2011年11月15日火曜日

白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

結果を構成する要素というか、出来事の背景を見る事は、非常に重要だと思いますし、それがいわゆる「歴史科学」だと思います。
 本来、「武力」と「政治」は共に存在し、どちらが上とか下とか、先とか後ではなく、それらに宿る権力は表裏一体であり、あたりまえの構成要素です。
 太平洋戦争後に敗戦国となった日本は、元来の自主権を喪失し、厳しい監視下に置かれる事で「武力」を手放す事となり、今ではその概念が政治の中で極小化してしまった、特異な政治環境となっています。ですので、現代から一般的概念として軍事と政治が一体だった時代を見る時、そのあたりの事情もしっかりと意識する必要があります。

しかし、地球上の大多数の国々は、武力が政治の一部であり続けています。それがために、戦国時代に日本人が経験した苦しみを、平成の世となった今でも堪え続けている国が多くあります。一方で、日本はある意味、別の苦しみの途中なのかもしれません。

永禄11年10月の将軍義昭政権樹立以降、義昭は将軍として誰もが認める存在であったかのように理解(解釈)される向きもありますが、実際に、当時の社会的認識は非常に不安定な状況であった事が解ります。
 義昭が将軍となる直前は、三好三人衆が推す阿波国内にあった足利家(阿波公方家)の義栄が、正式な将軍でした。しかし、その政権も半年程で、義昭を奉じる織田信長に遂われてしまい、その座を明け渡します。
 この両勢力は、そのまま朝廷内にも相似構図を作りだし、当時の中央政権に対する立場や利益をそのまま反映していました。
 政権中枢に就く側も遂われる側も、共に余念無く派閥形成に励み、権力を奪い合います。そして両勢力は利益を糾合できるような社会的身分の高い、名の通りの良い人物を味方に付けようとします。それは、永年熾烈な争いを続けた相手であっても、一時的であれ一致できる利益が目前に見えた時には、妥協もできる程でした。

永禄11年秋以降、中央政権から遂われた三好三人衆は、再度京都への返り咲きを目指して環境作りを進めていました。その事は、軍事的優位に立つ事も重要な要素です。なぜなら、話し合いでは折り合いがつかないからです。権力の発動も絶対的でない場合もあります。

さて、中央政権与党であった将軍義昭と織田信長の視点からは、様々な書物で記されている通り、皆さんのよく知っている歴史となっていますが、中央政権復帰を目指す三好三人衆と関係権力はどんな動きをしていたのかという点では、あまり知られていないように思いますので、そちら側からの視点で、動きを捉えてみたいと思います。また、京都を中心とする五畿内地域の有力勢力や伝統的権威は、どのように中央権力闘争を見ていたのかを考察してみたいと思います。

永禄11年9月、足利義昭を奉じて京都を軍事制圧しようとする織田信長勢に、身の危険を感じた三好三人衆方公卿や幕府要人は京都を離れます。間もなく将軍義昭政権へ帰参した人物もありましたが、そうでない人物は各地に潜伏して、反幕府方としての行動を続けます。遂われた側は、それが奪われた知行の回復など、利益に直結してもいたからです。
 それらの人々は反幕府としての勢力となり、その力を京都へ向けるように策を巡らせていました。阿波国足利家、管領継承者細川六郎(昭元)、公卿近衛前久、同烏丸光康、同高倉永相父子、同水無瀬親氏、また、本願寺宗当主の光佐、比叡山・石清水神宮寺など伝統的な宗門、堺・尼崎などの重要港湾の商工町衆などが、反幕府的行動を取っています。

斎藤夏来氏による、興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』があります。
 永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

これは非常に興味深い事です。

公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
 ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
 そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超はその時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。そして、後の将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示しており、ある意味これはその時の政治的なターニングポイントである事を表しているといえます。

