2011年6月26日日曜日

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)

元亀元年に幕府が行った、越前朝倉討伐には、幕府勢の主力勢力ともいえる3,000の軍勢を率いて池田勝正は出陣しています。
 この時の軍勢の中には、飛鳥井・日野氏など公家もおり、禁裏公認の幕府軍として行動しています。ですので、この軍勢に対する敵対行為は、禁裏に弓を引く事と同じで、いわゆる「朝敵」となってしまいます。
 織田信長は用意周到に準備し、決して浅井長政の離反に慌てふためいていた訳でもありません。歴史の事実としては、それすらも信長は考えていて、朝倉攻めは、その確認としての行動だったと言えます。間もなく起きる「姉川の合戦」が本来想定された状況であって、朝倉攻めと一体化した行動です。
 
この越前朝倉攻めからは、様々な思惑が見えて、大変興味深い歴史です。織田信長の考え尽くされた思考は、やはり凄いです。以下、それぞれ随筆的にご紹介します。

<研究思索>
元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて
池田勝正も従軍した、元亀元年の「金ヶ崎の退き口」について考える
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか
元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?
元亀元年の浅井氏謀叛は、織田信長に「突然」の認識があったのか
元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路
1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路 ←NEW(2016.3.4)

<発表テーマ:浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた->
はじめに
池田衆の実力
諸役負担、軍事負担、一部の権利返上
軍事行動の目的と池田家の役割
金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
内訌の様子とその後の勝正の動き
三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き







2011年6月15日水曜日

元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。

元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。
 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。

現在伝わっている通説である、織田信長の綱渡り的な行動としての朝倉攻めについては、やはり違和感があります。

浅井氏のどんな行動で、敵対が確定したのか...。「手紙」という方法も可能だとは思いますが、地理的に小谷城から越前国敦賀郡までは、延々と浅井領です。当然、浅井方によって、厳重に警戒されているでしょう。こういう使者が行き来する事は簡単ではないと思います。
 もし、お市が信長など本家から気持ちが離れていないのなら、その後の長政との関係と行動に矛盾があるように思います。そしてまた、内通者としての何らかのペナルティも無いようなので、そのあたりが、一貫性が認められないように思えます。

はたまた、この朝倉攻めでは浅井氏は「動かない」という条件提示を破った、というような事があったのかもしれません。引壇城には、浅井氏の手勢が入っていたとも後年の軍記もので伝わります。

何れにしても、明確な敵対行為が認められたため、浅井方の旗色が判明したという事だと思います。それが、何によるものだったのか、また近日にまとめてみたいと思います。




2011年6月8日水曜日

元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?

戦国大名というか、国人というか、近江国北部の有力者であった浅井長政などその一族については、織田信長と姻戚関係を持った事から、歴史の表舞台に取りざたされる事が比較的多いのですが、しかし、じっくり知りたいと思って調べてみると、意外と研究が進んでいない様な印象も受けます。
 最近は、大河ドラマなどで湖北方面が取り上げられる機会も増えて、ようやくその研究も注目されるようになったようですが、意外にも滋賀県は、県史も古く、地域史の科学的取組みはあまり進んでいません。はっきりいって、他県と比べて遜色あります。アカデミックな方面から知事になったので、この点も取組みが進むかと期待したのですが...。色々な事情があるのでしょうけど。

さてしかし、最近は、史料の発掘が盛んで、湖北方面での興味深い視点が増えていて、面白いです。日本文化の坩堝ともいえる近江国の研究が進むのは、大変意義有る事だと思いますので、期待しています。
 特に近年、流通や交通、出土土器の全国的な分布検討など、貴重な視点と政治的な史料の融合が始まっていて、革新的な動きが出て来ているように思います。

そういった研究を興味深く読んでいて、これまでの私の摂津国人池田勝正研究を重ね合わせてみるとまた違ったものが見えてくるようになりました。
 今も昔も変わらない、「お金」の問題です。経済的観念は、あまり時代性は関係無いように思います。

そんな事を考えていると、元亀元年の幕府・織田方による朝倉攻めの折、浅井長政が朝倉義景に加担したというのは、何も不自然な事では無く、浅井氏は湖北の交通・物流拠点を侵される危険性からの自衛的対抗措置を採る事に決したのは、理解できる事です。
 朝倉氏の旧誼を重んずる判断からではなく、若狭国小浜や越前国敦賀から京都・奈良・大坂への物流拠点としての湖北は、朝倉領内の経済概念と一体化した地域であった事から、浅井氏はその点で織田信長に抗する決断をしたのだろうと思います。
 実際、大坂の本願寺寺内町には、敦賀など越前国の商人が拠点を持っていたらしく、相互関係があった事が指摘されています。

その仕上げとして、官軍としての行軍という政治的な威容を調え、武力で押さえ込む方針を明示した以上、当時としての一般的な権利としての武力対抗を選ばざるを得なかったのだと思います。
 どちらかというと、朝倉氏がもう少し柔軟な対応を取っていれば、浅井氏も家名を存続できたのだろうとも思います。元々丹波国の一国人的な立場から、5代をかけて一国の守護となった経緯もあってか、モンロー主義のような直接的な利害の他は不干渉といった政治的判断がしばしば基準となっているようです。

それからまた、当時のならいとして、浅井氏に絶縁を示す場合の離縁が行われていなかった事は、交渉の余地を残すものだったのかもしれません。人質かもしれませんが...。
 いずれにしても、官軍に弓を退く立場となった浅井・朝倉など連合軍は、軍事的優位に立ちながらも、最終的に目的を遂げられなかった事実は、歴史が答えを出しています。
 結局、武力というのは、政治の一部であって、政治を尽くさないで武力ばかり使っても何の意味も無く、単なる大量殺人と犠牲で終わってしまう事が、歴史は何度も私たちに示しています。

そして「連合」というのは、やはり意思決定が難しく、重要なところで判断が下せず、結局は事態の打開ができません。「お金」の問題も当然あります。
 会社でも政治でもそうですが、協同や合同は結局、うまく行かない例が多いようです。個人的な経験からもそう思います。