2012年10月24日水曜日

池田・箕面市境にある石澄滝と鉱山

五月山から北には無数の鉱山跡があります。五月山は北摂山塊の南端にあたり周辺には「間歩(まぶ)」跡も多く見られます。近くでは多田銀山が有名ですね。

しかし、池田市域にも間歩跡がいくつかあります。五月山の連なりで頭頂部にあたる六個山(396メートル)の西側に、間歩跡が残っています。貞享3年(1686) に鉱山が開発され、京都の浅川三郎兵衛という人が8年間に渡って銅を中心に採掘したようです。
 更にこの鉱山からは、銅の他銀も採れたらしく、貞享4年の資料(吉田家文書:大谷用水番水手形)には「銀山」と記述されているそうです。

その後、写真の場所から少し南で、太平洋戦争中にも採掘していたようです。そこは秦野鉱山と呼ばれ、主に鉛を採掘していたようです。

写真は、一番大きな間歩です。中には入れませんが、入り口は2メートル程あり、下向きに数十メートルはあろうかと思える、怖いくらいの穴があいています。

一番大きな間歩の跡

また、ここには石澄滝があり、落差は15メートル程でしょうか。落ちたら死ぬくらいの高さです。周辺は岩場で、道具が無いと、登るのは難しいところです。

石澄滝

そんな立地からこのあたりは修行の場で、その跡も沢山残っています。箕面寺や勝尾寺が近くにありますが、真言宗系の寺院(山伏の格好をする)が付近には多く、五月山は修行の山でもありました。ですので、池田の畑から高山、余野、止々呂美、勝尾寺、箕面寺方面へつながる山道もありました。

また、この六個山の南側、石澄滝が流れ出る丘陵地あたり、現在の箕面市新稲にある曹洞宗栄松寺は、池田一族の関係者が創建したお寺です。更に六個山の草地は、池田一族出身者が中心となって開いた新稲村の草地でもありました。今もその辺りは新稲の住所表示です。
 ちなみに、この石澄滝に発した流れは、南流し、石澄川となって箕面市瀬川地域で箕面川と合流。池田市井口堂地域を経て、猪名川へ注ぎます。

鉱山開発される前にも当然、池田城やその町とは関係の深い地域でしたが、その後もこのように池田と深い関係を持っていた地域です。


参考サイト1:大萱原鉱山(大阪府の鉱物産地を訪ねて・その14)
参考サイト2:鉱物趣味の博物館
参考サイト3:五月山遠望(わが街池田:池田城関係の図録)


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2012年10月14日日曜日

白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について

『陰徳太平記』の記述にも登場する藤井加賀守なる人物についてですが、直接的な史料はあまり無いものの、実在した人物であることは間違い無いようです。

幸福山太春寺の山門
いわゆる、池田二十一人衆の連署状とされる『中之坊文書』に、藤井権大夫数秀なる人物が署名をしています。また、荒木村重が高山右近など複数の人物宛てに発行した書状(『佐佐木信綱氏所蔵文書』)にも、藤井加賀守と思しき人物が見られます。

また、藤井加賀守の領地の寄贈を受け創建された幸福山太春寺(たいしゅんじ)があり、また、箕面市外院に藤井加賀守と伝わる供養のための墓*があります。それに荒木一族の関係者の墓も連なっています。
※供養のための墓とは、埋葬した場所とは別の、拝むための墓塔があり、この地域の独特とも思える文化があります。

史料としては数が少なく、判断に迷う所ですが、それにまつわる史跡も含めると、おぼろげながら推定もできそうです。
伝藤井加賀守の供養墓
藤井姓は、箕面市如意谷・外院地域には多くあり、戦国時代には藤井氏が、このあたりの豪族であったのではないかと思われます。
 藤井加賀守は荒木村重の重臣であったとも伝わっており、そういったところを考えると、それなりの統率者でもあった事が推測できます。豊島郡の東の端にあたり、今の箕面市如意谷や外院あたりに勢力を持つ豪族で、垂水牧であった萱野にも近く、箕面寺・勝尾寺、西国街道なども要素に持ち、荒木村重を支えた人物ではなかったかと思われます。

墓の裏に「荒木摂津守■■」
もちろん、池田勝正時代には、確実に池田家中の人物であったようですが、それ以前からも同様であったと考えられます。

今のところ、藤井加賀守についてはそんな個人的見解を持っていますが、今後また、何か解ればこのブログでご紹介したいと思います。


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2012年10月13日土曜日

旧暦8月28日は、今年のカレンダーでいうと10月13日です。

旧暦8月28日は、今年のカレンダーで言うと、10月13日です。
旧暦の元亀2年8月28日は、太陽暦の10月13日です。そうです、白井河原合戦は、こんな季節に行なわれたのです。

数字だけ見ていると、「夏」ですが、収穫の時期、しかもこんなに涼しい時期に合戦が行なわれました。朝晩は、随分と寒いですよね。また、『言継卿記』など当時の日記史料を読みますと、京都も奈良も晴れていたようですので、摂津国中部、白井河原あたりも晴れていた事と思います。
 歴史上の出来事を、現在に置き換えてみるのも、結構面白いというか、意義があります。