それからもう一つ、将軍義昭の信用度の社会的認識を示す要素を考えてみます。

足利義昭が奈良を脱出し、近江国から若狭国を経て越前国朝倉領内に入り、遂に一乗谷へ至った頃の事です。
 義昭は決して優遇されたわけではありません。越前国の玄関口敦賀郡で長期に渡って足止めされ、やっと一乗谷へ迎えられるかと思えば、その外側にある寺地に起居させられ、朝倉家のために一働きさせられています。義昭もこの事で、朝倉氏の憂いを断ち、上洛へ向けた環境作りになると考えていたのでしょう。
 そしてそれは、義昭が永年僧侶であったため、朝倉氏にとって有益かどうか吟味されたのでしょう。天正元年11月以降の毛利氏との状況と全く同じです。
義昭は、朝倉氏と敵対していた加賀国の一向衆との和睦調停を見事に実現し、それが認められて、やっと朝倉氏の本拠である一乗谷朝倉邸への「御成り」となります。
 しかし、その後も朝倉氏は、義昭の望みに積極的に応じようとはせず、間もなく義昭とは物別れとなります。個人的にはこの事が、義昭の朝倉氏に対する遺恨となったのだろうと考えています。朝倉氏は、自分の都合だけを義昭に要求し、義昭の願いは全く聞かなかったからです。
 一方の朝倉氏の当主義景は、将軍義輝の不慮の死に、はじめは同情的なところがあったものの、ただ前将軍と血のつながりがあるだけの僧侶に、どれ程の実力があるのか、疑問視していたのでしょう。何の肩書きも、実績もない義昭に。また、武士としての教育も受けておらず、帝王学も身につけていません。

もう一人、公卿の近衛前久の動きも見ておきましょう。

橋本政宣氏の研究によると、公家衆の代表的存在である五摂家の筆頭近衛家当主前久(さきひさ)は、永禄11年から天正3年まで、7年間の京都出奔の際には、反幕府(反将軍義昭)戦線の一環として三好三人衆・大坂本願寺・越前国朝倉義景・近江国六角承禎・浅井長政・若狭国武田氏と交渉を持って、活動しました。
 前久は始め、大坂の本願寺に、次に丹波国赤井氏に寄寓していたようです。中でも元亀2年までの近衛前久の動きを見てみると、興味深いです。
永禄11年11月頃、前久は大坂本願寺に入り、保護を受けています。前久は早速、反幕府方として動いていたようです。当然、本願寺方との連絡や意志疎通もあった事と思います。
 翌年1月11日条の『二條宴乗記』に、前久の事が記されています。三好三人衆方の京都本圀寺襲撃事件に、石清水八幡宮寺が加担していた事について、前久も関係していた事が記されています。
 同年2〜3月にかけて、幕府方織田信長は、三好三人衆方に加担した堺・尼崎・兵庫の環瀬戸内海の都市(京都との関連都市)へ武力行使を行い、屈服(完全ではないが)させます。
 また、同年4月には、織田信長の命令で、山城国普賢寺衆の今中・上松・大西・田辺などが誅殺されています。この地域は、近衛家領でもあった事から三好三人衆方に加担する動きがあったらしく、信長はそれを制したようです。
 それからしばらく、今のところの私の知る限りでは前久の活動が史料に見られないのですが、元亀元年8月になって前久が、薩摩国の島津貴久へ音信しています。その中で、近江国南北(六角承禎・浅井長政)・越前国朝倉氏・四国衆(三好三人衆)が一味せしめ、近日自分も出張すると、伝えています。
 薩摩国内に近衛家の所領があったり、薩摩隼人ゆかりの山城国綴喜郡田辺と近衛氏が古くから関係があるなどで、両家は懇意にしていたようです。また、この頃に島津氏が所用で上洛する予定などがあって、両者は頻繁に連絡を取り合っていました。
 その中の近況として、京都周辺の情勢も記されています。それらの音信からは、近衛前久が反幕府勢力を束ねる「要」的な動きをしている事もわかります。

