が残っていたであろうことは、想像に容易いことです。「見ておけばよかった。...」今とても悔やまれます。これからは、急速にそういう事が起きるでしょう。できるだけ見ておきたいと感じています。

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