2011年6月15日水曜日

元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。

元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。
 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。

現在伝わっている通説である、織田信長の綱渡り的な行動としての朝倉攻めについては、やはり違和感があります。

浅井氏のどんな行動で、敵対が確定したのか...。「手紙」という方法も可能だとは思いますが、地理的に小谷城から越前国敦賀郡までは、延々と浅井領です。当然、浅井方によって、厳重に警戒されているでしょう。こういう使者が行き来する事は簡単ではないと思います。
 もし、お市が信長など本家から気持ちが離れていないのなら、その後の長政との関係と行動に矛盾があるように思います。そしてまた、内通者としての何らかのペナルティも無いようなので、そのあたりが、一貫性が認められないように思えます。

はたまた、この朝倉攻めでは浅井氏は「動かない」という条件提示を破った、というような事があったのかもしれません。引壇城には、浅井氏の手勢が入っていたとも後年の軍記もので伝わります。

何れにしても、明確な敵対行為が認められたため、浅井方の旗色が判明したという事だと思います。それが、何によるものだったのか、また近日にまとめてみたいと思います。




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