更にもう一人。

管領細川晴元の嫡子で正統な継承者である六郎昭元の動きも最後に見ておきたいと思います。正確にはこの時点で昭元ではありませんが、便宜上、昭元で統一的に記します。
 管領は中央政権の中枢を担う要職ですが、この昭元は、三好三人衆権力の中でも重要な位置づけでした。三好三人衆は、永禄11年秋に京都を落ちる時にも昭元をしっかりと保護し、手放しませんでした。昭元も初期段階ではその持てる権威で、三好三人衆の京都復帰を応援し、支えていました。
 永禄12年3月20日(年記は個人推定)、昭元は早速、丹波国人赤井直正に音信しています。その数日後の23日付けで、同じく直正に宛てて丹波国人らしき内藤貞虎が音信し、三好三人衆などの動きを伝え、今後の予定も伝えています。
 更に同年閏5月7日(年記は個人推定)、再び昭元が直正に音信し、出陣について手はずを整えて、油断の無いように、などと伝えています。
 この頃三好三人衆勢は、淡路国にあって五畿内方面を窺っていたようです。また、和泉国方面でもその一団が活動し、幕府方は気を緩める事ができない状態でした。
 こういった要素を細かく見ると大変な文字数になってしまいますので割愛しますが、三好三人衆勢は元亀3年の夏頃までは、五畿内地域での求心力を保ち得て、幕府方に対し、優位に立つ場面が何度もありましたが、結局求心力の中心軸がずれてしまい、局地勢力となってしまいました。
 元亀元年4月の越前国朝倉氏攻めと、いわゆる姉川の合戦においては幕府方が勝利したものの、同年9月の大坂本願寺の幕府(政権)離脱で、幕府方は一気に軍事的形勢は不利となります。
その流れに乗ろうと、三好三人衆は昭元を始め、阿波守護家筋の細川讃岐守真之や三好宗家の筋目に最も近い人物で、阿波国の実質的な統治者である三好長治も出陣させ、五畿内地域へ政治的な権力誇示を行います。
 私戦では無く、より広い人々のための利益、すなわち広義の意味合いを行動に帯びさせるためには、それを集約・象徴できる人物が必要となります。
 三好三人衆方にとってその一人が昭元であったわけです。また、元亀2年の初冬、より広域の勢力を糾合するため、また、束ねるためにも、旧誼でもあった反幕府的志向性の強い近衛前久とのつながりを、改めて強くする事を企図して、三好三人衆方は3,000石の知行も直接的に献じます。
 前久は大坂本願寺に起居し、三好宗家の嫡流筋は本国阿波を固め、昭元は多地域(管領家は代々丹波国に縁故地を持っていましたので、拠点は丹波だったのかもしれません)に広く対応し、更に、三好宗家の跡継ぎが元亀2年3月頃から三好三人衆方に復帰後、河内国北・中部を固め、これと共に松永久秀・久通父子も大和国北・中部に権力を保ちました。

こういった人々が、一団を形成していくのですが、それはその地域への保証の維持でもあり、同時に保護や利益確保の名目で武力を行使する理由ともなりました。そういった利益の確定が、軍事力をともなって地域社会の成立構図を再編していくのですが、それが三好三人衆方に有利に働いていたのは、元亀2年9月の比叡山焼き討ち頃までで、それ以降は、徐々に中心線というか、中央政権の争奪における権力の対する焦点が変わっていきます。
 また、軍事的には幕府・織田信長方に対して三好三人衆方優位でしたが、三好三人衆方の勢力に綻びが見られるようになり、三好三人衆に最も近い一族からも脱落者を出すようにもなります。反幕府方の「核」でもある三好三人衆の体制が崩壊する事態に陥りました。更に、連合諸勢力の協調が崩れてしまいます。

しかし、この権威保持の志向性は、対する幕府方とて同じで、政権を安定させるには必須条件でした。

さて、こういう要素を見ると、京都やその周辺では、元亀2年頃まで、将軍義昭が正式な幕府としての中心的地位にはあるけれども、各界の重要人物にはその永続性について、非常に不安視されていた事もわかります。