この合戦で、三好三人衆方池田衆の荒木村重や中川清秀は名を挙げ、近隣に知られた武将となっていきます。

白井河原合戦について、『陰徳太平記』の「白井河原合戦並びに高槻茨木両城合戦之事」を見てみます。
 (前略)。かくて各先陣2陣と手配りし、荒木信濃守村重、先陣にぞ進みける。(中略)。相続く士には、中川瀬兵衛尉清秀・池田久左衛門尉知正・安部野仁右衛門・星野左衛門尉・山脇加賀守・同名源太夫・野村丹後守・藤井加賀守・荒木善太夫・同名善兵衛・伊丹勘左衛門・川原林越後守・秋岡次郎太夫・本庄新兵衛・粟生伊織・安都部弥一郎・北の河原(北河原?)新五・同名与作・同名与一右衛門・福田午の介・佐伯庄衛門など皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。此の外二十一人衆に、池田清貧斎を始め、老功の士、勝正の幕下に属して、後陣を堅め、都合2,500余騎、上郡の馬塚に屯を張る。両陣白井河原を隔てて、互いに螺を吹き立て、敵の模様を窺いける。(後略)。

また、『耶蘇会士日本通信』の「1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰」にはこうあります。
 (前略)。翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)。彼(和田惟政)は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督(惟政)の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)。総督の首級は他の武士一同のと共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり、とあります。

旧暦8月28日に行われた白井河原合戦に破れた和田方は、本拠の高槻城に入り、防戦の順日を行います。また、幕府方はこの報に接し、三淵大和守藤英を急派させています。


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2012年10月12日金曜日

和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る

元亀2年(1571)8月27日、日本史上でも決して小さな出来事とは言えない「白井河原大合戦」の前日です。記録は陰暦ですので、現在の太陽暦に変換すると、本日10月12日です。
 田畑の実り豊かなこの時期に、反幕府方池田衆と幕府方摂津守護和田方が、攻防戦が繰り広げられて、いよいよ決戦のその時が近づきました。
 
この合戦で、池田衆が京都の至近である茨木方面で勝利し、京都の防衛に大きな穴が空いてしまいました。幕府方は京都を守りきれず敗走する事も十分にあり得た深刻な事態でした。なぜなら、一連の武力侵攻で池田衆が西国街道とその分岐点を押さえたからです。池田衆は、反幕府勢力であり、古巣の三好三人衆方です。

この白井河原合戦について、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した当時の報告書『耶蘇会士日本通信』には、その様子が詳しく記述されています。

そこには、(前略)、惟政勇を恃(たの)みて聞かず、高槻を去る3里計りの糠塚に陣す。其の翌日、即ち元亀2年8月28日に惟政は、白井河原に突撃して村重らの軍と戦い、(後略)、とあります。

白井河原の合戦は、早朝から行なわれていたようですので、前日に池田衆と和田惟政は陣取りを終えていたと考えられます。池田衆は今の茨木市郡のあたりに陣を取っていますが、ここに陣を取るには、宿久庄城や里城(同市藤の里あたりか)などを既に落としていたと考えられます。
 対する和田惟政は、自軍の体制が整わない中で快進撃を続ける池田方を口惜しく思いつつ、幣久良山(てくらやま)に陣を取り、池田衆の様子を見、諸方への連絡等、手筈を整えていたようです。
 惟政は、池田衆に不意を衝かれ、不本意ながらも白井河原付近まで池田衆の侵攻を許してしまいました。惟政は要害性があり、守りに適したこの付近で、池田衆の前進を阻む事ができると考えていたものと思われます。
 
池田衆は夜の間に伏兵を配し、惟政を誘き出す作戦に全力を尽くし、この先鋒に荒木村重が就いていたようです。村重は翌日の合戦で期待通りの活躍を見せ、近隣に名を知られる武将となります。

兎に角、双方共に「明日はいよいよ決戦」との決意を堅め、陣を周到に組んでいたと考えられます。

詳しくは、「白井河原合戦について」の項目をご覧下さい。


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2012年10月7日日曜日

441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣

元亀2年(1571)8月22日早朝、三好三人衆方池田衆は、幕府方摂津守護和田伊賀守惟政に決戦を挑むべく、3,000の兵を西へ向けて出陣させました。今から441年前です。
 また、当時の記録にある日付は旧暦であり、陰暦ですので、現在の太陽暦で言うと、正に「今日」です。

そうです。新米の季節です!

つい、グルメの方向に行ってしまいました。すいません。

さて、この時期に決戦を挑むというのはやはり、収穫をも手に入れるべく計画しているのは明らかだと思います。武力闘争に勝てば、今現在の実りと、その後の収穫も手に入れる事ができるのです。

池田衆は、和田方に領地を侵されていましたので、この一戦に心血を注ぎ、挽回を図ろうとしていたようです。池田衆は持てる力の大部分を注ぎ、準備も行ったようです「3,000」の兵とは、当時の単独動員数としても大きな部類です。
※控えなどで、他にも兵を残していたようですので、総力ではありません。

池田衆は、和田惟政と決戦を挑むべく、西へ進みます。3,000の兵を3隊に分けて、池田を発ちました。この3隊に分けた事も、計画があっての事だったようです。

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