2009年12月22日火曜日

池田勝正の最後 その2

2009年12月19日投稿分の続き、その2です。

天正6年の秋以降に小柿地域へ池田勝正が入ったのなら、また、別の想定が必要になります。

今のところ不確定なのですが、現広島県福山市神辺町に池田勝正そ祖に持つと伝わる旧家があります。
 私はそちらへお邪魔して色々と資料を見せて頂いたのですが、その中に天正六年十月十五日と日付の入った、池田勝正署名の木札がありました。その時の資料を総合的に見ても確定できるものは無いのですが、時代や場所からして、全く的外れでもありません。しかし、勝正が確かにそこに居たとするには、今のところ材料が足りません。

 もしもそれが、勝正の足跡だったとしたら、足利義昭に加担して備後国へ一時的に身を寄せ、何らかの理由で摂津・丹波国方面へ向かった事になります。
 天正六年の秋以降、荒木村重が織田信長から離反。足利義昭の京都復帰が、いよいよ現実味を帯びる事となりました。京都のその最も近いところに天下に名の知れた村重の領国がありました。
 ご存知の通り、信長は、村重の離反を深刻に捉え、直ちにこの制圧に全力でとりかかります。この時も信長の常套手段である、敵の孤立化を行います。補給と連絡を絶つために、要所を大軍で攻めます。
 摂津・丹波・播磨国境の近い、小柿や三田方面は特に重視して信長は軍勢を送り込みます。地図を見ればそれは一目瞭然です。摂津は荒木、丹波は波多野、播磨は別所が、足利・毛利方として連携しています。そんな地域に勝正は居た事になります。
 天正六年の師走には、三田方面も信長の軍勢が包囲網を形成して、大体の孤立化を終えます。ですので、秋から冬にかけて、小柿や三田方面では要所を取られまいと激しい交戦があったでしょう。
 勝正は足利・毛利方そとして、その一連の動きの中で織田方と交戦を行い、戦死したと想定できます。シナリオ(2)としてはそういう筋書きも描けるように思います。

2009年12月19日土曜日

池田勝正の最後

歴史学を学んだわけでは無いのですが、その真相が知りたくて、もう、10年以上も池田勝正の研究をしています。
 今もわからないところは多くあるのですが、素人とはいえ、10年以上も毎日のように当時の史料や伝聞資料を読んでいると、ぼんやりとその輪郭がわかるようになりました。
 謎の多い人物と言われている勝正ですが、天正6年の死亡説があります。これは、系図などにある記述から通説となっているものですが、今のところ、それを完全否定する要素も見当たらないので、それを元に色々と調べています。
 また、今の兵庫県三田市の小柿というところに、池田勝正の墓と伝わる墓塔があります。これも確定されたものでは無いのですが、近隣のお宅には勝正に関係する言い伝えもある事から、これも特に否定する材料も無いので、今のところそれを手がかりとして研究を進めています。
 それらの要素を集約すると、天正6年小柿で死亡したという事になります。
 また、この小柿という地域は、丹波国の八上城の後背地で、城の防御上非常に重要な場所にあたります。小柿は、摂津・丹波国境で、国境線は時代によって移動していたようです。それゆえに、天正6年頃まで、波多野氏が勢力を保っていた時代は、波多野氏の支配地であったと考えられます。
 天正6年秋、摂津国守護格の荒木村重が織田信長政権から離脱します。この時、信長方の明智光秀方に包囲されていた八上城は、摂津国境とつながり補給線が確保されます。
 さて、池田勝正は、一貫して足利義昭方として働いていました。ですので、天正6年秋以降であれば、足利義昭方波多野・荒木に味方して信長方と戦って死んだのかもしれません。
 天正6年秋以前であれば、波多野方として荒木方と戦って死んだということになるのかもしれません。また、何らかの原因で病死したという事も推定のひとつとして考えられますが、今のところその死因などもわかっていません。
 ぼんやりとした記事になってしまいましたが、天正6年、勝正は足利義昭方として、その有力な協力者である波多野氏を支援するために、八上城守備の為、重要な小柿地域に入った。
 これに対し、何としても先ずは、城の補給路を断って包囲を完成させる必要から、この地域を信長方は特に攻めた。勝正はそれまでの統率力を買われて、その重要な拠点である小柿地域を守備して戦う。また、この動きに永沢寺は波多野氏に協力して物資を運んだ。その伝承がある。母子地域も波多野方が確保していた模様。しかし、勝正は奮戦虚しく戦死、または、病死した。波多野氏は窮地に立たされる。
 しかし、それから間もなく村重は、信長方から離反。補給線は繋がり、波多野氏は、命をつなぐ事ができた。
 シナリオ(1)としては、そういう筋書きも書けるように思います。

 天正6年秋以降の可能性をシナリオ(2)として、この次の記事で考えてみたいと思います。

2009年12月14日月曜日

中世国人の研究って...

大阪府池田市に住んだことがきっかけで、摂津国人池田氏の事を調べ始めました。
 最初は全くの素人からのスタートでした。私は造形やデザインの勉強をしていましたので、 歴史学というかそちらの分野の事は全くわらないまま、興味だけで進んでいました。
 しかし、10年以上もやっていると、活字になった古文書は何とか読めるようになり、 書いてある事の意味も解るようになりました。
 そこから見えてきたものは、やはり、最初に感じていた通りで、歴史とは、勝者の 歴史でした。
 負けた側の歴史は、勝者に都合よく使われて、それはもう「悲惨」といってもいい くらいです。歴史というものを細かく見ていくと、そういった事も見えてきます。
 池田筑後守勝正という人物は、実質的に池田家の最後の当主で、また、同家の最盛期でもありました。そんな、世の中の天と地を経験したような人物ですが、 彼の人生は、あまり知られる事も無く、埋もれたままです。
 しかし、彼は非常に話題の豊富な人物で、歴史的な転換点に多数立ち会って います。織田信長との対戦、また、荒木村重や中川清秀を家臣に持ち、高山右近など ともキリスト教を通して、その資料にも現れます。
 今も池田勝正の研究を続けていますが、また、機会を見つけて、池田勝正の 人物像を紹介していきたいと思います。