2012年5月6日日曜日

永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭を奉じた織田信長が、みごとに上洛を果たしたことは、日本史上ではあまりに有名な出来事です。
 しっかりと周辺状況を分析し、勝算を立てた上での戦略と戦術は、それまでの他の武将とは大きく違いました。多少の無理があったとしても、致命的な要素では無く、計算と準備がそれを上回っていたのです。また、社会の信用を得るための重要な核も十分に認識しており、それは時間と共に理解(利益も)の輪を拡げたのも事実です。
 部分的には、綱渡りのような不安定な状況もありましたが、それを克服できたのは、それ自体が、摂理に沿った行動の結果であったと思います。信長にとってもこの上洛戦に対する取り組みは、ひとかたならぬ思いがあった事でしょう。

さて、そんな中、信長の計画は、ほぼ予定通りに進み、敵対勢力は総崩れとなって敗走しました。しかし、摂津国最大級の国人勢力である池田家は、三好三人衆方として抗戦の構えを見せ、織田勢に一戦を挑みました。池田勢はこの上洛戦で、最も激しく抵抗しています。

その時、池田城とその周辺で何が起きていたのかをご紹介したいと思います。また、池田勢が、なぜ抗戦し、その理由についてもお伝えできればと思います。

(1)なぜこの上洛戦が永禄11年秋だったのか
(2)中央政権を担った第十四代室町将軍義栄の事
(3)三好三人衆と松永久秀の長期抗争
(4)近江守護六角氏と西国方面の様子
(5)足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦
(6)池田城攻めの様子と詳報
(7)摂津守護に取り立てられた池田家について


2012年5月2日水曜日

奈良多聞山城の守備

永禄10年春から翌年夏までの奈良多聞山城攻めに参加した池田勝正は、その守備をどのように考えていたのかが気になっていました。

永禄11年9月、遂に多聞山城は落ち、松永久秀は、そこから北に2里程の鹿背山城へ移ります。逃げる事ができたと言う事は、そういう縄張りになっていて、その領域は守備環境も整っていたということになろうかと思います。

それにしても、1年以上に渡って、多聞山城を目指して攻めています。相当な守りになっていた事と思います。

不退寺側からの関西本線の様子
多聞山城の立地を見ると、その南を流れる佐保川を守りに用い、大豆山なども重視していた事を考えると、要所に迎え城を作っていたように思えます。
現在の奈良県奈良市法蓮町にある不退寺は、多聞山城を守るためには重要な場所になったのではないかと思います。
 そのすぐ北側に山塊の突端部分があり、現在の国道24号線とJR関西本線の通るところは谷になります。そしてそのすぐ西には、「宇和奈辺・小奈辺」をはじめとする古墳群があります。これは城のようなものです。谷を挟んで東西の山に、何らかの施設を設置していたのではないかと思います。


一条橋東詰
というのは、不退寺あたりから一条通りを東進されると佐保川を境とした防御が難しくなるからです。多聞山城の裏手にも回り込みやすくなります。また、永禄12年10月に松永久秀は、法蓮郷(位置不明)に新しく市を立てていますので、このあたりを城下とする概念はあったのだろうと思われます。
 多聞山城が1年半もの間、持ちこたえたのは超昇寺城を含めた、この西側の守りと柳生街道などからの補給が確保できていたからだと思います。
 ちなみに、超昇寺城は永禄11年に落城したと伝わっているようですが、それは概ね正確で、時期としては5月の後半ではないかと思われます。
 その理由は、5月19日に15,000程の軍勢を率いて、篠原長房 や三好下野守が山城国木津方面から南下し、西ノ京へ陣取ります。これは軍勢を大挙動員し、守りの穴を空けて、事態の打開に動いたのではないかと思われいます。この道程に、超昇寺城はあります。
 この事で、河内国から大和国へ入る東西に走る道、清滝街道とそれに加えて南北の道を確保して、多聞山城との縁切りを行なって、孤立化を図ったのだろうと思われます。



眉間寺道跡の碑
また、興福寺や東大寺方面が長期に競り合いの場となり、三好三人衆方が中々佐保川を渡る事ができなかったのも、そういった状況を物語るのかもしれません。


多聞山城は狭義の意味では、聖武天皇陵から奈良地方気象台のある山を含んだ部分(その間は眉間寺道)まで城郭にし、最終防御のための堅固な構えを作り、更に広域の防御連携を行なっていたと思われます。  

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)